稲川誠

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稲川 誠
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 福岡県福岡市満州国新京生まれ)
生年月日 (1936-07-25) 1936年7月25日(83歳)
身長
体重
170 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1962年
初出場 1962年4月15日
最終出場 1968年10月14日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
  • 大洋ホエールズ
    横浜大洋ホエールズ (1969 - 1984, 1987 - 1989)

稲川 誠(いながわ まこと、1936年7月25日 - )は、福岡県福岡市出身(満州国新京生まれ)の元プロ野球選手投手)・コーチ

経歴[編集]

満州国新京で生まれ、小学3年までは北京で育った。少年時代は裕福であったが、9歳で終戦を迎え一変[1]。中国軍に追い立てられて天津の収容所へ送られたが、そこで病に侵され生死をさまよった[1]。父の背中から見た無数に横たわる病人の光景が強烈な記憶として残るが、その後は引揚船佐世保に到着[1]。初めて祖国の土を踏むが、引き揚げ後には母に「あなたを(中国に)置いていこうと思った」と告白されている[1]。帰国後は父がサラリーマンであったため各地を回り[2]西南学院中学部時代には好投手として福岡県内で有名になった。中学卒業後は進学校・修猷館高校[3]に入学するが、野球よりもハワイアンバンドを組んで音楽を楽しんだり[4]、九州中の山を登ったり、多くのを捕まえたり[5]と趣味を謳歌した。高校卒業後は1955年立教大学へ進学し、杉浦忠長嶋茂雄本屋敷錦吾の1年後輩となる。野球部には一般入部であったがブルペンでのピッチングが評価されて打撃投手になり、4年次の1958年には同期の森滝義巳の2番手投手となるが、神経痛の影響もあって東京六大学リーグでは1勝も出来なかった。大学卒業後には数社からスカウトが来たが、1959年富士製鐵室蘭へ入社。2年目の1960年にはエースとして都市対抗に出場するが、1回戦でニッポンビールの高橋栄一郎に抑えられ惜敗[6]。同年の産業対抗では日本鋼管の補強選手として出場し、決勝では日本石油と対戦。八幡製鐵から補強された同郷の池田英俊をリリーフして好投、優勝を飾る。この時に16奪三振の記録を作り、プロのスカウトの目に留まる[2]。3年目の1961年都市対抗では1回戦で日炭高松と対戦し、この大会でも八幡製鐵から補強された池田と投げ合い完封勝利するが、2回戦では新三菱重工の鬼頭忠雄に完封を喫する[6]

1962年に25歳にして大洋ホエールズへ入団。切れのある速球と大小2種類のカーブを武器に、1年目から投手陣の一角を占め、防御率1.98で12勝をマーク。7月1日巨人戦(川崎)では一本足打法に切り替えた王貞治の初めての対戦相手となり、第1号の本塁打を打たれた[7]。このとき稲川は王のフォームを見て、驚くよりも「バカにしているのか?」が第一印象で、本塁打を含む3安打を奪われたが、それでもなお「こんな打ち方は長続きしないだろう」程度の認識であったという。2年目の1963年には球団史上最多[8]の26勝、3年目の1964年も21勝をマーク。同年の阪神との激しい優勝争いの立役者となり、秋山登と並ぶ大洋投手陣の両輪として活躍。特に1963年は5月23日時点では1勝7敗と大きく黒星が先行していたが、同26日の阪神戦(甲子園)では準ノーヒットノーランの完封勝利で2勝目を挙げる。そこから波に乗って、前半戦終了時には10勝10敗まで星を戻した。打線の援護も得られるようになると、8月5日の巨人戦(川崎)から5試合連続完投勝利を含む驚異の9連勝で20勝を達成。最終的に球団記録の26勝を打ち立てるも、金田正一が30勝を記録したため最多勝はならなかった。同年に大洋は巨人に9勝18敗1分と大きく負け越したが、稲川は7勝2敗と勝ち越している。1964年の大洋は9月18日時点で残り6試合で2位に3.5ゲーム差という大差をつけ2度目の優勝を決定的にし、同26日にはマジックを1として2位阪神とのダブルヘッダー(甲子園)を迎えた。第2試合は5回表に代打金光秀憲のタイムリーと伊藤勲の犠牲フライで大洋が2点を勝ち越したが、7回、8回と先発の高橋重行が1点づつを失い同点となったところで、三原脩監督は鈴木隆を挟んでから稲川をマウンドに送った。だが稲川は二死満塁からワイルドピッチを投げてしまい、三塁から立大の先輩・本屋敷が本塁に突っ込んできた。万事休すかと思われたが、なんと稲川の暴投がバックネット下のコンクリートに当たって跳ね返ってきた。捕手の伊藤はそれをキャッチすると、すぐさま本塁をカバーしていた稲川に送球した。タイミングをアウトだったが、稲川はフワッっとした力のないタッチをしてしまい、判定はセーフとなり勝ち越しを許した。このまま試合に敗れた大洋はここでシーズン終了し、阪神は残り試合に連勝して、奇跡あるいは悪夢の逆転優勝を達成。稲川が「あのワイルドピッチがなければ」と悔やめば、伊藤は「あれはパスボール、オレが止めていれば」と稲川を庇った。1963年から1965年までオールスター3年連続出場を果たし、初出場の1963年7月23日の第2戦(東京)では先発として登板し、榎本喜八に満塁本塁打を浴びるも勝利投手となっている。1966年まで5年連続2桁勝利を記録するが、肩を痛める。1968年にはイースタン・リーグ記録の11連勝を達成して最多勝を獲得するが、一軍では0勝に終わり、同年のシーズン終了後に現役を引退。

引退後は大洋→横浜→DeNAとホエールズ→ベイスターズ一筋に二軍投手コーチ(1969年 - 1977年, 1980年 - 1984年)、一軍投手コーチ(1978年 - 1979年, 1987年 - 1989年)、スカウト(1985年 - 1986年, 1990年 - 2003年)、寮長(2006年 - 2012年[9])を務めた。コーチ・スカウト時代には自分たちの地位向上のため「日本一のコーチ」「日本一のスカウト」といつも心に思い[2]、スカウト時代には松坂大輔を担当[2]1998年のドラフトでくじを当てる事が出来ずに西武に入団が決まってしまい[2]、人前も憚らず涙を落とした[10]。勇退の際、球団から長年の功労を称える意味で記念盾が贈呈された。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1962 大洋 55 26 4 2 1 12 7 -- -- .632 762 191.0 126 13 77 0 5 150 4 0 49 42 1.98 1.06
1963 54 38 19 6 0 26 17 -- -- .605 1373 338.1 272 19 133 5 17 188 1 0 107 91 2.42 1.20
1964 55 40 14 5 0 21 13 -- -- .618 1248 302.2 261 28 112 7 7 162 4 0 107 98 2.91 1.23
1965 55 31 6 2 0 11 14 -- -- .440 960 232.1 201 17 89 9 5 126 3 0 91 75 2.91 1.25
1966 43 25 6 2 1 10 11 -- -- .476 764 184.1 165 20 50 4 8 110 1 0 80 64 3.13 1.17
1967 29 8 1 1 0 3 7 -- -- .300 345 80.1 92 12 17 0 0 39 0 0 44 35 3.94 1.36
1968 13 1 0 0 0 0 1 -- -- .000 68 14.2 19 3 6 0 1 10 0 0 10 10 6.00 1.70
通算:7年 304 169 50 18 2 83 70 -- -- .542 5520 1343.2 1136 112 484 25 43 785 13 0 488 415 2.78 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

初記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 15(1962年 - 1968年)
  • 60(1969年 - 1984年)
  • 73(1987年 - 1989年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d DeNA元寮長の教え「我慢」と「何とかなる」
  2. ^ a b c d e <卓話>球界の裏話 横浜ベイスターズ・寮長 稲 川 誠 様
  3. ^ 東京修猷会 第463回二木会(1999年1月14日(木))
  4. ^ ウクレレが趣味。
  5. ^ 蝶の収集・飼育も趣味であり、専門家レベルとして知られ、キャンプの宿舎で蝶の蛹を飼育していた。日本に生息する蝶のほぼ全種を標本として収集している。その縁で横浜ファンで、昆虫マニアの顔を持つやくみつるとも交流があり、その蝶好きが漫画でネタにされた事がある。
  6. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  7. ^ シーズンでは第10号。
  8. ^ “DeNA、OBの稲川誠氏がセレモニアルピッチ 82歳の投球に盛大な拍手”. デイリースポーツ online. (2019年4月14日). https://www.daily.co.jp/baseball/2019/04/14/0012241080.shtml 2020年3月20日閲覧。 
  9. ^ 一本足に初めて本塁打許した投手…ハマ寮長勇退”. 読売新聞. 2012年12月27日閲覧。
  10. ^ 元大洋・稲川誠インタビュー ホエールズ、そしてベイスターズをもっとも深く知る男 「松坂大輔を獲れなかったとき、ボクは人前もはばからず、涙をボロボロ落としました」

関連項目[編集]