石垣山城

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石垣山城
神奈川県
本丸跡と天守台跡(奥)
本丸跡と天守台跡(奥)
別名 石垣山一夜城
城郭構造 梯郭式山城
天守構造 不明
築城主 豊臣秀吉
築城年 天正18年(1590年
主な改修者 なし
主な城主 豊臣氏
廃城年 天正18年(1590年)
遺構 石垣、曲輪、堀切、井戸
指定文化財 国の史跡
位置 北緯35度14分7.5秒
東経139度7分40秒
座標: 北緯35度14分7.5秒 東経139度7分40秒
地図
石垣山城の位置(神奈川県内)
石垣山城
石垣山城
石垣山一夜城から望む小田原城

石垣山城(いしがきやまじょう)は、神奈川県小田原市早川にあった陣城跡である。石垣山一夜城または太閤一夜城とも呼ばれている。

概要[編集]

豊臣秀吉天正18年(1590年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。豊臣秀吉は北条氏の本拠であった小田原城を攻略するために、大軍を動員して包囲中であったが、小田原城を見下ろす山上に城を、構築中は小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側にまるで一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、とする話が残る。一夜城の名もこれに由来する。

石垣を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であったとされる[1]。約3-4万人を動員し、4月から6月下旬までの80日で構築された(『小田原北条記』巻九の記述では、4月1日から築かれたと記す)。6月初頭に小田原の秀吉の陣へ陸奥国の大名の伊達政宗が出頭した際は未だ完成途上であったが、同地にいた豊臣政権中枢に近しかった茶人商人千利休が、茶人大名の古田織部に宛てた同月20日付けの書状には「今月中に出来上がる」という趣旨のことが記されており、6月26日に完成したとされている。およそ10日後の7月5日、北条氏直は小田原城を出て降伏を申し出ている。


秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りを行った者について、城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などがこの後に秀吉の命で築かれた肥前国名護屋城に非常に似ていることから、同じ担当者すなわち黒田如水であったと推測している。

1959年に国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている(史跡指定にかかわる内容は「石垣山」参照のこと)。

秀吉が伊達政宗と謁見した際、政宗に刀を預けて丸腰のまま陣所を案内したとされる巷談、秀吉が徳川家康に対し、関東移封を伝えたとされる巷説「関東の連れ小便」、どちらも舞台はこの城である。

歴史・沿革[編集]

現地情報[編集]

城跡は前述のとおり石垣山一夜城歴史公園となっている。

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 関東における石垣を多用した城として、新田金山城がある。

関連項目[編集]