稲葉観通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
稲葉 観通
Inaba Akimichi.jpg
稲葉観通像(臼杵市・月桂寺所蔵)
時代 江戸時代後期 - 幕末
生誕 天保10年8月5日1839年9月12日
死没 文久2年閏8月4日1862年9月27日
改名 富太郎、観通
戒名 本国院殿一軌宗範大居士
墓所 東京都港区高輪東禅寺
官位 従五位下、伊予
幕府 江戸幕府
主君 徳川将軍家
豊後国臼杵藩 第14代藩主
氏族 稲葉氏
父母 父:稲葉通孚
兄弟 尊通幾通、通臧、通孚、松井松平康爵正室、大河内松平輝茂正室
正室:山内豊熙の娘山内容堂の養女)
久通(養嗣子)

稲葉 観通(いなば あきみち)は、豊後国臼杵藩の第14代藩主。

稲葉通孚(第11代藩主稲葉雍通の四男、第12代尊通・第13代幾通の弟)の長男として生まれたが、先代藩主・幾通が天保14年(1843年)12月に若死にした後、祖父の雍通によって幾通の養嗣子として擁立され、天保15年(1844年)7月24日に家督を継ぐ。しかし、幼年のため、実際の藩政は祖父が取り仕切っていた。天保16年(1845年)、流刑に処された元幕臣の渋川敬直を預かっている。

弘化4年(1847年)に祖父が死去すると藩政を執り始める。義父が有名な山内容堂(豊信)であったことから、軍制改革や海岸の測量、外国船に対する砲台の建設など、藩政の整備に尽力した。

文久2年(1862年)閏8月4日に24歳で死去し、跡を養嗣子の久通が継いだ。幕末の動乱期ということから、その死はしばらく隠匿された。