福永嫮生

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福永嫮生(ふくなが こせい〔旧姓:愛新覚羅(あいしんかくら)〕、昭和15年(1940年3月13日 - )は、の最後の皇帝にして満州国皇帝であった愛新覚羅溥儀の実弟溥傑の次女。

経歴

昭和15年(1940年)3月、溥傑と嵯峨浩(日本の侯爵家出身)夫婦の次女として、一時的に戻っていた母の出身地・東京で生まれる。同年6月に父のいる満州(現在の中国東北部)に渡る。

昭和20年(1945年)日本の降伏とともに満州国は解体し、父と母は生き別れとなる。嫮生は母とともに1年4ヶ月にわたって中国大陸を流転した末、昭和22年(1947年)日本に帰ってくる(詳細は嵯峨浩#流転の日々を参照のこと)。

日本に引き揚げた後は、日吉神奈川県横浜市港北区)に移っていた母の実家の嵯峨家で育つ。一方、父はソビエト連邦ハバロフスクや中国の撫順ハルビンで収容生活を送っていたため、父とのやり取りは文通に限られた[1]。昭和32年(1957年)、大変仲の良かった姉の慧生が死亡(天城山心中)。学習院初等科学習院女子中等科学習院女子高等科を経て、昭和35年(1960年)3月、学習院女子短期大学家庭生活科卒業。

昭和35年(1960年)11月、父溥傑は釈放され、翌年母らとともに中国に渡り、父と16年ぶりに再会する。父母は北京(父の出身地)で再び夫婦生活を始めたが、嫮生は日本に戻り、日本に帰化する[2]。昭和38年(1963年)に再び中国に行き、1年程父母と一緒に過ごす。

その後、嵯峨家の祖母のもとで花嫁修業を行い、昭和43年(1968年)、母の妹・泰子(香淳皇后の女官)の嫁ぎ先であり、嵯峨家と親交の深い福永家(兵庫県神戸市に所在)の次男(泰子の夫の甥)と結婚し、5人の子を儲ける。

現在は自身の体験や父母から学んだことを基にした日中友好や、戦争体験の講演等で活躍中。兵庫県西宮市在住。

脚注

  1. ^ 日本に戻った当初は連絡すらも取れない状態であったが、昭和29年(1954年)に姉の慧生が中国の周恩来首相に「父に会いたい」という手紙を書き、それに感動した周により文通が認められた。
  2. ^ 母の浩が結婚した際、当時の吉岡安直帝室御用係が嵯峨家に無断で浩の日本国籍を抜いてしまったことにより、浩と嫮生の当時の国籍は在日華僑であった(舩木繁『皇弟溥傑の昭和史』新潮社ISBN 4103723017、185頁)。

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