石川利政

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石川利政
時代 江戸時代後期
生誕 天保3年6月23日1832年7月20日
死没 慶応4年8月28日1868年10月13日[1]
別名 謙三郎
墓所 東京都豊島区雑司ヶ谷霊園
官位 従五位下駿河守河内守
幕府 江戸幕府 外国奉行兵庫奉行江戸北町奉行
主君 徳川家茂慶喜
父母 父:石川源兵衛

石川 利政(いしかわ としまさ)は、江戸時代後期(幕末)の旗本外国奉行、最後の江戸北町奉行などを務めた。当初の名は謙三郎。従五位下を受け、駿河守、のちに河内守と改称する。

生涯[編集]

一橋徳川家家臣・石川源兵衛の子として誕生。文久3年(1863年)、小姓組より小納戸役となったが翌年に御役御免となる。

慶応2年(1866年)、幕府とロシア国間の樺太国境画定交渉の遺露使節団の一員に抜擢され、当時行われたロシア国との交渉記録を遺した。慶応3年(1867年)、帰国後は外国奉行に就任し、のちに兵庫奉行へと転じた。

慶応4年(1868年)、前任の小出秀実の跡を受け(最後の)江戸北町奉行に就任する。幕府より政権を譲渡された官軍が、江戸市中の取締を行うため奉行所を廃止する際、官軍側は石川を大目付に抜擢したが、石川は当時の幕府側の態度を批判し、遂には切腹したと伝えられる。

浅草長敬寺に埋葬されたとされるが、現在は雑司ヶ谷霊園に墓所がある。

脚注[編集]

  1. ^ 『幕末維新大人名事典』(新人物往来社、2010年)114頁