福本豊

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福本 豊
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府大阪市生野区
生年月日 (1947-11-07) 1947年11月7日(71歳)
身長
体重
168 cm
68 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 ドラフト7位
初出場 1969年4月12日
最終出場 1988年10月23日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2002年
選出方法 競技者表彰

福本 豊(ふくもと ゆたか、1947年11月7日 - )は、大阪府大阪市生野区出身で東大阪市育ちの元プロ野球選手外野手)、野球指導者。

通算盗塁数の日本記録保持者(達成当時はMLB記録も超えた)で、「世界の福本」 「世界の盗塁王」の異名を持つ。引退後はコーチを経て主に野球解説者野球評論家タレントとして活動している。

現役通算2543安打、通算208本塁打を記録した確実性とパンチ力を兼ね備えた打撃、NPB歴代1位の通算1065盗塁と通算115三塁打[注 1]を記録した俊足、主に中堅手として足を生かした広い守備範囲を誇る外野守備で、長池徳二山田久志加藤秀司らと共に阪急黄金時代の主力として活躍した。血液型はB型。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

大鉄高等学校時代は、野球部員のあまりの多さからレギュラーを諦めて球拾いに専念していた。しかし、練習中に右翼手の守備に就き、一塁手への送球が逸れた際に、いつもの球拾いの感覚でボールを追いかけてカバーしたところ、監督に「福本はきちんとファーストのカバーに入るから偉い」と評価され、それ以降、右翼手のレギュラーに指名された。1965年の高校3年生夏に、第47回全国高等学校野球選手権大会出場を果たす。同校は夏の甲子園初出場であった。1回戦では、この大会で4強入りした秋田高校と対戦するが、延長13回裏、福本と二塁手が打球をお見合いしてしまい、サヨナラ負けを喫した[1]。1年下のチームメートには、高橋二三男(元西鉄ロッテ、外野手)がいた。

卒業後は社会人野球松下電器(現・パナソニック)に進む。俊足が武器であったため、監督に「(俊足のスーパースターであった)広瀬叔功になれ」と言われ、当時の広瀬の背番号である12を背中に付けて広瀬をよく観戦しにいったという。福本は後年に「広瀬さんは神様やもん。プロに入ってからもそれは一緒よ。相変わらず雲の上の存在やった」と語っている[2]

1年目の1966年から外野手のレギュラーを獲得。同年の都市対抗に二番打者として出場し、三塁打を放つなど活躍。社会人3年目の1968年には、同僚の加藤秀司(後の英司)・岡田光雄(元近鉄)と共に富士製鐵広畑の補強選手として都市対抗に出場。岡田と神部年男の好投もあって決勝に進出、河合楽器を降しチームを優勝に導く[3]。同年の社会人ベストナインのタイトルを獲得したが、福本は「アマチュア時代は注目の選手ではない」と語っている。

同年秋のドラフト会議で、阪急ブレーブスに7位指名を受けた。入団当時の背番号は「40」[注 2]。なお、阪急ブレーブス以外に、南海ホークスも、早くから福本の俊足に注目していた。しかし168cmの小柄な身長がネックとなり、監督の鶴岡一人に獲得を却下されていた[要出典]

プロ入りのきっかけは、松下電器時代既にアマチュア野球のスター選手だった後輩の加藤を目当てに来たスカウトの目に留まったことだった。試合でスカウトが来ている時に本塁打を打ったり、都市対抗野球でホームへ好返球をしたりする(ドラフト同期の山田が福本の名を知ったのはこのプレーだという)等のプレーが認められたものだった。これについて、福本は「たまたまあのときだけ、一番いいプレーが出たんや」と語っている[5]。さらにスカウトに「君はもう少し背があればねえ」と言われたことに対し、相手がスカウトと知らずに一喝したことが「プロ向きのいい根性を持っている」と勘違いされ、これも指名される要因になったのではないかと述べている[6]。別の著書では、1968年夏に日本生命球場での試合に阪急球団マネージャーの矢形勝洋(のちに球団常務)とスカウトの藤井道夫が加藤の視察に訪れた際、「ついでに」リストアップされたという[7]。また、阪急以外で接触があったのは近鉄バファローズのスカウトが「念のため」として住所と電話番号を尋ねた(それ以来「何の音沙汰もなかった」という)ことと、都市対抗野球出場時、読売ジャイアンツ(巨人)の多摩川グラウンドで練習した際に、巨人のスカウトから「君はいい選手だけど、惜しいねぇ。身長があと5センチあればなぁ…」と言っただけで帰った出来事だけであると記している[7]

本人はスカウトが自分に興味がないと思っていたことからドラフトに指名されたことを全く知らず、翌朝会社の先輩がスポーツ新聞を読んでいるのを見て「なんかおもろいこと載ってまっか?」と尋ねたところ、「おもろいことってお前、指名されとるがな」と言われ、そこで初めて自分が指名されたことを知ったという[8][9]。しかし、ドラフト指名後も阪急から連絡がないまま数日が過ぎたため、同僚も本人も何かの間違いではないかと疑う始末だった。その後ようやく獲得の挨拶に来た阪急の球団職員から肉料理をご馳走され、「プロなったらこんなにおいしい肉が食えるのか!」と思ったものの、様々な理由から態度を保留していたが、そうしているうちに何度も食事に誘ってもらったため断りにくくなってしまったという[9]結局、4回目の食事の時に入団を決意した。契約金は当初500万円提示されたが、松下電器の上司が、「それではあかん!、松下電器に残っている方がいい、退職金のことやら考えたら、その提示額で言ったらあかん」と言われる。球団からホームランバッターじゃないからと言われるも、交渉の末。契約金750万で契約。当時の松下電器の時の月給が3万円だった。[要出典]

前記の経緯から、福本は「松下電器に加藤がいたおかげで、僕も阪急ブレーブスの一員になれた」と著書に記している[10]

現役時代[編集]

プロ入り当初は全く期待されておらず、阪急の先輩たちに「それ(小柄、非力)でよう来たな。誰やスカウト、こんなん獲ったら可哀相やろ」と散々な言われようだったという[5]。しかし、1年目の1969年から一軍に出場。初出場は1969年4月12日開幕戦(対東映フライヤーズ)、長池の代走で盗塁を試みるも、宮崎昭二鈴木悳夫のバッテリーに盗塁刺され、翌日の同一カードダブルヘッダー第2試合でフランシス・アグウィリーの代走に起用された際、桜井憲種茂雅之のバッテリーからプロ初盗塁を記録した[11][注 3]。このため、プロデビューは、腰痛の治癒を待って8月に入団した山田や、初年度は2軍で多くを過ごした加藤(1969年の公式戦出場は9試合)よりも早かった[10]。だが、オールスター戦前に監督の西本幸雄から「一度ファームへ行って、盗塁の練習でもして来い」と2軍行きを命じられる[12]。2軍ではひたすら打撃練習(寮でも「植木の葉の先にバットを当てる素振り」をしたという)に励んだ[12]。入団当初の福本は周囲のレベルの高さを見て「自分は(ドラフト)7位でそれほど期待もされていない。3年間だけ我慢してそれなりの結果が出なければ、プロ野球は諦めよう」と考えていた[13]。2年目は力のある打球を飛ばせるようになり、本塁打も8本記録した。2年目のキャンプ時、見違えるようなスイングを西本監督に「誰に教えてもろたんや?」と言われ、「いやだなぁ、監督ですよ。監督に言われたとおりに素振りしていたらこうなりました」と答えたという[5]

1970年からレギュラーに定着し、同年75盗塁で初の盗塁王を獲得。1972年から背番号を7に変更し、同年には日本プロ野球史上唯一の3桁、達成当時はMLBの記録(モーリー・ウィルスの104盗塁)も破るシーズン106盗塁[注 4] を記録、史上初となるMVPと盗塁王のダブル受賞を果たした。1977年7月6日の対南海ホークス戦(西宮球場)の4回に二盗に成功し、それまで広瀬叔功が保持していた通算最多盗塁の日本記録(596個)を更新(このとき、広瀬は中堅手の守備に就いており、グラウンド上で記録更新を目撃した)[14][注 5]。その後も1982年まで13年連続で盗塁王を獲得する。初めて盗塁王を獲得してからは、特別なケースを除いてベンチから盗塁の指示(サイン)が出ることはなくなり、福本の判断で走れるようになった(いわゆるグリーンライト[15]。出塁すれば「自動的にツーベースヒットと同じ意味を持」ち[16]、加藤秀司が「三振さえしなけりゃ、どんな形でも三塁から」生還できると評した[17][注 6]福本は、1971年からの8年間で6度のリーグ優勝、さらに3年連続の日本シリーズ優勝に大きく貢献した。阪急が初めて巨人に勝った1976年の日本シリーズでは打率.407(11安打)、2本塁打でシリーズMVPに選ばれている[19][注 7]1977年の日本シリーズ第2戦では初回に四球で出塁すると、盗塁と二つの内野ゴロによりノーヒットで先制点を挙げ、著書で「これこそ、僕らが公式戦でやってきた普段着の野球」と記している[20]

1983年6月3日の対西武ライオンズ戦(西武ライオンズ球場)の9回に三塁への盗塁を決め、当時ルー・ブロックが保持していたMLB記録を上回る通算939盗塁を記録。福本は新記録を本拠地の「西宮球場の競り合ったゲームで作る」と決めており、球団からも「西宮での達成」を求められていた[21]。試合はその時点で大差のリードを許し走る気もなかったが、西武の遊撃手である石毛宏典がたびたび牽制のベースカバーに入ったことで「ついカッとなって」走ったという[21]。福本は「何とも気の重い世界記録になってしまった」と記している[21]。記録を達成した瞬間には、同球場で初めて西武以外の選手を祝福するための花火が打ち上げられた。

盗塁のMLB記録を超えた後、当時首相の中曽根康弘から国民栄誉賞を打診されたが、固辞した。この際、「立ちションもできんようになる」と言ったと報じられた[22]。真意として、賞の第一号であった王貞治のような「野球人の手本」になれる自信がなかったこと、麻雀喫煙もたしなむため他の受賞者に迷惑がかかると考えたことを、2013年の取材に対して述べている[22][注 8]。ただし、大阪府知事賞詞(現:感動大阪大賞)の受賞は受け、大阪府知事の岸昌から賞詞を受け取っている[注 9]。また、記録達成を記念して特例による名球会入会が認められたがこれも固辞し、同年9月1日の対ロッテオリオンズ戦で田村勲から中前打を放ち、史上17人目となる通算2000本安打を達成して正式に入会した。

このシーズンの盗塁は55に終わり、60盗塁を記録した大石大二郎(近鉄)に連続盗塁王の記録を13年で阻まれた[24]。福本によると、939盗塁の達成前に「しんどかった」ことに加え、大石が自分と同じタイプの選手で「西本さんの教え子」でもあることから、「もう走れへんから、(タイトルを)お前にやるわ」と言ったという[24]。連続記録に「こだわりはなかった」というが、相手が大石でなかったら「きっと14年連続を目指して、頑張っていたと思う」とも述べている[24]

1984年8月7日には1000盗塁に到達。その後は記録を1065まで伸ばした。

1985年頃からはレフトを守る機会が増え、盗塁のサインがダグアウトから出されるようになる[25]

1987年4月18日の対ロッテ戦(川崎球場、先発・山田久志)で佐藤健一のライナーを無理に取ろうとして右肩を脱臼する[25]。救急搬送された病院での診断は「全治2か月」であったが、かかりつけの整体師(愛知県在住)に「任せてダメなら引退する」覚悟で2日おきに診察を受け、2週間で復帰した[25]。福本にとって最初で最後の大きな故障離脱であった[25]この年のオールスター戦には監督推薦で出場、盗塁を試みたが失敗に終わる、これについて「知らないうちに足が動いていた」とコメントしている[要出典]。これが福本が出場した最後のオールスター戦となった。

1988年のシーズンにはスタメンに入ったのは23試合にとどまり、出場試合数も92に減った(福良淳一ダラス・ウイリアムズなどが主な1番打者となる)[26]。それでも福本は現役を続行する意思があり、山田が引退を表明(10月10日)してから数日後、千里阪急ホテルに監督の上田利治と球団常務の矢形勝洋に呼ばれて面談した際にそれを「伝えたつもりでいた」が、その場に記者が来たときに矢形の指示でテーブルの下に隠れたという[27][注 10]。シーズン終了間際の10月19日、ブレーブスのオリエント・リースへの売却が伝えられた。後の福本の回想によると、その日は来季の身分を、選手兼任コーチと専任コーチのいずれにするかの回答を球団から伝えられる予定だったが、売却により白紙になったという[28]。阪急球団が作成していた1989年カレンダーには1月の箇所に「外野手」として打席での福本の写真があしらわれていた[29]

10月23日、阪急ブレーブスとしての西宮球場最終戦があり、試合後の挨拶で監督の上田が「去る山田久志、そして残る福本」と言うつもりだったものを、間違えて「去る山田、そして福本」と言ってしまい、チームのみならずファン・マスコミを巻き込んだ大騒動に発展した[30]。福本は殺到するマスコミを前に「上田監督が言ったなら辞めます」と言い、そのまま40歳で現役を引退した。早くから引退を示唆していた山田に対して、急に引退すると決めた福本は周囲から「冷たい奴や」と言われたと回顧している[5]

後年、この時のことについて「引退を取り消すのが面倒くさかった」とも、「体力的にはあと3年はやれたけどね」とも語っている[31]。また、『ベースボール・マガジン』など一部メディアでは、前日にコーチ要請を受け、阪急もなくなると言うことで引退を決めたと書かれている。『週刊ベースボール』でのインタビューによれば、当初は自由契約を希望したものの、受け入れられず任意引退の形を取られ(取らされ)、それならばと思いコーチ兼任を希望したが拒否されたという[30]。結果的に知人のアドバイスにより引退を決意した[30]。一時は阪神タイガースへの移籍も考えていたという[29]

他方で、その8日前、阪急身売りが公表される前の10月15日、毎日放送の野球中継中(南海対近鉄第25回戦)、門田博光の活躍に触れる際、同年代の選手として引き合いに出す形で福本がその年限りで辞めると述べていたことが井上光央アナウンサーによって言及されている[出典無効]

現役最末期の福本は盗塁数が極端に減っていたが、これは出塁しても「待て」のサインが出るようになったためで、これにプライドを傷つけられていたことも引退の一因になっていると語っている[5]

1989年3月の引退試合(対巨人オープン戦・西宮球場)では、山田とともに阪急のユニフォームで出場し、福本は打席に入って香田勲男と対戦した。その後、コーチとして携わるオリックス・ブレーブスのユニフォームに着替えてベースコーチを担当した。

現役引退後[編集]

引退後の1989年はオリックスの一軍打撃コーチ、1990年から1991年まで同球団二軍監督を務めた。1992年から1997年まで6年間朝日放送サンテレビジョンの野球解説者を務める。この間の1992年6月16日、MLBのリッキー・ヘンダーソンが福本の持つNPB通算盗塁記録を超える1066盗塁を記録した。ヘンダーソンが福本の記録に近づいた際、福本は記録を破る瞬間を見届けるべく渡米している。ヘンダーソンは、福本が始球式を務めたその試合で見事福本の記録を抜いた。福本はヘンダーソンを祝福し、金色のスパイクをプレゼントしたのに対して、ヘンダーソンは試合後、記録を達成した時の二塁ベースをプレゼントした。福本はヘンダーソンの身体能力、特に盗塁・帰塁の1歩目を「まるでベン・ジョンソンのスタートのようだった。自分の筋力ではできない」と絶賛し、ヘンダーソンも福本について「尊敬に値する人物」と述べた。[要出典]

1998年阪神タイガースの一軍打撃コーチに就任し、翌1999年は一軍外野守備・走塁コーチを務めた。阪神のコーチ時代、1999年に監督就任した野村克也に現役時代の盗塁術を買われて三塁ベースコーチを任せられたが、「安打を打てなければレギュラーになれない。レギュラーになれなければ出塁できる確率も少ない。出塁ができなければ盗塁もできない」という持論から選手に打撃指導ばかりしていたため、同年限りで解任された。

その後は2000年から朝日放送サンテレビジョンの野球解説者、スポーツ報知で野球評論家として活動している。

2002年野球殿堂入り。現役時代からボランティア活動に熱心に取り組んでおり、日本身体障害者野球連盟の名誉理事長も務めている。また、2006年1月からは、阪南大学野球部特別コーチに就任。

2011年5月7日ほっともっとフィールド神戸で開催されたオリックス・バファローズ千葉ロッテマリーンズ戦では、山田・加藤とともに、阪急時代を再現したユニフォーム姿で始球式を務めた[注 11]

2016年2月には、オリックス・バファローズの春季キャンプで、臨時コーチとして打撃や走塁を指導した[32]

2007年、第5回グッドエイジャー賞を受賞。

野球以外では、阪神甲子園球場そばにあるベースボールバー「G.LOVE」のオーナーを務めており、店内には本人の阪急時代のユニフォームや阪急西宮スタジアムの座席などが飾られている(現在は本店舗を含め計3店舗を展開している)。

選手としての特徴[編集]

盗塁術[編集]

1年目の4盗塁から2年目に75盗塁できたのは、1964年東京オリンピック400メートル競走選手が阪急の春季キャンプに臨時コーチでやってきて、腕が横振りであったのを矯正されたのと、腿上げを繰り返しさせられたのがきっかけと語っている。また、福本の足はチーム内でも特別俊足というわけではなく、走塁時に左右の歩幅が一定で横に広がらない陸上短距離選手が理想とするような走り方であると足跡を収めた映像を交えて検証されたこともある[33]。なお、初の盗塁王については福本は「単に勢いで取れただけ」と語っている[34]

打力が付き、レギュラーに定着したが、出塁しても盗塁のタイミングが全く分からずに牽制死、盗塁失敗を繰り返していた。前記の通り、結果次第では3年でプロ野球をやめる可能性があったため、自分がプロに在籍した証を残そうと、友人(高校時代の野球仲間)に8ミリカメラで試合を撮影してもらっていた[35]。1969年のオフに自宅でその映像を早回しで眺めたところ、投手の個性が見えたという[35]。それを実戦で確かめたのは3年目のシーズンだった[35]。福本は「相手投手のクセではなく、僕は投球リズムを盗んだ」と記している[36]。これにより盗塁を仕掛けるタイミングをつかんだ。この研究が認められ、その後はフィルム撮影は球団の手で行われることとなった。

しかし、近鉄の神部年男鈴木啓示の2人だけはなかなか特徴を盗むことができず、何度もフィルムを再生しなおした。神部は軸足(かかとが数ミリ伸び上がったら投球する[37])、鈴木は顔(顎が下がれば牽制、走者を一度見たら投球[38])に「癖」があることをついに発見、両投手の攻略に成功した。

東尾修は投球時に左肩が本塁方向に流れることを見抜き、「最初はモーションを盗みやすかった」という[39][40]。1972年のオフ、ミズノが開いたアドバイザリースタッフとの懇親会で、東尾に頼まれて「すぐに直せるものではないから」この「癖」を教えた[39][40]。翌シーズンになると東尾はその点を修正した上、逆にわざと左肩を流すようにして牽制球を投じる「ボークすれすれ」の方法も織り交ぜた[39][40]。東尾はキャンプで審判を集めて「肩が入っていない」とアピールし、福本は塁に出ると審判に東尾の左肩に注意するよう頼むといった攻防もおこなった[40]

盗塁の3要素と言われる「3S」こと、スタート、スピード、スライディングのうち、スタートは以上のような徹底した投手の癖の研究、スピードは天性の俊足と若い時のフォーム矯正によって研磨された。残るスライディングについては、つま先からやわらかくベースに触れるスライディングを誰にも教わることなく独自に編み出している。スピードを殺さず、足への負担も少ないスライディングだった。ヘッドスライディングは怪我しやすいと嫌い、ほとんどしなかった。ヘッドスライディングの危険性については引退後もたびたび解説の場などで口にしている。また、野手をかわすスライディングを高校時代に試みて捻挫した経験があったため、捕手からの送球をかわすことはせず、ベース正面から左足を伸ばして右足を折りたたんで突入するフックスライディングしかしなかった[41]

スパイクシューズも特注で、普段の靴のサイズ(25 cm)よりも小さい24.5cmを使用し、400グラム弱と非常に軽く作られていた[42]

福本の盗塁には優れた2番打者の存在も大きかった。福本自身、「有能なサポーターがおらんと、盗塁なんてひとつも成功しない」と語っている。当初は阪本敏三、ついで大熊忠義がその任にあたった。大熊は打席で福本を見ながら、ファウルボールや空振りをするなど、巧みなアシストをした[43]。1975年のシーズンに、盗塁を目論んで一塁からよいスタートを切れたにもかかわらず、大熊がその投球をファウルにしたことに対し、「見送ってくれたら、二塁は楽勝でセーフやったのに」と言った結果、大熊の機嫌を損ねた[44]。頭にきた大熊の申し出で、その翌日から2番打者がウイリアムスになった[44][45]。ウイリアムスは直球を打ちに行くため、福本は丸1週間全く盗塁出来なくなった[44]。アシストがないと走れないと謝罪し、大熊は元の2番に戻ってくれたという[46][44][45]。1978年からは簑田浩二が台頭、簑田は自身も俊足なのを生かして、この年から1983年まで25盗塁以上を記録した。

このように、福本の盗塁術は徹底した研究と高度な技術によって完成されたものだったが、何よりも大切なのは思い切りだという。福本の盗塁成功率は106盗塁した1972年で.809、通算で.781と優秀ではあるが飛び抜けて高くはなく、通算盗塁刺299も日本記録である。また日本シリーズ史上最多となる、1シリーズで3盗塁死という記録(1984年広島)も持っており、2018年現在でも1953年与那嶺要巨人)、2018年の田中広輔(広島)と並ぶ最多記録タイである[47]。これらのことから、盗塁数の多さは同時に盗塁企図数の多さを示しており、思い切りの良さが現れている。福本の前の通算日本記録保持者である広瀬叔功は、「勝つために走る」「チームが必要としている時に走る」自らの姿勢と(盗塁技術習得の一環として)「失敗を恐れずにどんどん走るべき」という福本の考え方を比較して「私の考え方と相容れない」としながらも、「ゲームの中で走ることによって、彼は彼なりの方法で盗塁の技術を極限まで高めた」「私がとやかく言えるような選手ではない」と評している[48]。福本は広瀬の日本記録を更新した際に「お師匠さん(広瀬)にかなわんことがぎょうさんある。その一つにボクのスタートは完全やない。ここ一番の心理状態も及ばない」「師匠の前で記録を作りたくなかった」とコメントしている[14]

1979年のオールスターゲームの時、やはり俊足を売りにしていた広島東洋カープ高橋慶彦が福本に盗塁術の教えを請うたところ、答えはたった一言「気合いや」だったので面食らったという(ちなみに、高橋は歴代5位の通算477盗塁を記録しているが、福本に次ぐ歴代2位の通算206盗塁刺を記録している)。なお、第1戦の3回裏、安打で出塁した福本はすぐに盗塁を成功させ、高橋も9回に三盗を成功させている。

野村克也は、福本について「(こちらが)走ると思うと走らない。走らないと思うと走る。あいつに鍛えられた」と評している[注 12]。また、堀内恒夫は「福本はクロスプレーも巧い。福本は、クロスプレーの際に相手の捕手がベースを覆い隠していた場合には、相手の脚の関節をスパイクの裏で蹴るらしい。そうすることにより、自然に相手の足が動いて隠れていたホームベースがあらわれる」と語っている[要出典]

1972年に球団はPRのために、福本の足に1億円の保険をかけた。掛け金が25万円で、福本が負傷してプレーできなくなった場合に球団に1億円が支払われるというものだった[41]。後述するように人一倍体調管理、怪我防止、強靭な体作りに神経を使い、なにより「これだけ金をかけてる以上は絶対に大事にしないといけない」という心構えから[50]、福本は現役中一度も足を怪我しなかった。保険は3年間で打ち切られたという[41]

大熊は福本の盗塁後に送りバントやゴロを打って三塁に進めてくれたため、福本はホームに生還できるための技術も磨いた[51]。中腰のポーズで打球がヘルメットのつばの上下どちらに行くかを、スタートする判断の目安としていた[51]

通算1065盗塁の内訳は二盗915(失敗265)・三盗149(失敗27)・本盗1(失敗6)である[18]。三盗については「セカンドからヒット一本でホームに帰れるのに、わざわざ危険を冒す必要もないし、二盗のような駆け引きもないからつまらない」と述べている[52]。1度だけの本盗に成功したのはシーズン最多盗塁を記録した1972年で[18]、7月1日の対近鉄戦であった[53]。このとき福本は「滅多にないテレビ中継があるので狙っていた」という[53]。この本盗では珍しくヘッドスライディングしており、試合後にその理由について「間一髪を争うプレー。手からいくとタッチは上から押さえつけるようになる。この方がセーフの確率が高くなるでしょう」とコメントしている[54]

1試合の最多記録は5盗塁(1972年5月3日・パリーグ記録)だが[53]、4盗塁以上が9回、3盗塁以上は40回あり、宇佐美徹也は「ご立派の一言に尽きる」と評している[55]

他球団の福本対策[編集]

福本の盗塁が脅威になると、他球団も対策に真剣に乗り出すようになった。

  • 南海ホークス
    • 南海時代の野村克也は福本の盗塁に対抗する手段として、現代野球で広く投手に用いられているクイックモーションを考案し、野球を進化させた。それ以前にも野村は福本をイニングの先頭打者として迎えたくない思いから、2死走者なしの状態で9番の投手四球で歩かせ、1番の福本と勝負するという策(当時のパ・リーグはまだ指名打者制導入前だった)や、福本が二盗を試みると二塁にわざとワンバウンドの送球を投げ、脚にぶつけることも考えていた。しかし、前者は一度目は成功したものの、二度目には狙いがばれて、阪急監督の西本幸雄が投手に盗塁をさせたため、キャッチャーの野村は盗塁を刺さざるをえなくなり、後者は「脚に球をぶつけて怪我をさせようとしたが、実際には背中に球が当たってしまい、(怪我させるという)狙いがばれて、えらい怒られた」という[56]
  • ロッテオリオンズ
    • 福本によると、妨害策が「真っ先に頭に浮かぶ」チームはロッテだという[57]。ブロックのために野手の足にプラスチック製のプロテクターを装着させたり、本拠地だった宮城球場の走路(一塁の先と二塁の手前)に水を吸わせた土を入れた「砂場」を作り走りづらくさせた[57][注 13]。グラウンドキーパーから「福本さん、足、気ぃつけてください」と言われたともいう[58]。後者については、本来の走路以外(ベースラインの内と外)を走る「実験」をして、内側だと牽制球がほとんど来ないことに気づき(投手からの見え方の違いによる)、2つの走路を使い分ける手法を覚えたという[57]。また福本は、飯塚佳寛弘田澄男有藤通世らロッテの俊足の選手もこのために走れなくなり「阪急より大きな損をしたように思う」と記している[57]
  • 読売ジャイアンツ
    • 1971年の日本シリーズの前には、コーチの牧野茂の発案で、牽制球で一塁にわざと勢いのある悪送球を投げ、一塁側の内野フェンスに跳ね返ったボールを送球して二塁で福本を封殺する練習を繰り返していたが実行されることはなかった[56][59][60]
    • 森昌彦は1971年の日本シリーズ直前、二塁ベースにボールを当てる練習を繰り返していた。自身が投手から受けたボールを二塁ベース目がけて送球し、二塁手が二塁ベース上で捕球したところに福本の足が入ってくる形で補殺するため(福本の場合、タッチではアウトにできないと考えられたため)だった[61]。この作戦は成功し、日本シリーズ第1戦の9回裏、1塁走者だった福本は初球から盗塁を試みたが、二塁ベース上で牽制死した(福本が滑り込んだのは、送球を受け取った土井正三のグラブだった)[62]。福本は試合後、「アウトになるなんて、考えてもいなかったですね。あれしかない、たったひとつ、あのプレーで阪急は死んじゃったですね。針の穴を通せなかったぼくの責任は大きかったです」と語っている[62]
    • 日本シリーズで足を封じられた原因として、福本本人は後年「巨人のエース・堀内恒夫の存在が大きかった」と振り返っている[63]。堀内は森と対策を考え、自分はクイックで投げて牽制もするからと、森に二塁にきちんと投げるよう頼み、森はトスされたボールを二塁に投げる練習を繰り返した[59]。また、福本によると堀内の牽制球は「1球ごとにタイミングが違」った上に、自分は短期決戦のプレッシャーから硬くなっていたという[59]。福本は堀内を「日本一走りづらいピッチャー」[64]「クイックも牽制もうまいし、クセも見つからなかった」[65]と評し、堀内はその理由について、重心移動がうまくセットポジションで左肩を一塁に開き気味にしたまま本塁に投球できた点を挙げている[65]。1971年の日本シリーズではこのあと福本は一度も盗塁を企図できなかった[66]
    • のち巨人の監督が長嶋茂雄に代わり、捕手も吉田孝司となった1977年の日本シリーズでは、第2戦の初回に堀内のクイックをかわして盗塁に成功している[20]
  • 近鉄バファローズ
    • 梨田昌孝は二塁送球の時間を短縮するため、福本が出塁すると右足を半歩下げて構えていたという。阪急と近鉄の試合前、福本と梨田はよくどちらが勝つか賭けをしていたという。ただし、上記のとおり、福本は特に癖のない投手すらも癖を盗むことに成功していたため、いかに強肩の梨田であっても福本が勝つことが多かった[34]。福本は、盗塁を許すのはピッチャーの責任が7割、キャッチャーが3割としている[67]。梨田は前記の構えのほかにも、捕球してから二塁送球までの時間を短縮するためボールをミットの掌の部分に当てて跳ね返ったところを右手でつかんで投げたり、目を閉じた状態でも二塁に正確に投げる訓練をしたり、慌てないよう福本のスタートを見ずにベンチからの声でスローイングするといった対策を重ねた[68]

打撃[編集]

盗塁だけでなく打撃においても優秀な選手であったのは、3割を7度記録し、2500本安打を達成したことや、8000打数以上の選手中で歴代4位となる通算打率.291の数字を残していることなどからも証明されている。しかし、新人時代はプロのスピードに押されっぱなしで、福本は打撃練習の際に三塁側へ「当て逃げ」のような打撃を繰り返していた。「足が速いので三塁側に転がせば内野安打になります」と監督の西本幸雄に話したこともある。しかし、西本には「そんな楽な練習しかしていなかったら力など絶対つかない」「いくら体が小さくてもしっかり振り切るバッティングをしなきゃいかん。オフの間にバットをしっかり振れる体を作ってこなければレギュラーには使えん」「ツボに来たらホームラン、ってものを持っていないとプロでは長生きできない」とひどく叱られたという[5][34]。1970年にはドン・ブレイザーが「福本は本当にもったいない。あの足でもっとショートゴロを打てば、確実に首位打者になれるのに」とコメントした記事を目にし、セーフティバントを遊撃手の方に転がす練習をしたところ、西本から「そんな打ち方しとったら、お前に代えて正垣当銀を使うぞ」とやはり叱られた[12]

福本はプロ入り当初より960 - 980gの重いバットを使用していた[69]。その後藤原満(南海)が使用していた径の太い「つちのこバット」を、大熊(近畿大学で藤原の先輩)が手に入れ、そのうちの1つをモデルにミズノで自分のバットを作った[69]。このタイプのバットで打撃練習をすると「コーン」と良い音がして、強くて速い打球が打てたという。これをきっかけに福本は「つちのこバット」でしっかり振り切る練習を繰り返した。このときのトレーニングが功を奏し、小柄な体格のわりには長打力も身につき、シーズン2桁本塁打を20年間で11度記録(最多で21本塁打)し、2007年高橋由伸に更新されるまではシーズン初回先頭打者本塁打の日本タイ記録(1972年の8本)保持者でもあった。なお、通算43本は現在も日本記録である(日米通算ではイチローが更新)。この戦法はのちの俊足打者にも強い影響を与え、若松勉ヤクルト)・大石大二郎(近鉄)らもつちのこバットを愛用していた。1976年の日本シリーズでは投手の山口高志や山田も福本のバットを使用して安打を放っており、福本は著書でこのバットなら「ピッチャーでも、ボールに当てるのはそれほど難しくなかった」と記している[69]。「つちのこバット」の重さは当初1200gで10年目頃に1080gに「落ち着いた」という[69]

盗塁では投手の癖を盗むことに執心した福本だが、打撃は自然体で臨んだという。岡崎満義(『Number』初代編集長)に「(癖を盗む研究を)打撃にも生かさなかったんですか」と質問された際、「打撃ではどうしてもうまくいきませんでした。癖を盗むことによって球種などを読めたことで、逆に気負ってフォームが崩れてしまうんですわ」と答えている[34]

俊足と巧打を活かしたプレイでランニングホームランも4回記録しており、日本プロ野球では歴代3位タイである[70]

通算4回の最多安打は、1998年イチローに抜かれるまではパ・リーグ記録であった。2011年現在は榎本喜八ブーマー・ウェルズと並ぶパ・リーグ歴代2位の記録である。また、1977年にはプロ野球歴代4位タイ、パ・リーグ歴代3位の30試合連続安打を達成している。

1985年に三塁打、現役最後となった1988年に二塁打の通算記録を更新し、一時は盗塁と合わせて3つの日本記録を保持していた。このうち二塁打は2005年中日立浪和義に破られたが、2017年現在もパ・リーグ記録である。立浪は記録更新に際して「福本さんの足があと少し遅ければ、この記録更新はなかった」とコメントしている。これは通常の選手なら三塁打が難しく二塁打になる当たりでも三塁打にできるという福本の走塁能力の高さを指している。通算二塁打と三塁打を合わせた数(564)は歴代1位である。福本は「スリルとチャレンジという点で、バッターとしては三塁打がいちばん面白い」と記している[71][注 14]

200本以上の本塁打も記録しているが、福本自身は「一番打者の仕事は出塁であり、本塁打を狙うのはおかしい。フルカウントに追い込まれて、やりたいようにやるのはわかるけど、そうでもないのに本塁打を狙うのはやはりおかしい」と語っており、本塁打狙いの一番打者が多い平成のプロ野球選手について苦言を呈している[72]

打撃三冠のタイトルには縁がなかった。1978年にはシーズン後半まで打率首位を保ち、首位打者の可能性があったが、終盤に規定打席を満たした佐々木恭介(近鉄)が抜き去り、タイトルには手が届かなかった[73]。福本は佐々木について「覆面パトカーのように現れて」と記している[73]

守備[編集]

俊足や判断力は守備にも生かされた。社会人時代から肘に故障を抱えていたため、送球にやや難があったが[34]、それを補って余りある守備範囲を誇り、通算守備機会5272、通算刺殺数5102は2017年現在もプロ野球記録である。1974年7月22日に阪急西宮球場で行われたオールスターゲーム第2戦では、阪神の田淵幸一が放った本塁打性の打球を、フェンスの上までよじ登ってキャッチ、アウトにした。これを見た巨人の長嶋茂雄は「まるでだよね」と評した[74]。もっとも、福本自身は「基本通りにボールの落下点へ一直線で駆け込みさえすれば、どの外野手でもできる」と記している[74][注 15]。同試合ではファインプレーに加えて本塁打も1本放ち、MVPを受賞している。

ダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)を歴代最多の12回も受賞するなど「外野守備の名手」と言われる福本だが、新人時代のキャンプでは守備練習でバンザイを繰り返すなどプロの壁にぶつかった時期があった(松下電器時代までは、足の速さから自分勝手な判断で走り出しても捕球できたが、プロは違ったと語っている)[75]。監督の西本は、外野守備と打撃を担当するコーチの中田昌宏(現役時代に本塁打王を獲得)に「生きた打球を覚えさせてやってくれないか」と福本専用のノッカーとなるよう依頼した[10]。福本は速い上に「急に伸びたり曲がったり」する打球のノックを毎日200本近く受けるうちに、落下点を想定してそこまで直線的に走れるようになった[76][75]。中田からは相手チームの打撃練習を観察して打者ごとに打球の傾向を把握することも義務づけられた[75]。こうした中田の教えや練習と経験の積み重ねによって、福本は外野守備の名手へと成長していった[75]。他球団野手からすると「信じられないくらい守備範囲が広かった」ため、「センターに打っても、ヒットにならへんで」という状態であった[77]

肩については、福本自身は「そこそこ自信があった」と述べているが[46]、前述のように肘に故障を抱えており、実際には、送球や返球にはやや難があった。晩年(1984年以降)はレフトにまわっている。強肩・送球の優劣を示す目安としての補殺数をみると、通算109補殺(2293試合)を記録しているが、1補殺あたりの試合数を強肩中堅手としての評価が高い他の中堅手と比較するとかなり見劣りがする(福本が21.0であるのに対し、例えば山本浩二は14.8である)。

福本は、オリックスについては自分たちのあとも山森雅文本西厚博田口壮イチローと優れた外野手が輩出され、守備練習の基礎も受け継がれているので、「選手たちはかわいい」と語っている[5]

記録など[編集]

17年連続規定打席到達、シーズン全試合出場8度の2つのパ・リーグタイ記録を持っている。また、2017年現在、阪急・オリックスの生え抜き選手として唯一2000本安打と2000試合出場を記録している。阪急の厚い外野手選手層の中でレギュラーをつかんだ頃、大熊忠義から負傷して休むとポジションを奪われるという忠告を受け、少々の怪我では休まない強靭な体を作ることを意識するようになった[5][78][注 16]

通算本塁打は208本であり、これは日本プロ野球界の通算安打数ベストテンに入る選手[注 17]の中では立浪(171本塁打)に次いで少ない。また、シーズン20本塁打に到達したのも1980年の1回のみである。しかし、プロ1年目から最終年まで本塁打のなかったシーズンは一度もない。打撃三冠を取ったことのない選手の中での最多安打記録の持ち主でもある。

現役時代の背番号7」はオリックス・ブルーウェーブの準永久欠番待遇であったが、引退前後に親会社が阪急電鉄からオリックスに変わったことなどがあって、正式な永久欠番とはなっていなかった。1991年ドラフト1位で入団した田口壮に背番号7が打診されたが、田口が固辞している(田口の背番号は6になった)。また、イチローもシーズン210安打を記録した1994年のオフに背番号7への変更を打診されたが固辞している。2001年には本人公認の上で、同年に横浜ベイスターズから移籍してきたばかりであった進藤達哉が背番号7を着けた。進藤が引退した後は日高剛が背番号7を着け、2004年に球団が近鉄と合併してオリックス・バファローズになったことを受け、準永久欠番扱いも失効している。山田が「7と(山田の)17は永久欠番にしてほしかったなあ」と語ったのを受け、福本は「それと(加藤英司の)10。この3つは今からでも返してほしいね」と語っている[5]。2018年現在、オリックスでは10番を大城滉二、17番を増井浩俊が着用するが、福本の背番号7は糸井嘉男の退団以後空き番号となっている。

解説者として[編集]

ヘッドスライディングを行った選手に対して「到達時間が変わらないのに怪我をする確率が高くなる」[79]、牽制球に対して手からの帰塁に関して「手から行かず、足から帰る。怪我をするだけ」と、この2つに関しては度々語っている[80]

ユニフォームの着用について、ストッキングを見せるクラシックスタイルを「正しいユニフォームの着方」「あんなに格好いいものはない」と強く推奨している。理由として「膝下まで引き上げたストッキングがストライクゾーンの目安となる」「足が速そうに見える」などを挙げている[81]

技術的な説明を求められると「ゴーン」「カーン」「ビャッと」などの擬音で表現することが多い[82]

赤星憲広に対しては厳しい評言をたびたびおこなっていた。もちろん好き嫌いで評価しているのではなく、走攻守の全てで高いレベルのプレーを要求していたことの現れであり、特に盗塁及び外野守備については熱く語る傾向にあった(福本は赤星のヘッドスライディングやダイビングキャッチを好まず「駆け抜けたほうが速い」「怪我の危険性も高くなる」「上手い外野手は飛び込まずに落下地点できっちり捕る」などとしばしば発言していた(奇しくも赤星は福本が抱いていた懸念通り、ダイビングキャッチによる首の負傷が原因で引退を余儀なくされる事となった)[80]

人物[編集]

結婚に際して、監督の西本幸雄は起用の公平性の観点から選手の仲人をしないと聞き、先に仲人として西本の名前を書いた招待状を印刷してから「もうみんなに配りましたので」と西本に頼んで引き受けさせた(後に山田と加藤も西本が仲人を務めた)[83]

1983年4月30日、対近鉄戦の試合前に、バンプ・ウィルスとともに競走馬(ジンクピアレス)と競走するイベントに出走した[84]。この催しは球団が簑田浩二も含めた「快速トリオ・イベント」と銘打って選手に打診する前にマスコミに発表、簑田は即座に拒否し福本も断るつもりでいたが、球団社長から「公表した以上取り止めるわけにはいかない。西宮球場に来てくれるファンのためにも……」と頼まれたため「ひと晩悩んだ末に仕方なく」受諾した[84]。福本は「僕は古いタイプの人間で、球団にとっては扱いやすい選手だったように思う」と記している[84]

大の宝塚歌劇団好きである「ヅカファン」。元々宝塚歌劇団と阪急ブレーブスは同じ阪急系列のため身近な存在ではあったが、以前は「女性が見るもの」という意識から敬遠していたという。しかし、2006年に初めて観劇したところ「目からウロコが落ちた」という。[要出典]2014年の著書の「あとがき」では「規律と礼儀正しさが生み出す美しい舞台に魅せられて、今ではすっかり宝塚歌劇のファンになってしまった」と記している[85]。自ら「自分に会いたければ月曜日に宝塚に来ればいい」と語るほど[86]。劇団創立100周年に当たる2014年に行われた「宝塚大運動会」では、大トリ競技の「組対抗リレー」でスターターを任された[87]

また落語好きでもあり、自らの店でも親交のある落語家(笑福亭銀瓶など)を招いて定期的に落語会を開いている[86]。中でも笑福亭仁智は福本を題材とした創作落語を複数発表している。

釣りを趣味としており、現役時代には武庫川河口の一文字埠頭に「気晴らし」に通っていた[88]。ブレーブスの売却が伝えられた1988年10月19日の夜は、報道記者から逃れるためにこの場所に夜釣りに来たものの、「ロッテ-近鉄戦のラジオ中継は耳に入らず、釣りを楽しむ心境ではなかった」と記している[88]

パンチ佐藤(元オリックス)は現役時代、休日前日の練習終了後に同僚数人と共に当時二軍監督だった福本に呼ばれ、「明日が休みやからといって須磨海岸に行って海に入ったりしたらアカンぞ。体冷えるからな」と注意を受けた、翌日福本の注意を無視して同僚と須磨海岸に遊びに行った所、サングラスをかけ海パン一丁の福本が日焼けをしていたのを発見しビックリしたという[89]

現役時代の選手応援歌は米国の愛国歌「ヤンキードゥードゥル」の替え歌で、後年歌詞を改変したものがイチローに流用されている。

福本語録[編集]

現役時代[編集]

  • 1976年の日本シリーズ第3戦(10月27日)に阪急が勝利して巨人に3連勝したあと、「近鉄だってロッテだって、ウチと三つやれば一つは勝つで」と発言、驕っていると受け取られて非難を浴びた[90]。このあと巨人に3連敗し、逆転で日本一を逃す寸前まで追い込まれた(第7戦に勝利)。後年の取材に対し福本は「言葉足らずで意味が通じへんかった。ロッテは強かった。ピッチャーは成田さんなんかがおった。それまで巨人に一回も勝ってないのに『弱い』なんて言えるわけがない」とコメントしている[90]

現役引退後[編集]

  • 1992年5月27日サンテレビボックス席』で阪神甲子園球場から放送された阪神対大洋戦の中継において、投手戦で0が並んだまま延長に入ったスコアボードをみて「たこ焼きみたいやね」。本人曰く「長い試合でね、寒いわ、腹減るわで『どっちが勝ってもええから早よ終われ』思てたらポッと出たんですわ」。その後試合は1対1のまま延長戦にもつれ込み、15回裏に1点が入り阪神がサヨナラ勝ち。スコアボードの「1」を見て「たこ焼きに爪楊枝がついたな」。以上のやり取りが後日「夕刊フジ」で報じられたことをきっかけに、ゼロが並ぶスコアボードが各所で「たこ焼き」と呼ばれるようになった。「名コンビ」と呼ばれる楠淳生が「最初に化学反応が起きた試合」と語っているのもこの試合である[91]
  • 2008年7月29日ABCフレッシュアップベースボール神宮から放送されたヤクルト対阪神戦は5回終了後悪天候のため試合を中断していた。当日は2階席に設けた仮設放送席から中継していたが、吹き込んでくる雨から逃げるディレクターに「お前だけで逃げるな!」。楠淳生が他球場の経過等を伝えている間も「雷や、雷や!」と騒いでいた。楠にしょうもない業務連絡はやめてください、とたしなめられると「アホ、そやかて服濡れてしまうやろ」と返す。放送席の周りに観客が集まってくると「こんなことなかったら麻雀やっとるわ」「ボーグルソン、儲けた白星やな」とひとしきり漫才のような掛け合いをしていた[91]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1969 阪急 38 41 39 8 11 3 0 2 20 4 4 1 0 0 2 0 0 6 0 .282 .317 .513 .830
1970 127 489 423 92 116 23 3 8 169 41 75 15 3 3 55 0 5 71 4 .274 .362 .400 .762
1971 117 481 426 82 118 18 5 10 176 45 67 14 0 4 50 4 1 49 2 .277 .351 .413 .764
1972 122 542 472 99 142 25 6 14 221 40 106 25 3 2 62 3 3 69 2 .301 .384 .468 .852
1973 123 566 497 100 152 29 10 13 240 54 95 16 0 2 65 3 2 56 3 .306 .387 .483 .870
1974 129 539 477 84 156 19 7 8 213 52 94 23 1 1 58 1 2 57 2 .327 .401 .447 .848
1975 130 549 491 79 127 26 4 10 191 51 63 12 1 3 50 1 4 74 3 .259 .330 .389 .719
1976 129 567 489 88 138 23 9 8 203 46 62 17 0 3 73 0 2 66 8 .282 .376 .415 .791
1977 130 597 541 89 165 21 9 16 252 54 61 13 1 2 49 3 4 74 6 .305 .366 .466 .832
1978 130 595 526 107 171 35 10 8 250 34 70 21 3 1 60 4 5 65 4 .325 .399 .475 .874
1979 128 587 493 101 142 27 9 17 238 67 60 24 7 3 79 3 5 63 2 .288 .390 .483 .873
1980 128 603 517 112 166 29 6 21 270 58 54 20 4 3 78 5 1 64 3 .321 .409 .522 .931
1981 130 584 495 90 142 22 7 14 220 48 54 15 6 2 80 2 1 65 3 .287 .386 .444 .830
1982 127 575 476 97 144 31 7 15 234 56 54 20 8 1 88 1 2 46 4 .303 .413 .492 .905
1983 130 587 493 89 141 26 7 10 211 59 55 20 7 1 85 7 1 40 5 .286 .391 .428 .819
1984 130 585 488 93 126 22 2 9 179 41 36 17 8 2 85 1 2 41 3 .258 .369 .367 .736
1985 130 531 425 95 122 15 7 11 184 51 23 10 5 6 95 0 0 40 5 .287 .412 .433 .845
1986 130 520 454 75 120 18 2 8 166 29 23 12 5 3 55 1 3 55 2 .264 .346 .366 .712
1987 101 386 349 53 100 25 3 5 146 33 6 3 2 2 33 1 0 35 0 .287 .346 .418 .764
1988 92 206 174 23 44 12 2 1 63 21 3 1 0 0 32 1 0 18 4 .253 .369 .362 .731
通算:20年 2401 10130 8745 1656 2543 449 115 208 3846 884 1065 299 64 44 1234 41 43 1054 65 .291 .379 .440 .819
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB最高

タイトル[編集]

  • 盗塁王:13回 (1970年 - 1982年) ※受賞回数歴代最多(2015年終了時点)
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):4回 (1973年、1974年、1977年、1978年) ※1994年より表彰

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
  • 初出場:1969年4月12日、対東映フライヤーズ1回戦(阪急西宮球場)、8回裏に長池徳士の代走として出場
  • 初盗塁:1969年4月13日、対東映フライヤーズ3回戦(阪急西宮球場)、8回裏に二盗(投手:桜井憲、捕手:種茂雅之
  • 初先発出場:1969年4月20日、対南海ホークス3回戦(阪急西宮球場)、1番・中堅手で先発出場
  • 初安打:同上、5回裏に泉嘉郎から右翼線二塁打
  • 初本塁打・初打点:1969年10月9日、対東映フライヤーズ25回戦(阪急西宮球場)、6回裏に森安敏明から2ラン
節目の記録
  • 450盗塁:1975年5月14日、対太平洋クラブライオンズ前期9回戦(阪急西宮球場)、8回裏に二盗(投手:加藤初、捕手:楠城徹
  • 500盗塁:1975年9月21日、対近鉄バファローズ後期10回戦(阪急西宮球場)、7回裏に二盗(投手:太田幸司、捕手:有田修三) ※史上2人目
  • 550盗塁:1976年8月12日、対南海ホークス後期5回戦(大阪スタヂアム)、1回表に二盗(投手:江夏豊、捕手:野村克也) ※史上2人目
  • 1000本安打:1977年5月15日、対南海ホークス前期8回戦(大阪スタヂアム)、9回表に森口益光から左前適時打 ※史上100人目
  • 600盗塁:1977年7月19日、対クラウンライターライオンズ後期1回戦(阪急西宮球場)、3回裏に二盗(投手:古賀正明、捕手:若菜嘉晴) ※史上初
  • 1000試合出場:1977年8月5日、対近鉄バファローズ後期4回戦(阪急西宮球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上192人目(大橋穣と同日達成)
  • 650盗塁:1978年6月7日、対クラウンライターライオンズ前期10回戦(西京極球場)、1回裏に二盗(投手:山下律夫、捕手:若菜嘉晴) ※史上初
  • 700盗塁:1979年4月10日、対西武ライオンズ前期1回戦(阪急西宮球場)、2回裏に二盗(投手:古沢憲司、捕手:野村克也) ※史上初
  • 100本塁打:1979年4月22日、対日本ハムファイターズ前期2回戦(高知市野球場)、3回裏に杉山知隆から左越同点ソロ ※史上100人目
  • 750盗塁:1979年9月11日、対南海ホークス後期9回戦(大阪スタヂアム)、3回表に二盗(投手:杉田久雄、捕手:伊藤勲) ※史上初
  • 1500本安打:1980年6月6日、対日本ハムファイターズ前期10回戦(後楽園球場)、6回表に高橋直樹から ※史上38人目
  • 800盗塁:1980年9月13日、対近鉄バファローズ後期9回戦(日生球場)、1回表に三盗(投手:井本隆、捕手:梨田昌孝) ※史上初
  • 1500試合出場:1981年7月11日、対西武ライオンズ後期1回戦(阪急西宮球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上69人目
  • 850盗塁:1981年8月26日、対西武ライオンズ後期7回戦(西武ライオンズ球場)、9回表に三盗(投手:古沢憲司、捕手:山中重信) ※史上初
  • 300二塁打:1981年9月21日、対南海ホークス後期12回戦(大阪スタヂアム)、3回表に山内新一から右翼線二塁打 ※史上19人目
  • 150本塁打:1982年4月16日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(川崎球場)、1回表に水谷則博から先頭打者本塁打 ※史上63人目
  • 900盗塁:1982年8月6日、対南海ホークス後期2回戦(阪急西宮球場)、3回裏に二盗(投手:井上祐二、捕手:岩木哲) ※史上初
  • 3000塁打:1983年6月25日、対西武ライオンズ13回戦(島根県立浜山公園野球場)、8回裏に松沼雅之から左翼線二塁打 ※史上22人目
  • 350二塁打:1983年7月3日、対日本ハムファイターズ13回戦(阪急西宮球場)、1回裏に高橋一三から左前二塁打 ※史上11人目
  • 950盗塁:1983年8月2日、対近鉄バファローズ15回戦(平和台球場)、2回表に二盗(投手:住友一哉、捕手:梨田昌孝) ※史上初
  • 2000本安打:1983年9月1日、対ロッテオリオンズ21回戦(阪急西宮球場)、4回裏に田村勲から中前適時打 ※史上17人目
  • 1000盗塁:1984年8月7日、対南海ホークス18回戦(大阪スタヂアム)、9回表に二盗(投手:青井要、捕手:吉田博之) ※史上初
  • 2000試合出場:1985年6月12日、対日本ハムファイターズ11回戦(後楽園球場)、1番・中堅手で先発出場 ※史上21人目
  • 3500塁打:1986年5月9日、対南海ホークス5回戦(大阪スタヂアム)、9回表に竹口昭範から右中間安打 ※史上14人目
  • 1050盗塁:1986年6月7日、対日本ハムファイターズ9回戦(後楽園球場)、3回表に二盗(投手:金沢次男、捕手:田村藤夫) ※史上初
  • 400二塁打:1986年6月12日、対西武ライオンズ10回戦(阪急西宮球場)、4回裏に小野和幸から右翼線二塁打 ※史上8人目
  • 200本塁打:1986年8月17日、対近鉄バファローズ17回戦(藤井寺球場)、1回表に久保康生から右越先頭打者本塁打 ※史上50人目
  • 1000三振:1986年10月10日、対近鉄バファローズ26回戦(阪急西宮球場)、2回裏に谷宏明から ※史上13人目
  • 2500本安打:1988年4月8日、対近鉄バファローズ1回戦(阪急西宮球場)、5回裏に阿波野秀幸から右中間三塁打 ※史上5人目
日本記録
  • 通算1065盗塁
  • 通算115三塁打
  • 通算299盗塁刺
  • 通算外野手刺殺:5102
  • 通算外野手守備機会:5272
  • 通算初回先頭打者本塁打:43本(表24本、裏19本) ※表24本は日本タイ記録、裏19本はパ・リーグ記録
  • シーズン20二塁打以上:14回 (1970年、1972年、1973年、1975年 - 1984年、1987年) ※タイ記録
  • シーズン三塁打リーグ1位:8回 (1971年、1973年、1974年、1977年 - 1979年、1982年、1983年)
  • シーズン50盗塁以上:14回 (1970年 - 1983年)
  • シーズン盗塁:106(1972年)
  • 1試合3盗塁死(1980年6月19日)※タイ記録
  • 11試合連続盗塁:2回 (1971年4月27日 - 5月12日、1974年4月10日 - 4月28日)
  • 13年連続盗塁王(1970年 - 1982年)※獲得回数13回も日本記録
  • 12年連続ダイヤモンドグラブ賞(1972年 - 1983年) ※受賞回数12回も日本記録
  • 14年連続シーズン50盗塁以上(1970年 - 1983年)
  • 3年連続シーズン三塁打リーグ1位(1977年 - 1979年) ※タイ記録
パ・リーグ記録
  • 通算1656得点(1969年 - 1988年)
  • 通算449二塁打(1969年 - 1988年)
  • シーズン得点リーグ1位:10回 (1972年 - 1980年、1982年)
  • シーズン四球リーグ1位:6回 (1976年、1978年 - 1980年、1982年、1983年)※1980年は山崎裕之、1983年は門田博光と同数。他選手と同数でのリーグ最多四球2回はプロ野球史上最多
  • シーズン100得点以上:4回 (1973年、1978年 - 1980年)
  • シーズン100安打以上:18回 (1970年 - 1987年) ※タイ記録
  • シーズン全試合出場:8回 (1975年、1977年、1978年、1981年、1983年 - 1986年) ※タイ記録
  • シーズン初回先頭打者本塁打:8本 (1972年) ※タイ記録
  • 1試合5盗塁(1972年5月3日)
  • 17年連続規定打席到達(1970年 - 1986年) ※タイ記録
  • 3年連続シーズン100得点以上(1978年 - 1980年) ※タイ記録
  • 18年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1987年)
  • 9年連続シーズン得点リーグ1位(1972年 - 1980年)
  • 3年連続シーズン四球リーグ1位(1978年 - 1980年) ※タイ記録
その他の記録
  • 通算猛打賞:178回 ※歴代5位
  • 通算盗塁成功率:.781(1065盗塁299盗塁死) ※300盗塁以上では歴代4位
  • サイクルヒット:1回(1981年5月21日、対西武ライオンズ戦、西武球場) ※史上34人目
  • 30試合連続安打(1977年5月18日 - 7月10日)
  • 2試合連続初回先頭打者本塁打(1980年8月9日 - 8月10日)
  • 日本シリーズ通算盗塁:14(1969年、1971年、1972年、1975年 - 1978年、1984年) ※歴代1位
  • 日本シリーズ3試合連続盗塁 ※シリーズタイ記録
  • オールスターゲーム出場:17回 (1970年、1972年 - 1987年)
  • オールスターゲーム通算盗塁:17 ※歴代1位
  • オールスターゲーム通算得点:26 ※歴代1位タイ
  • オールスターゲーム9連続盗塁成功(1976年第2戦 - 1979年第1戦)

背番号[編集]

  • 40 (1969年 - 1971年)
  • 7 (1972年 - 1991年)
  • 87 (1998年 - 1999年)

関連情報[編集]

解説者としての出演番組[編集]

現在[編集]

以下はプロ野球のオフシーズン限定番組

過去[編集]

以下はABCテレビの番組

連載コラム[編集]

著書[編集]

関連著書[編集]

  • 『福本豊:快足に夢をのせて』(小川集作画、永島直樹原作、ぎょうせい(名球会comics 23)、1992年7月、ISBN 4324026521)

注釈[編集]

  1. ^ NPB記録。なおNPB・MLB通算ではイチローが2016年にこれを上回った。
  2. ^ この年のドラフト会議は「史上最も豊作だったドラフト会議」と呼ばれる[4]。その中でも阪急は1位山田久志・2位加藤秀司・福本と、後の名球会入り選手を3人も獲得した。
  3. ^ 種茂はのち、1972年にトレードで阪急に入団し、福本は「縁があった」と記している[11]
  4. ^ この記録は2年後の1974年にルー・ブロック(118盗塁)に更新された。現在はリッキー・ヘンダーソンが1982年に記録した130盗塁が最高記録。
  5. ^ 記録更新後に福本は二塁で牽制死している[14]
  6. ^ 1976年6月20日の対南海ダブルヘッダーでは、2試合とも1回に「四球出塁→二盗→犠打で三進→加藤の内野フライで生還」という記録を残している[18]
  7. ^ 福本はこの受賞を、最終戦で勝利した足立光宏や、自身と同じ11安打に加えて4盗塁を成功させたバーニー・ウイリアムスには「申し訳ない気がした」と記している[19]
  8. ^ 存命人物が受賞を固辞したのは福本が初めてで、2017年現在は他にイチローとの2例のみである。
  9. ^ 大阪府知事賞詞は、大阪の府民栄誉賞にあたる賞の名称で、府民の栄誉とよろこびを讃えて交付される言葉のことである。後に橋下徹知事が感動大阪大賞と改名した。このため現在も単に賞詞(知事賞詞)とも言う。福本は同賞の第一号受賞者である[23]
  10. ^ 福本は後から「新聞記者たちの前で意思をはっきり言えばよかった」と思ったと記している[27]
  11. ^ オリックスが前身球団(阪急ブレーブス・大阪近鉄バファローズ)の雰囲気を可能な限り再現させる「LEGEND OF Bs2011 蘇る黄金の70's」シリーズの第1戦に当たったことによる。
  12. ^ 福本は野村がマスクを被っている時に盗塁を162回企図し、成功138・失敗24で成功率.852であった。捕手別で見た場合、企図数・成功数はいずれも野村の時が最多である[49]
  13. ^ 走路に砂を入れて柔らかくすることは、日本生命球場や大阪スタヂアムなど、他の対戦チームの球場でもおこなわれていたと福本は述べている[58]
  14. ^ 長嶋茂雄も三塁打を好んでいたという発言をしている。詳細は長嶋の記事を参照。
  15. ^ 7年後、福本が守備練習に付き合った山森雅文が、公式戦(9月16日、対ロッテ戦)で同様のプレーを披露し、センターで守っていた福本は自らのプレーを連想し「やったぞ」と叫んだという[74]
  16. ^ 大熊がこの忠告を口にしたのは、『阪急ブレーブス黄金の歴史―1936→1988』の山田との対談では「試合で死球を受けたとき」、『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』では「フリー打撃の打球を左足に当てた」ときだと記されている。
  17. ^ 2017年シーズン終了時点で、張本勲野村克也王貞治門田博光衣笠祥雄、福本、金本知憲立浪和義長嶋茂雄土井正博の10人。なお、MLBでプレーしたイチロー松井秀喜松井稼頭央の3名は含めないものとする。

出典[編集]

  1. ^ 朝日新聞社(編)『全国高等学校野球選手権大会70年史』朝日新聞社、1989年[要ページ番号]
  2. ^ 別冊宝島』1517号「プロ野球情念の天敵対決」宝島社2008年、pp.87 - 88
  3. ^ 日本野球連盟毎日新聞社『都市対抗野球大会60年史』日本野球連盟・毎日新聞社、1990年[要ページ番号]
  4. ^ 福本、2014年p.50
  5. ^ a b c d e f g h i ベースボール・マガジン社2011、山田との対談より[要ページ番号]
  6. ^ 福本、2009年、第2章「ヘタやから、うまくなれた」[要ページ番号]
  7. ^ a b 福本、2014年pp.31 - 32(本書ではスカウトに対して福本が返答したとは書かれていない)。
  8. ^ “「お前、阪急から指名されとるやんけ」名言・珍言で振り返るドラフト会議”. スポーツニッポン. (2015年10月22日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2015/10/22/kiji/K20151022011359800.html 2015年10月22日閲覧。 
  9. ^ a b “元阪急・福本豊氏 ドラフト指名を同僚のスポーツ紙で知った”. NEWSポストセブン. (2013年2月27日). http://www.news-postseven.com/archives/20130227_173483.html 2018年2月1日閲覧。 
  10. ^ a b c 福本、2014年、pp.41 - 46
  11. ^ a b 福本、2014年、pp.46,56 - 57
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参考文献[編集]

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  • 宇佐美徹也 『プロ野球記録大鑑 <昭和11年 - 平成4年>』 講談社1993年。ISBN 4-062-06108-2。
  • 福本豊 『走らんかい!』 ベースボール・マガジン社2009年。ISBN 4-583-10710-5。
  • 福本豊 『阪急ブレーブス 光を超えた影法師』 ベースボール・マガジン社2014年。ISBN 4-583-10710-3。
  • 長谷川晶一 『プロ野球、伝説の表と裏』 主婦の友社2014年。ISBN 4-07-299016-7。
  • 広瀬叔功 『南海ホークス ナンバ 栄光と悲しみの故郷』 ベースボール・マガジン社、2014年。ISBN 4-583-10709-7。
  • 鎮勝也 『伝説の剛速球投手 君は山口高志を見たか』 講談社2014年。ISBN 4-06-219260-6。
  • 『阪急ブレーブス黄金の歴史―1936→1988(B・B MOOK 750 スポーツシリーズ NO. 621)』 ベースボール・マガジン社2011年。ISBN 4-583-61775-6。

関連項目[編集]