石坂宗哲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

石坂 宗哲(いしざか そうてつ)は、江戸時代鍼医名跡。特に指定しない場合は、竿斎(かんさい)石坂宗哲を指すことがほとんどである。なお、江戸時代の出版物では「石宗哲」と「石宗哲」が混在するが、石坂が多い。また、明治あるいは昭和以降の出版と論文では石坂と記述される事がほとんどである。

  1. 竿斎 石坂 宗哲(かんさい いしざか そうてつ)1770年明和7年) - 1842年1月1日天保12年11月20日))は、江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の侍医を務め[1]、当時多数流派に分かれていた経穴(ツボ)を整理し、統合した。現代に繋がる針の基礎を作り、また、石坂流鍼術を創始した。名は永教、竿斎
  2. 石坂 宗哲(宗圭)は、竿斎石坂宗哲の娘婿で、初め宗圭を名乗った。
  3. 石坂 宗哲(その他)は、石坂宗哲の名跡を名乗った人で、町田栄治の著書に存在に確認できる。

竿斎石坂宗哲[編集]

経歴[編集]

1770年(明和7年)甲府国甲府に竿斎石坂宗哲は生まれた[2]。ただし異説もあり江戸生まれともある。後に石坂家が江戸の大火(後述)にあったせいか幼少の頃はほとんど記録がない。1796年寛政8年)12月22日、鍼科の創設を命じられ甲府へ赴任し、翌年、甲府医学所を興す[1][3]1800年(寛政12年)5月15日、任務を果たして甲府より江戸に戻る。1802年享和2年)11月22日、寄合医師に進み、禄百俵を給せらる(この時、御目見以上の身分になったものと推定される)。なお、正確な日時は未詳ながら、文化初年に奥医師(鍼科)に進んだものと考えられ、1812年(文化9年)12月16日、法眼に叙せられている。文政年間には、後述するようにフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと交流した形跡がみられ、そのことから「シーボルトの弟子」と記載される例[4]もあるが、むしろ(多少強引に)シーボルトに鍼を教えていたのは宗哲であり、そういう意味ではシーボルトの師匠(シーボルトおよび宗哲双方にその意志は無いが)というのがふさわしい。なお、シーボルトが帰国する1829年10月(文政12年9月)の直前、「文政十二年三月廿一日の大火記録」によれば「類焼卸医師」の住所氏名に「石坂宗哲 同宗貞」とあり、火災に遭っているようである[5]。シーボルト帰国後は、私塾陽州園を設立して後進の指導に当たった[3]1840年(天保11年)12月20日、隠居。子の宗貞が先に没していたため、孫の宗元が継いだ。翌年死去、深川増林寺に葬られる。

石坂氏は元文年間より江戸幕府に仕えていたが、『寛政重修諸家譜』編纂時点では御家人身分であったため同書には掲載されていない。また、宗哲は世襲名で子孫も襲用しており、そのため伝記には混乱が見られるので注意を要する。

業績[編集]

石坂流鍼術の創始者で、多くの著書を遺した。1822年にはオランダ商館医「的由児里无吉」(Nikolaas Tullingh)と出会い、東西の医学統合を試みて『栄衛中経図』を著した。同著は、パルヘイン(Johan Palfyn)著『人体解剖学書』の血管図を取り入れたものと見られる[1]。また、1820年3月15日にはオランダ商館医として来日していたシーボルトに『鍼灸知要一言』および鍼治療道具一式などを献上しているが[6]、シーボルトは1833年に著した"Niipon"(日本)において、石坂宗哲ともに鍼治療と治療道具一式を2ページにわたって紹介しているほか[1]、帰国後に『鍼灸略説』を翻訳したと思われる論文を学会に発表している[6]。海を渡った宗哲の著作物には"Sotcts"とラテン語表記されていた[6]。なお、シーボルトに献じた鍼は、浅草の神戸源蔵(かんべげんぞう,代々世襲名初代)のものである。この神戸源蔵の鍼は詳細に模写された論文が公開された。石坂宗哲が献じた針および書籍のヨーロッパにおける研究はほとんど進んでいないが、チャールズ・ガブリエル・プラパーズとアレキサンダー・ウッドによって注射器が発明されたのは、1853年である。

住居[編集]

住居は、江戸の日本橋濱町山伏井戸(明治期に両国に統合された後に、現在日本橋浜町)である。1776年から同じ山伏井戸に杉田玄白が住んでおり[7]至近距離である。また、安政六年の地図には、石坂宗哲家(この時の名義は子・石坂宗貞)の西4軒隣に杉田玄丹と記載がある[5]。杉田玄白は、1805年に江戸で亡くなっているが、終生この地に住んでいたとすれば宗哲35歳の頃までわずか数軒隣に杉田玄白が住居し、塾を開いていた事となる。この山伏井戸は至近距離の薬研堀と共に医者町を形成しており、娘婿の石坂宗桂宅は東北10軒隣に住んでおり、薬研堀の目前である。また、石坂宗桂宅2軒隣の水谷玄丹は一橋家侍医であり、また、宗哲家の道を挟んで3軒となりが一橋家下屋敷である。他にも至近距離に順天堂病院を創立する事となる佐藤泰然、シーボルト門下の竹内玄洞、奥医師多紀法印家、半井策庵、土生玄碩の子である土生玄昌家など当代随一の医者が集中しており、付近で医学会の情報ネットワークを形成していた[8]

人間関係[編集]

家族[編集]

  • 石坂しめ一(石坂宗権) - 竿斎宗哲の祖父と推測される人物。徳川吉宗の時代の鍼医で検校の地位にまで昇った。杉山和一の十大弟子の一人。宗哲を名乗ったかどうかは確認できない。
  • 石坂宗鉄 - 竿斎宗哲の父とされる。米山検校を宗哲が救った逸話が有名だが、年齢が合わないため、実際に救ったのは宗哲ではなく宗鉄である可能性が高いがはっきりしない。
  • 石坂宗貞 - 竿斎宗哲の子。鍼灸説約の冒頭に校正として「男 道常宗貞」と記載がある。なお、一部鍼灸説約の印字が悪く宗員と読めるものもあるようだ。江戸時代に出版された地図には宗哲の住んでいた住居と同じ位置に宗貞とある事から住居相続しており、当初後継者と考えられていた可能性が高いが病死した。
  • 石坂宗圭 - 竿斎宗哲の娘婿。後に、宗哲を襲名した。日本医師会 昭和8年5月例会に島田筑波が竿斎宗哲の没年を特定し報告[9]するまでは竿斎宗哲と混同されていた。
  • 石坂周造 - 石坂宗哲(おそらく宗圭)の養子。ただし、晩年に山伏井戸の実家で出産された逸話を語っており、娘婿の立場である宗圭の望まれぬ非嫡出子として生まれ一旦外に養子に出された逸話を語っている事から、宗圭の後継者病死の後に戻された実子(戻り養子)である可能性が高い。侍医の家に生まれ、石坂宗順を名乗り石坂塾に学ぶも、尊皇攘夷の意志を強く持ち、幕閣を斬るビラを配っていた所、幕府に捕縛される寸前に乳母から知らせを受けて出奔した。清河八郎の同志で、清河が幕府に殺されると、死体から清河の首を打ち取る振りをして首を取り戻し弔った。山岡鉄舟の義弟になり幕末に倒幕で活躍しようとしたが、ここで捕縛され切腹は逃れたものの牢に入れられ活躍できずにいた。同輩の士が維新の功績で知事などに栄達する中で維新後は実業家に進み、後に明治期に石油産業の祖として活躍した。日本の石油の父などと称されたが、やはり鍼医としては継がずに石坂流鍼灸術が途絶える遠因となった。豪快破天荒な性格で、時に山師などと呼ばれ、繊細で緻密な鍼医にはもともとから性格的に向かなかったと見られる。
  • その他 - 石坂宗哲の書状などに孫を失った記載があり。はっきりしないが病死した子孫がいく人かいたようである[10]。後継者に不幸が続き、後継に不安を持ち万が一の時には石坂流を頼むという趣旨の手紙が宗哲弟子の中山宗淑の子孫、町田家に残されているという。

門下[編集]

  • 中山宗淑 - 石坂宗哲の「第一門人」[11]と記載される事もある鍼医。江戸の本家石坂流が途絶えたとされる事が多く(ただし、完全に途絶えたかどうかも含めてはっきりしない)、現在石坂流を伝えるのはこの家系である町田家とされる事が多い。
  • 田中信行 - 鍼灸説約のあとがきに見える門人。あとがきには「門人 江左里正 田中信行識」とあり、当時としては貴重な約2ページに及ぶあとがきを任されている事から、かなりの高弟と思われるがはっきりしない。鍼灸説約のあとがきの記述日時は「文化壬申(9年)夏五月」で、東都書舗版、蜜月堂版共に記載がある。
  • 齋藤宗甫 - 鍼灸説約の校正を石坂宗貞と共に行った甲斐の門人。

交友および関係者[編集]

  • 杉本良仲 - 鍼医。鍼灸説約の序文に「極鍼経」と絶賛する文を寄せている。掲載時の署名は「侍醫法眼杉本良仲温誌」と捺印されており、当時を代表する人物だったと推測される。東都書舗版、蜜月堂版共に記載がある。
  • 它山 唐公愷 - 知要一言の序文寄稿者。序文には宗哲を竿斎先生と記載し鍼に解剖の知識を活かした事や西乙福兒篤(シーボルトの当て字)への言及があり諸国に鍼治療があるのを知らしめるとある。儒学者の堤它山の名が公愷であり、また、号として它山を使用していた[12]事から、堤它山の事と思われる。佐藤一斎の弟子で、佐久間象山から見て堤它山は兄弟子にあたり、また学問所では頼山陽などが同僚[13]である。
  • 土生玄碩 - 西洋眼科の始祖で宗哲と共にシーボルトにあっている[14]。後にシーボルト事件に連座し投獄。その息子の玄昌は同じ山伏井戸に住居があり近隣である。
  • 溝部益有山 - 鍼灸説約蜜月堂版(オリエント出版2004年再収録)にあとがきを載せた人物で豊後(大分)の人と記載がある以外詳細不明である。記述年日は「文化壬申夏」で、田中信行に先行して記述してある。東都書舗版の鍼灸説約には記載がない。
  • 中山作三郎 - 幕府大通詞(通訳の責任者)。文政7年にシーボルトと会える旨の書簡を宗哲とやりとりしている[15]
  • 美馬順三 - シーボルトに贈呈された宗哲の書を、シーボルトからの依頼を受けてオランダ語に翻訳した[15]
  • 石井宗謙 - 美馬順三が文政8年に早世した後を受けて、宗哲の書をオランダ語に翻訳したと推定されている[15]

宗哲が住んでいた山伏井戸には、かつて国学の四大人の一人と目された賀茂真淵が住を構えていたため、文化人も多く集まっていた。そのためか宗哲も文化人との交流が多く、日本医家列伝には風流の人と記載がある。また、蘭方医との知己も多く、シーボルト事件で連座した医者らの多くは知己であったと見られる。

石坂宗哲(宗圭)[編集]

竿斎石坂宗哲の娘婿で、石坂宗圭を名乗る。号は檪園[16]。後に、石坂宗哲を襲名し、宗哲の名前で『鍼灸茗話』(出版年不明)を出版しており、義父・竿斎宗哲の談話を書き残している[17]。また、大政奉還後に徳川慶喜が水戸にて謹慎した際の随員名に石坂宗哲が見えるが、彼が宗哲を襲名した宗圭であると推定される[18]1918年大正7年)10月21日東京美術倶楽部で行われた徳川侯爵家の由来品入札(所蔵品売買)では、出品された雪舟の山水画に石坂宗哲添状が添付されており、その後の生活がしのばれる[19]

石坂宗哲(その他)[編集]

石坂宗哲の名を襲名したのは他にもおり、町田栄治の著書にわずかながら記載がある[20]。ただし、明治の混乱期であり、石坂流の鍼術を継承する存在ではなかったようである。また、町田の著作以外に出てくることは無く、業績も確認出来ない。町田家は石坂家の遠縁である。

著作[編集]

  • 石坂宗哲(竿斎)の著作

石坂宗哲の書籍は、多くが再版されている[21][22] [23]。また、多くの研究も進んでいる[24][25][26][27]

書籍名 よみ 発行年 再 版 所 蔵 概 要 備 考
01 補註十四経 ほちゅうじゅうしけい[25] 1798 2004[25] 十四経発揮の補註
02 奇病源由 きびょうげんゆ[24] 1801 1992[21]1997[22]
03 痘麻一生一発論 とうまいっしょういっぱつろん[24] 1801? 1997[22]
04 吐乳論 とうにゅうろん[24] 1801? 1992[21]
05 七二天癸至之説 1806
06 宗栄衛三気弁 そうえいさんきべん[24] 1806? 1997[22]
07 鍼灸説約 しんきょうせつやく[24] 1811 1997[22] 江戸時代から東都書舗版と蜜月堂版があり、表紙、序文、後書きに微差がある。
08 鍼灸広狭神倶集 しんきょうこうきょうしんぐしゅう[24] 1819 1997[22] 宗哲は校のみ?
09 骨経(骨經) こっきょう[25] 1819?
10 鍼経原始 しんきょうげんし? 1820 2001[23] 霊枢の解説書
11 鍼灸治要一言 しんきょうちよういちげん[24] 1822 1997[22]
12 医源 いげん[24] 1824
13 栄衛中経図 えいえちゅうけいず[26] 1825 1977[27] 名古屋大学博物館[26]
ライデン大学
パリ国立図書館
千葉大学付属図書館亥鼻分館
ライデン大学所蔵はシーボルト経由
14 灸古義 きゅうごき[24] 1826前? 1997[22]
15 石坂流鍼治十二条提要 いしざかりょうしんちじゅうにじょうていよう 1826 1997[22]
16 扁鵲伝解 へんじゃくでんかい[24] 1832
17 養生偏 1832
18 内景備覧 ないけいびらん[24] 1840 1997[22]
19 九鍼十二原鈔説 きゅうしんじゅうにげんしょうせつ[24] ? 1997[22]
20 人身総名 じんしんそうめい[25] 2004[25]
21 古診脈説 こしんみゃくせつ[25] 2004[25]
  • 石坂宗哲(宗圭)の著作
書籍名 よみ 発行年 再 版 所 蔵 概 要 備 考
01 鍼灸茗話 しんきょうめいわ[24] ? 1997[22]
  • その他
    • 竿斎先生答問書 カンサイ センセイ トウモンショ 1997 臨床実践鍼灸流儀書集成. 第12冊

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c d 九州大学附属図書館「「東西の古医書に見られる病と治療」
  2. ^ 鈴木昶 日本医家列伝 p170
  3. ^ a b 江戸時代の鍼灸史〜石坂宗哲の鍼灸理論変遷からみた統合医療の可能性について〜小林純子
  4. ^ 総合リハビリテーション 6巻11号(1974年11月)特集リハビリテーションにおけるハリの応用筑波大学 芹澤勝助 西條一止
  5. ^ a b 切絵図考証 四東京都中央区立京橋図書館 昭和52年6月15日 郷土室だより(江戸時代の地図考証で石坂家付近図掲載)
  6. ^ a b c 19世紀ヨーロッパの鍼灸の受容におけるシーボルトと石坂宗哲の貢献について二松学舎大学 マティアス・ウイグル,町 泉寿郎
  7. ^ 現代文蘭学事始p141杉田玄白原著 緒方富雄 訳・解説 岩波新書1984
  8. ^ 切絵図考証 四東京都中央区立京橋図書館
  9. ^ [「法闡院病中日記」と島田筑波]順天堂大学 深瀬泰旦 日本医史学雑誌第52巻第1号(2006)
  10. ^ 石坂流鍼術の世界p15
  11. ^ 石坂流鍼術の特質
  12. ^ 堤, 它山, 1783-1849 - Web NDL Authorities 国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス
  13. ^ 堤它山
  14. ^ シーボルト記念館多摩大学教授 久恒啓一ブログ
  15. ^ a b c ライデン所蔵資料等によるシーボルトの鍼灸研究に関する再検討東洋医学雑誌 2011 二松学舎大学 町 泉寿郎
  16. ^ 医道の日本者版「鍼灸茗話」まえがき(昭和31年7月柳谷素霊筆部分)
  17. ^ 鍼灸茗話(柳谷素霊が頭註付き昭和13年謄写版昭和32年初版のオンデマンド復刻版)亜東出版 2012年1月
  18. ^ 茨城県立歴史館 徳川慶喜水戸へ謹慎する
  19. ^ 徳川侯爵家御蔵品入札静岡大学情報学部教授 高松良幸研究室 文化財と出会う
  20. ^ 石坂流鍼術の世界 三一書房p139−140
  21. ^ a b c オリエント出版社 1992 臨床鍼灸古典全書 第三十六巻国立国会図書館サーチ
  22. ^ a b c d e f g h i j k l オリエント出版社 1997 臨床実践鍼灸流儀書集成 第12冊国立国会図書館サーチ
  23. ^ a b 森ノ宮医療学園出版部 2001 鍼経原始石坂宗哲 著,長野仁 解題 国立国会図書館サーチ
  24. ^ a b c d e f g h i j k l m n 石坂宗哲関連文献1国立情報学研究所 NII学術情報ナビゲータ[サイニィ]
  25. ^ a b c d e f g h 石坂宗哲関連文献2 2004 鍼灸流儀書集成 : 臨床実践, 第13冊国立情報学研究所 NII学術情報ナビゲータ[サイニィ]
  26. ^ a b c 「栄衛中経図」の展示記録名古屋大学 西川照昭
  27. ^ a b 三一書房 1977 図録 日本医事文化史料集成 第2巻 日本医史学会編 慈恵会医科大酒井シヅ教授

関連項目[編集]

  • 石坂周造 - 養子(ただし、出戻り養子であり実際に血が繋がっている可能性がある。)
  • 米山検校 - 勝海舟の曽祖父。石坂家門前で行き倒れた際、同家に助けられ、石坂検校(おそらく宗哲の父)に入門した。米山検校から見て石坂家は恩人に当たる。