社葬 (映画)

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社葬
監督 舛田利雄
脚本 松田寛夫
出演者 緒形拳
十朱幸代
江守徹
吉田日出子
佐藤浩市
藤真利子
若山富三郎
音楽 宇崎竜童
撮影 北坂清
編集 市田勇
製作会社 東映京都撮影所
配給 東映
公開 日本の旗1989年6月10日
上映時間 130分
製作国 日本の旗 日本
言語 日本語
配給収入 5.1億円[1]
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社葬』(しゃそう)は、1989年日本映画東映京都撮影所制作、東映配給。

概要[編集]

大新聞社の後継者争い、内幕をシニカルに描いたブラックコメディ[2]。会社版『仁義なき戦い[3]

あらすじ[編集]

全国紙の「太陽新聞」内部では太田垣会長派と岡部社長派の間で派閥争いが激化していた。ある日、定例役員会で社長派から太田垣会長の代表権と名誉会長職の解任が提出され、取締役販売局長の鷲尾平吉の棄権により一票差で可決された。太田垣はショックで緊急入院。社長派が喜んだのも束の間、今度は岡部社長が芸者相手に腹上死。社内は大混乱に陥り、さらに社葬の実行委員長として鷲尾が命ぜられる[4][5]

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

  • 監督:舛田利雄
  • 脚本:松田寛夫
  • 企画:佐藤雅夫
  • プロデューサー:奈村協、妹尾啓太
  • 撮影:北坂清
  • 美術:内藤昭、柏博之、松宮敏之
  • 音楽:宇崎竜童
  • 照明:加藤平作
  • 編集:市田勇
  • 助監督:藤原敏之

製作[編集]

企画[編集]

企画、及び映画タイトルは当時の東映社長・岡田茂[6][7][8]。「ショッキングなタイトルで迫力がある」と当時の映画誌に評された[9]。1987年6月の鶴田浩二葬儀で葬儀委員長を務めた岡田が本作のアイデアを思いつき[6]、企画会議で、佐藤雅夫プロデューサーたちに「『社葬の手引き』というパンフレットが隠れたベストセラーで8万部ぐらい出ている。社葬というのはいわば企業の大イベントであるし、厳粛にして絢爛たる葬儀の裏側では、意外な事実が進行していることもあるだろう。それがトップの交替劇であったら、人間臭い生々しいドラマが嫌応なく繰り広げられるんじゃないか、サラリーマン主役の面白いシャシンを発掘できるかも知らん、研究せい」と指示した[7]。1987年秋に松田寛夫に打診し[7]、1988年4月、岡田社長が正式に松田に「このタイトルでシナリオを書いてみろ」と指示した[6][7][8]。最初からタイトルは『社葬』と決まっていて[7]、松田はタイトルを聞いて同族会社のドロドロした血のドラマが、イメージとしてすぐ頭に浮かび、これは書きやすいと感じた[7]。舞台をどんな企業にするかは、絞り込むのに時間がかかった[7]。総原価(制作費+宣伝費)[10]7億円[9]。 

脚本[編集]

脚本の松田と奈村協、妹尾啓太両プロデューサーでチームが組まれ脚本が練られた。舞台をどんな企業にするかを佐藤雅夫らプロデューサーで議論し、新聞社を選んだ[7]。新聞社にしたのは、誰でも知っている、お客さんに分かりやすい、同時に新聞社内の仕事ぶりなどが意外に知られていないし、情報化社会の中で大きな存在である新聞社の内部を如実に見せることが出来たら、お客サンから『ホホッ、そうか』と好奇心が満たされるだろう、一般大衆が一番知っているのは新聞社だろうという理由から[7]。新聞社の設定を松田に伝えたが、新聞社の舞台のドラマはテレビの事件記者ものに見られるようにスクープ合戦に全てを投げ打って突進するというワンパターンで、意外にホンが書き辛い素材だった[7]。そこでそれまで誰も取り上げていなかった新聞社の販売部門を背景にしたらどうかと松田が提案し[7]、主人公・鷲尾平吉の役職を編集局を避け、取締役販売局長に設定した[7]。大企業のトップにまつわる裏話を岡田社長から聞いたり[8]、取材に半年かけた[7]葬儀社の方は宣伝になると協力的だったが、新聞関係は口が固く苦労したが、かなり際どい話を仕入れた[7]毎日新聞社社史杉山隆男の著書『メディアの興亡』が特に参考になったという[6]。また1987年に起きた秋田魁新報社スキャンダル(秋田魁新報事件)から主人公の人物像がヒントにされた[6]。さらに聞いた話だけでは満足できなくなり、先の三名で某商社トップの社葬に無断で紛れ込んで取材を敢行した[6][8]。脚本の松田は必要な取材の10倍分が集まったと話している[7]。内容は全て実話をモチーフにしたもの[8]。岡田社長が自身の企画でもあり心配し、何度も脚本の再検討が行われ、岡田が脚本を一つ一つチェックした[7]

監督[編集]

松田の脚本が上がった時点で岡田裕介プロデューサー(のち、東映社長)の推薦で舛田利雄が監督に決まった[2]。脚本が良く出来ていたため舛田は脚本をほとんど直してないと話している[2]。直した箇所は緒形拳佐藤浩市がシナリオでは二人とも日本大学卒となっていたが、日大から苦情が来て、それぞれ高卒定時制高校卒に変更した[2]たたき上げが出世するという設定[2]

キャスティング[編集]

取材の段階から主役は緒形拳でやりたいと候補に挙がっていた[7]。その緒形と十朱幸代は会社が決め、この二人以外のキャスティングは全て監督の舛田利雄が決めた[2]。十朱の役づくりのヒントにしたのは三島由紀夫小説宴のあと』のモデルになった料亭女将・畔上輝井[7]。映画出演の珍しい井森美幸は当時大人気で、やはり当時流行の"新人類"芸者を演じている[6]。女秘書役の藤真利子と合わせ、女優はそれぞれの世代の代表選手を意図的に登場させた[7]

製作発表[編集]

1989年1月30日、日比谷東京會舘にて製作発表が行われ、岡田茂東映社長がゼネラルプロデューサーを務めると発表された[11][12]高岩淡東映専務は「久方ぶりの社会派大型ドラマです。『華の乱』『激突』に次ぐ大作路線の一本であり、東映京都の今年の目玉作品として完成させる」と意欲を見せた[11]。舛田利雄は「新聞社は知識人と闘争心、ドロドロした人間のドラマを描く舞台としては一番面白いんじゃないかと思う。格好の素材を得て、今日の社会を描く大人のドラマをブラックユーモア的に描き上げる」と話した[11][12]

撮影[編集]

1989年2月7日クランクイン[12]クランクアップは製作発表時に1989年4月下旬と説明があった[11]

宣伝[編集]

80年代の東映は、角川映画アニメ映画に助けられた部分も大きいが[13][14][15]岡田茂東映社長が、大人向けの映画を作りたいという方針を打ち出したことから[16][17][18]、それらを「アダルト路線」と称し[9][14][17]、自社製作に関しては比較的明確な作品傾向が続き[9]宮尾登美子渡辺淳一作品を中心に「東映アダルト路線」は、80年代を通じて概ね好調を維持した[15][9][14]。今日「アダルト」というとAVの急速な普及によって性的なニュアンスが含まれるが[19]、80年代までは「アダルト」は大人を示す一般的な語で[19]、成熟した大人の価値観と結び付けられていた[19]。「東映アダルト路線」は「大人の鑑賞に耐える映画」を強調していた[20]。80年代はビデオがよく売れ[9][21]、テレビ放映料も高く[21]、マンガ(アニメ映画)、ヤング物(「ビー・バップ・ハイスクールシリーズ」など)以外は劇場公開ではドローでも、利益は二次使用で出せばよいという方針があり[9][21]、「東映アダルト路線」は総原価6、7億円をかけて配収も同額程度、ドローでもよしとされた[9]。映画を取り巻く環境は年々厳しくなって来てはいたが、東映のこの路線だけは安定路線と見られ、大ヒットこそないが大きくコケることもなかった[9]。本作はこの年上半期の東映最大の勝負作であったが[9]、本作の前番組だった『桜の樹の下で』が、渡辺淳一原作にも関わらず、成績が伸び悩んでいたことから[9]、東映は危機感を強め、当時全国で約200社あるといわれた経済関係の新聞、雑誌社に売り込みを図り、主なターゲットになるサラリーマン、特に中間管理職以上に的を絞り試写会に招待した[9]。また全国50ヵ所に支店を持つ互助会に協力を要請し、前売りを3万枚引き受けてもらった[9]。本作は当時としては異色の題材だったため[9]、興行予想は難しかった[9]

作品の評価[編集]

興行成績[編集]

30代以上の男性を中心とした客層で、ローカルは弱かったが、大都市で好稼働を見せ、成功の興行といえた[21]。評価の高かったアメリカ映画ウォール街』も日本では7億円前後の配収だったことから[21]、このような企業もの、サラリーマン映画に興味を持つのは大都市企業に勤める人で、地方の人たちには受けないのではという判断がなされた[21]岡田裕介東映企画製作部長(当時)は「どちらを主眼にするかといったら、やっぱり都会に合わすべき。地方から盛り上がるという映画は、特殊なモノを除いて今後もあり得ないと思う」と述べた[21]

評論[編集]

「日本の新聞はインテリが作ってヤクザが売る」と字幕でも出したため、当時の大新聞から批評その他、完全に黙殺された[6][8]。しかし映画賞のシーズンになって毎日新聞社の毎日映画コンクールで松田が脚本賞を受賞し面食らったという[6]。映画雑誌では公開時から評価が高くこの年の多くの映画賞を受賞している[2]

受賞歴[編集]

テレビドラマ[編集]

1991年10月18日に、フジテレビ系「金曜ドラマシアター」枠で「社葬 女たちの野望」のタイトルで放送された。

キャスト
スタッフ

脚注[編集]

  1. ^ 「1989年邦画3社<封切配収ベスト作品>」『キネマ旬報1990年平成2年)2月下旬号、キネマ旬報社、1990年、 176頁。
  2. ^ a b c d e f g 舛田利雄/佐藤利明/高護Hotwax責任編集 映画監督 舛田利雄 ~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~シンコーミュージック・エンタテイメント、2007年、387-388頁。ISBN 978-4-401-75117-4。
  3. ^ 『ぴあシネマクラブ 邦画編 1998-1999』ぴあ、1998年、338頁。ISBN 4-89215-904-2。
  4. ^ 『映画監督 舛田利雄 ~アクション映画の巨星 舛田利雄のすべて~』、492頁
  5. ^ 社葬|一般社団法人日本映画製作者連盟
  6. ^ a b c d e f g h i 岡田茂「証言 製作現場から 『弔問客になりすまし社葬にまぎれ込んで取材』 『社葬』脚本 松田寛夫」『クロニクル東映:1947-1991』1、東映、1992年、346-347頁。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 『社葬』プロデューサー・佐藤雅夫、『社葬』シナリオライター・松田寛夫、『社葬』プロデューサー・奈村協「東映京都作品『社葬』が描破する人間の喜怒哀楽 厳粛、絢爛たる社葬の裏で何が」『AVジャーナル』1989年4月号、文化通信社、 26–36頁。
  8. ^ a b c d e f 福永邦昭 (2016年10月2日). “【今だから明かす あの映画のウラ舞台】緒形拳が宣伝に一役 直筆手紙でヒロ・ヤマガタに「社葬」イメージ画依頼 (1/2ページ)”. ZAKZAK (夕刊フジ). オリジナルの2016年12月2日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20161202150629/https://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20161202/enn1612020830004-n1.htm 2021年4月18日閲覧。 
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 「興行価値」『キネマ旬報』1989年4月上旬号、キネマ旬報社、 168頁。「興行価値 日本映画 邦画の6月決戦の中でも異色の作品『社葬』。女性層をどう引くかがカギでそれによっては…。」『キネマ旬報』1989年6月下旬号、キネマ旬報社、 94頁。
  10. ^ コラム:細野真宏の試写室日記 - 第1回 第1回 「坂道のアポロン」VS「ちはやふる 結び」(前編)
  11. ^ a b c d 「日本映画ニュース・スコープ 新作情報」『キネマ旬報』1989年3月上旬号、キネマ旬報社、 148頁。
  12. ^ a b c 「トップ交代劇をめぐる社内抗争 東映『社葬』京都でクランクイン」『映画時報』1989年2月号、映画時報社、 19頁。
  13. ^ 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4822201589。NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとヤクザ、2つの映画で復活した(archive))“角川春樹氏、思い出語る「ひとつの時代終わった」…岡田茂氏死去(archive)”. スポーツ報知 (報知新聞社). (2011年5月10日). オリジナルの2011年5月28日時点におけるアーカイブ。. https://archive.is/20110528133933/http://hochi.yomiuri.co.jp/feature/entertainment/obit/news/20110510-OHT1T00006.htm 2021年4月18日閲覧。 “ヤマトは「文芸もの」だった?”. 朝日新聞 (朝日新聞社). (2010年4月12日). オリジナルの2010年4月13日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100413120654/http://www.asahi.com/showbiz/column/animagedon/TKY201004120034.html 2021年4月18日閲覧。 永野健二「編集長インタビュー 岡田茂氏〈東映会長〉 メディアの激変、体験で読む大合併時代こそ指導力を」『日経ビジネス』1997年2月17日号、日経BP社、 70-73頁。「欲望する映画 カツドウ屋、岡田茂の時代」『キネマ旬報』2011年7月上旬号、 52、63-64頁。「東映不良性感度映画の世界 東映不良性感度の終焉」『映画秘宝』2011年8月号、洋泉社、 66頁。『映画秘宝EX 劇場アニメの新時代』講談社〈洋泉社MOOK〉、2017年、51-52頁。ISBN 978-4-8003-1182-5。
  14. ^ a b c 岡田茂「ドキュメント東映全史 『多角化は進んでも東映の看板はやはり映画』 文・岡田茂」『クロニクル東映:1947-1991』2、東映、1992年、6-7頁。岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、182-185、240–241、288頁。ISBN 4879320161。文化通信社編『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、52、63-64、164頁。ISBN 9784636885194。東映不良性感度路線の父 岡田茂逝去」『映画秘宝』2011年7月号、洋泉社、 52頁。
  15. ^ a b 大高宏雄「映画会社の、映画製作による、映画製作 東映」『1980年代の映画には僕たちの青春がある』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2016年、175-177頁。ISBN 9784873768380。
  16. ^ 岡田茂大島渚小栗康平白井佳夫 (1982年5月29日). “〈討論の広場〉 日本映画はどこへ行く”. 朝日新聞 (朝日新聞社): pp. 12-13 
  17. ^ a b 岡田茂 (1986年5月9日). ““「論点」 映画人口回復へ国際化など推進」””. 読売新聞 (読売新聞社): p. 8 
  18. ^ 望月苑巳 (2020年11月9日). “【あの日から35年 夏目雅子という大輪】鬼龍院花子の生涯 一世を風靡した「なめたらいかんぜよ!」 (1/2ページ)”. ZAKZAK (夕刊フジ). https://www.zakzak.co.jp/ent/news/201109/enn2011090001-n1.html 2021年4月19日閲覧。 
  19. ^ a b c 井上章一・斉藤光・渋谷知美三橋順子『性的なことば』講談社、2010年、43-50頁。ISBN 9784062880343。
  20. ^ 垣井道弘『今村昌平の制作現場』講談社、1987年、62頁。ISBN 9784062035835。
  21. ^ a b c d e f g 「文化通信情報 『水着』『社葬』『226』夏興行第1弾公開」『AVジャーナル』1989年6月号、文化通信社、 6頁。「東映東撮・岡田裕介企画製作部長にきく『こよなく愛しても醒めた目で』」『AVジャーナル』1989年7月号、文化通信社、 32頁。
  22. ^ “毎日映画コンクール 第44回(1989年)”. 毎日映画コンクール (毎日新聞社). オリジナルの2018年1月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20180109194655/https://mainichi.jp/mfa/history/044.html 2021年4月18日閲覧。