竹内賀久治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

竹内 賀久治(たけうち かくじ、明治8年(1875年10月3日 - 昭和21年(1946年11月18日)は、日本弁護士教育者政治活動家法政大学総長第二東京弁護士会会長国本社専務理事学位法学博士

人物[編集]

岡山県窪屋郡白楽市村倉敷市)に生まれる。苦学して、明治26年(1893年)に陸軍教導団に合格。98年に陸軍士官学校に入学する(11期)[1] 。しかし上官と喧嘩をし、陸軍を退職。その後、麻布中学体操教師をしながら和仏法律学校(現法政大学)夜間部に通い、明治44年(1911年)に司法試験合格。翌年弁護士を開業する。

雑誌に書いた論文を同郷の平沼騏一郎に絶賛されたのを機に、懇意となる。東大上杉慎吉に師事[2]、学生団体興国同志会の機関誌『国本』を太田耕造と共に発行した。この興国同志会を基盤に、大正13年(1924年)に国本社を設立。平沼が会長となり、山川健次郎東郷平八郎らを顧問に招いた。

当初東京弁護士会に所属していたが、役員選挙の激烈化に伴い新しく設立された第一東京弁護士会に移る。しかし、両者の対立はおさまらず、関係者や新しい会を作ろうとする勢力から“第三極たる弁護士会”が要請されたため、竹内は、自身が中心となって作った法律研究家の団体である「知新会」を率いて第二東京弁護士会を創立した。後に会長となる。

昭和11年(1936年)に法政大学の常務理事に就任し、昭和18年(1943年)に同大学総長に就任。荒木貞夫大川周明を両翼に配し、盟友井上達三(陸軍中将)を予科長に任ずるなどして、学内の軍国色をいっそう強めていった。

昭和21年(1946年)1月に総長を辞任し、同年死亡した。その葬儀は第二東京弁護士会の会葬として行われた[3]

著書[編集]

  • 『特許法‐全‐』(巖松堂書店、昭和13年)

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 『最新 右翼辞典』 2006年、P.396.「竹内賀久治」の項、L4。
  2. ^ 立花隆著 『天皇と東大 上』 470頁
  3. ^ 法政大学 『法政大学八十年史』 302頁

参考文献[編集]

  • 竹内賀久治伝刊行会 編 『竹内賀久治伝』(大空社、1997年)ISBN 9784756804822
  • 堀幸雄『最新 右翼辞典』(柏書房2006年)ISBN 4760130233
  • 法政大学 『法政大学八十年史』 1961年
  • 法政大学百年史編纂委員会 『法政大学の100年<1880-1980>』 法政大学、1980年

関連項目[編集]

先代:
小山松吉
法政大学総長
1943年 - 1946年
次代:
野上豊一郎