真間の継橋

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真間の継橋
Mama no tsugihashi.JPG
基本情報
日本の旗 日本
所在地 千葉県市川市
交差物件 水域なし
座標 北緯35度44分16.9秒 東経139度54分28.7秒 / 北緯35.738028度 東経139.907972度 / 35.738028; 139.907972
構造諸元
形式 橋に模した記念物
関連項目
橋の一覧 - 各国の橋 - 橋の形式
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真間の継橋(ままのつぎはし)は、千葉県市川市にかつて存在したで、日本百名橋(番外)に選定されている。現在は川自体が存在せず、当地には石碑と説明板、橋の欄干を模した記念物が建てられている。

概要[編集]

「真間の継橋」の名は万葉集に登場する。歌枕として知られた存在であった。

足(あ)の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ (万葉集 14.東歌 #3387)

真間地区はかつて入り江となっており、弥生時代には既に集落があったとみなされている。またすぐそばには下総国国府があり、古来より行き交う船の停泊地として栄えた[1]

この土地は入り江と共に砂州が広がっていた。そこを往来するには橋が必要となるので、掛けられたのが真間の継橋である。“継橋”という名は、砂州と砂州を繋ぐようにいくつもの橋が渡され、それを1つの橋と見たことから付けられたという。この橋は真間の象徴として『万葉集』にも詠まれており、歌枕として知られた存在であった。

現在、継橋は弘法寺の参道の途中にわずか数メートルの長さだけ架けられている。しかも橋の下には川は流れておらず、かつて存在した橋の痕跡だけを記憶させるモニュメントとなっている。橋のそばには万葉集の歌碑があり、歌枕ゆかりの場所として保存されている。

当時、この一帯は「真間の入江」と呼ばれる海岸地帯で、弥生時代には既に集落があったとみなされている。ヨシの生い茂った砂洲が広がり、古来より行き交う船の停泊地として栄えた[1]。真間の継橋とは下総国府があった国府台へ向かうための橋で、砂洲を中継地点として複数の板橋を架け渡してあったことから「継橋」という名を得たとされる[2]

後世、近隣に伝わる手児奈の悲話の伝承とあいまってその名は広く知られ、1696年に鈴木長頼が推定地に「真間の三碑」を建てた。

幕末期、歌川広重は名所絵『名所江戸百景』の中で「真間の紅葉手古那の社つぎ橋」と題する一枚を描いている。この画題の意味は『真間の紅葉の名所(弘法寺)から「手古那の社」と「継橋」とを望む』ということで、画中をよく見ると遠方に橋が見えるが、これが広重の描いた「真間の継橋」であった。すでに新田開発も進み、周囲は農村地帯となっていたことがわかる。近年では都市化が進み、周囲は住宅街になっている。

かつての橋を記念して継橋は弘法寺の参道の途中にわずか数メートルの長さだけ架けられている。擬宝珠つきの真っ赤な欄干が建てられているが、その下に川は存在していない。

脚注[編集]

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出典[編集]

  1. ^ a b 真間の継橋” (日本語). 日本伝承大鑑. 2019年8月5日閲覧。
  2. ^ 真間の継橋 - 市川市観光協会”. www.ichikawa-kankou.jp. 2019年8月5日閲覧。

参考文献[編集]

  • 松村博『日本百名橋』鹿島出版会
  • 現地の案内看板

関連項目[編集]