尾小屋鉱山

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尾小屋鉱山(おごやこうざん)とは、かつて石川県小松市尾小屋町に存在していた銅山である。

操業史[編集]

江戸時代から、試験的に金の採掘がなされてきた。天和2年(1682年)頃は金山として金が採掘され、その後廃山となったが、宝永年間(1704年-1710年)に再び金の採掘が行われた。しかし、金山としては品位が低く、盛業にはいたらなかった。地元の村人が副業として採掘していたものの、あまり価値はなく、徐々に衰退した。金山としては注目されなかった尾小屋鉱山だが、明治以降に銅山として脚光を浴びるようになる。

1880年明治13年)に加賀藩の家老であった横山家が経営に加わり、銅山としての試掘を開始。1886年(明治19年)に銅鉱石の新鉱脈が発見されてから隆盛期を迎える。1896年(明治29年)洪水を機に坑内の施設を近代的なものに変え、1903年(明治36年)には銅生産量が1,000tを超えた。

その後、1920年大正9年)の2度のストライキを経験するなど労働争議が頻発し[1]1931年昭和6年)には経営が行き詰まる[2]。その後、鉱山は日本鉱業の手に渡った。

戦時には火事や事故で設備がたびたび変わり、その都度新しいものへと変わっていったが、そのところから尾小屋鉱山の栄盛ぶりがうかがえる。

戦後昭和日本の工業化や経済成長による技術革新によりより高度な鉱山運営が行われたが、次第にオーストラリア南米諸国に市場が奪われ、先進国の日本で採れる高価なものより、発展途上の国々の安価な原料が好まれ、1962年(昭和37年)には北陸鉱山(日本鉱業の関連会社)へと経営者がまた変わり、1971年(昭和46年)閉山された。

鉱夫の出身は松任市(現白山市)や辰口町(現能美市)から大聖寺や山中(いずれも現加賀市)にいたるまで、広範囲にわたる。

「当時は尾小屋の街だけが小松の山に明るく輝き、尾小屋の街の姿が辰口からくっきり見えた。」と話す人もいる。

現在[編集]

金沢大学環日本海域環境研究センター尾小屋地下実験室」が旧尾小屋鉱山の廃坑道を活用して、世界トップクラスの微弱放射能測定を行っている。坑内岩石中の放射能が比較的に低く、また、金沢城解体時に破棄された鉛瓦を遮蔽材として利用することでその効果を高めている[3][4]

旧尾小屋鉱山跡に石川県立「尾小屋鉱山資料館」が設けられており鉱山関連資料が展示されているほか、資料館併設の尾小屋マインロードでは旧坑道約600mを利用して、近世から現代までの採掘の様子などが再現されており、当時の雰囲気を体感できる。併設の小松市立「ポッポ汽車展示館」には鉱山鉄道として敷設された尾小屋鉄道の保存車などが、保存・陳列されているほか、トロッコの体験乗車会などが定期的に催されている。

鉱山製錬所操業時に生成されたカラミ(スラグ)で作られたレンガ擁壁、排水溝、蔵や、コンクリートで作られた古い橋などが町の中に残されており、鉱山町独特の景観を醸し出している。 近年、ボランティアによるカラミ煉瓦構造物等、鉱山遺構の整備活動が行われているほか、尾小屋鉱山資料館主催で全国的にも珍しい形をしたカラミ煉瓦(亀甲カラミ)遺構を巡る見学会が催されている。

また、「赤目坑水処理場」および「倉谷坑水処理場」が設けられ、金属鉱業等鉱害対策特別措置法に基づく指定鉱害防止事業機関[5]が鉱害防止業務を実施している。

脚注[編集]

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関連項目[編集]

座標: 北緯36度17分44.8秒 東経136度32分19.6秒