石黒忠篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
検索に移動
石黒忠篤
いしぐろ ただあつ
Ishiguro Tadaatsu.jpg
生年月日 1884年1月9日
出生地 日本の旗 日本 東京府(現東京都)
没年月日 (1960-03-10) 1960年3月10日(76歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学卒業
(現東京大学法学部)
前職 産業組合中央金庫理事長
所属政党 (無所属倶楽部→)
緑風会
称号 勲一等旭日大綬章
従二位
勲二等瑞宝章
従三位
配偶者 石黒光子
子女 次男・石黒孝次郎
親族 父・石黒忠悳(貴族院議員)
義父・穂積陳重(枢密院議長)
義兄弟・穂積重遠(貴族院議員)
義兄弟・穂積真六郎(参議院議員)

日本の旗 第4代 農商大臣
内閣 鈴木貫太郎内閣
在任期間 1945年4月7日 - 1945年8月17日

日本の旗 第19代 農林大臣
内閣 第2次近衛内閣
在任期間 1940年7月24日 - 1941年6月11日

選挙区 (静岡県選挙区→)
全国区
当選回数 2回
在任期間 1952年5月6日 - 1960年3月10日

在任期間 1943年1月14日 - 1946年2月16日
テンプレートを表示
石黒忠篤

石黒 忠篤(いしぐろ ただあつ、1884年明治17年)1月9日 - 1960年昭和35年)3月10日)は、日本の農林官僚、政治家。

概略[編集]

「農政の神様」と称せられ、彼が農商務省農林省幹部として政策に関与した時期の農政は、「石黒農政」と呼ばれている。妻は穂積陳重の次女・光子。息子に石黒孝次郎、石黒光三。

経歴・略伝[編集]

この間、農業報国連盟理事長、満州移住協会理事長、日本農業研究所理事長を歴任している。農業振興、農村救済に取り組み、戦前における農政の第一人者として「農政の神様」と称せられた。また大正末期以降、小作立法制定に精力を費やした石黒であったが、1930年代には満蒙開拓移民に小作問題解決の途を見いだし、加藤完治とともにその推進役となった。また、戦争に対する態度としては日独伊三国軍事同盟に閣内では唯一最後まで反対していたという。

参議院議員時代は、緑風会に所属し、同会で議員総会議長を務める。憲法調査会委員も務めたほか、戦後も全国農民連合会会長、全国農業会議所理事、全国農業協同組合中央会理事等、農業関係諸団体の要職を歴任した。だが、七高時代からの親友で鈴木内閣で同じ閣僚であった東郷茂徳(元外務大臣極東国際軍事裁判で有罪となり獄死)との約束を守り、国政上の要職への就任は一切断って農業の再建と平和主義の推進に力を尽くした。

ちなみに憲法27条1項の勤労の義務条項の制定は、敗戦後の混乱下で日本人が二宮尊徳以来の勤労の美徳を失うことを恐れた石黒が友人の代議士の竹山祐太郎に相談して、竹山が勤労の重要性を新憲法でも取り上げるべきだと主張したことがきっかけであったといわれている。

栄典[編集]

位階
勲章

著書[編集]

  • 『米国の穀物取引と穀倉 附・加奈太の農民穀物販売機関』帝国農会 1918年
  • 『農林行政』日本評論社 1934年
  • 『農政落葉籠』岡書院 1956年
  • 『石黒忠篤の農政思想』大竹啓介編著 農山漁村文化協会 1984年

出典[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f g h i j 「石黒忠篤年譜」石黒忠篤先生追憶集刊行会編『石黒忠篤先生追憶集』石黒忠篤先生追憶集刊行会、1962年、pp.389-395.
  2. ^ 『官報』第5729号、昭和21年2月20日。
  3. ^ 『官報』第1849号「叙任及辞令」1933年3月2日。
  4. ^ 『官報』第4108号「叙任及辞令」1940年9月13日。

関連書籍[編集]

  • 日本農業研究所編 橋本伝左衛門ほか監修『石黒忠篤伝』岩波書店1969年
  • 小平権一『石黒忠篤』時事通信社〈一業一人伝〉 1962年 大空社より2000年復刻
  • 『石黒忠篤先生追憶集』石黒忠篤先生追憶集刊行会 1962年

関連項目[編集]

公職
先代:
島田俊雄
日本の旗 農商大臣
1945年
次代:
千石興太郎
先代:
近衛文麿
日本の旗 農林大臣
1940年 - 1941年
次代:
井野碩哉