竹島問題外交交渉史

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竹島(島根県隠岐郡隠岐の島町)。 左が女島(東島)、右が男島(西島)

竹島問題外交交渉史(たけしまもんだいがいこうこうしょうし)は、現在、韓国が実効支配している島根県隠岐郡隠岐の島町竹島(韓国名:独島、英名:リアンクール岩礁)に関する日本・韓国・連合国(主としてアメリカ合衆国)の間で交わされた外交交渉を一次一級史料(当時の公的機関が発行した文書で、原本が現在でも確認できるもの)を基にまとめたものである。なお、史料については、明らかに現在の竹島を指し示していると断定できるもの、第三者が検証可能なものを中心に一覧にし、領土問題に関する歴史的考察は当項目では扱わない(両国の歴史的根拠の主張を含む考察は、項目「竹島問題」参照)。

史料一覧[編集]

西暦 月 日 史料名(訳文) 史料原文(Wikisource) 保管場所
1905年 1月28日 竹島閣議決定 竹島告示史料 国立国会図書館
2月22日 島根県告示第四十号 竹島告示史料 同上
1945年 8月15日 ポツダム宣言受諾(日本の降伏) ポツダム宣言 同上
1946年 1月29日 SCAPIN677 SCAPIN677 米国立公文書館
6月22日 SCAPIN1033 SCAPIN1033 同上
1947年 3月19日 SF[1]草案47/03/19 草案47/03/19 同上
8月5日 SF草案47/08/05 草案47/08/05 同上
9月16日 SCAPIN1778 SCAPIN1778 同上
1948年 1月8日 SF草案48/01/08 草案48/01/08 同上
1949年 9月7日 SF草案49/09/07 草案49/09/07 同上
11月2日 SF草案49/11/02 草案49/11/02 同上
12月29日 SF草案49/12/29 草案49/12/29 同上
12月29日 SF草案49/12/29に関するメモ 竹島に関するメモ草案49/12/29に添付 同上
1950年 7月 SF草案49/12/29に関する国務省解説 竹島に関するアメリカ国務省内メモ 同上
8月7日 SF草案50/08/07 草案50/08/07 同上
8月 SF草案50/08/07に関する米国国務省による解説 竹島に関するメモ 同上
1951年 4月7日 SFイギリス草案51/04/07 草案イギリス版51/04/07 英国立公文書館
5月2日 条約についての米英会議覚書 米英ミーティングメモ 同上
5月3日 SF草案51/05/03 アメリカ・イギリス合同草案51/05/03 米国立公文書館
5月9日 韓国からの要望に対する米国側検討意見書 韓国からの要望に対する米国側検討意見書 同上
6月14日 SF草案51/06/14 草案51/06/14 同上
7月9日 エモンズによる会談覚書 1951年7月9日付エモンズによる会談覚書 同上
7月19日 韓国からSF草案に関する要望1951/07/19 韓国からアメリカへの要望1951/07/19 同上
7月19日 エモンズによる会談覚書 7月19日付会談覚書 同上
7月31日 竹島に関するボッグス調査メモ 竹島に関する調査メモ 同上
8月2日 韓国からSF草案に関する要望1951/08/02 韓国からアメリカへの要望1951/08/02 同上
8月3日 ボッグスメモ 韓国の要望に対するメモ 同上
8月10日 ラスク書簡 韓国の要望に対する回答書 同上
9月8日 SF最終版サンフランシスコ平和条約調印 SFファイナル版 同上
9月21日 韓国からSCAPIN677に基づく竹島領有権主張外交文書 (1951/9/21) 駐韓アメリカ大使に対する外交文書 同上
10月3日 韓国からSCAPIN677に基づく竹島領有権主張外交文書 (1951/10/3) 駐韓アメリカ大使に対する外交文書 同上
1952年 11月14日 K・ヤングライトナー書簡 Information about Liancourt Rocks 同上
11月27日 極東司令官のSCAPINに対する認識 極東司令官からの手紙 同上
12月4日 韓国外務部への口上書(第187号文書 口上書(第187号文書 同上
1953年 7月22日 レノア・バーマスター竹島問題あり得るべき解決策 Methods of Resolving Liancourt Rocks 同上
1954年 8月15日 ヴァン・フリート特命報告書 ヴァン・フリート特命報告書 同上
1960年 4月27日 駐日大使ダグラス・マッカーサー2世からの電報 Telegram 3470 to the Department of State 同上

第二次世界大戦前[編集]

竹島の島根県編入の内務大臣訓令

1905年1月28日、日本は竹島島根県隠岐島庁へ編入する閣議決定の上、内務大臣芳川顕正が「内務大臣訓令」として告示を発布した[2] [注釈 1]。告示は、一次一級史料としては「北緯37度9分30秒、東経131度55分にある無人島」と経緯度による位置が明示されたものである[2]

また、当時の島根県知事松永武吉はこれを受けて同年2月22日「島根県庶十一号」を発し、県に編入した[3]。なお、島根県制定の「竹島の日」はこの「島根県庶十一号」を発した日にちなんでいる。戦前日本による実効支配の始まりである[2]

これについては、島根県告示のみで、国家として国際社会に伝わるような手続きをしていなかったことが問題視されることもある[2]。しかし、その後40年間、どの国からも日本が実効支配を続けたことに対する抗議がなく、1945年まで他国から何らかの意思表示がないまま支配が続いていた事実は重くみてよい[2]

連合国占領時代[編集]

1945年8月、ポツダム宣言受諾とともに、日本は連合国の占領下におかれた。また、占領時には日本の統治は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)による訓令の形で行われ、その訓令を "SCAPIN" と呼んだ。

日本の領土は、暫定的にポツダム宣言第8条に定められた通り北海道本州四国九州のほか連合国が定める諸小島に限定されることとなり、最終決定はサンフランシスコ平和条約(日本国との平和条約)(以下、「SF条約」)[1]にて取り決めることとなった。

日本の漁獲水域[編集]

1946年1月29日、GHQは SCAPIN677 を発令した。この訓令では、第3項で日本の漁獲水域の範囲から、鬱陵島済州島とともに竹島を外した[4]。しかし、訓令の第6項では

この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。

とされている[4]

同年6月22日には SCAPIN1033 が「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」として発令され、竹島の12海里内に近づいてはならない、と訓令された[4]。この海域の区分けは、SCAPINを発した連合国軍最高司令官(SCAP)ダグラス・マッカーサー元帥にちなんでマッカーサー・ラインと呼ばれた[5]

後に李承晩大統領は、SF条約発効にともなうマッカーサーラインの廃止直前の1952年1月、これに代わるものとして李承晩ラインを一方的に宣言し、竹島を自国領土に取り込んだ[6] [注釈 2]。この宣言は米国はじめとした各国から非難を浴びた。

サンフランシスコ平和条約の起草[編集]

1947年からサンフランシスコ平和条約(SF条約)の起草が始まる。

1947年3月19日の版では、第4条で、日本は韓国および韓国沿岸部の島々の主権を放棄し韓国に移譲することになっているが、その島々に竹島も含まれる、と起草されている。1949年までに起草された条約案は、全て[7]そのように記載されている。

しかし、その後日本政府は竹島の領有権について再考を求めるべく抗議を行った。日本の抗議を受けて、シーボルト駐日政治顧問は竹島領有再考をバターワース国務次官補に勧告した[8]。 以降、条約草案[9]では対馬隠岐島と並んで竹島が日本の領土と明記されるようになった(SF草案1949/12/29)。

対馬、竹島、波浪島(実在しない)の領有権と韓国政府を第二次大戦の戦勝国の一国と認め、SF条約の署名に参加させることを要求していた韓国へは、米国側検討意見書として1951年5月9日に要求への回答が示された。韓国の梁裕燦大使は、1951年7月9日に米国ダレス国務長官顧問に呼ばれ、再度、韓国は戦勝国とは認められないと回答された。

1951年7月19日韓国からの要望[編集]

李承晩政権は米国の意向に対して、さらに同年7月19日に梁裕燦大使の名で、ダレス国務長官顧問に要望書を提出し会談を行った。この会談では韓国が戦勝国として調印したいという要望はなくなったが、以下の3点の要望が行われた。

  1. 竹島、波浪島(実在しない島)を日本が放棄する領土に含めること。
  2. 日本が戦時中に朝鮮半島に残してきた財産を韓国に移管する事。
  3. SF条約[1]に「マッカーサー・ラインは今後も有効である」と明記すること。

会談の内容は、当時国務省北東アジア部朝鮮課長で会談に同席したアメリカの外交官アーサー・B・エモンズ3世の纏めたメモ「エモンズによる会談覚書」にあるとおりである。

その会談の中でダレスから「対馬の記載がなくなっているが」と尋ねられた梁大使は「書き忘れた」と答えており、また波浪島の位置を尋ねられると答えることが出来なかった(実際に存在していない)。ダレスはこの要望に対して「それらの島が併合前に韓国の領土であったならば問題ない」と回答している。また、漁業協定(マッカーサー・ラインの効力)に対する要望は日本・韓国の二国間で交渉すべきもの、とした。

また、会談の中でダレスは以下のように述べている。

韓国大使(梁裕燦)が7月18日の評論声明で使用した、「十分な信頼と信任により平和を愛する世界の国々との機構への日本人の受け入れに反対する」と口にした警告の強い言葉に国務省は驚き大いに動転している。

会談の中でも「朝鮮人は日本人による差別に大いに苦しんだ」という表現を梁大使は使い、朝鮮は日本による被害を受けた被害者である、という立場を強調しているが、上記声明は逆に日本人を差別する内容であり、米国としては「驚き大いに動転している」という異例の表明となった。

1951年8月2日韓国からの要望[編集]

7月19日に米国との会談で譲歩が得られなかった韓国は同年8月2日に再度要望書ディーン・アチソン国務長官に提示した。 今回の要望は7月19日付要望と同様に、

  1. 日本が朝鮮半島に残した財産をすべて韓国に移管する事
  2. マッカーサー・ラインを今後も有効とする事
  3. SF条約で戦勝国が受けられる権益を韓国も受けられるようにする事(日本との二国間協議では韓国は戦勝国側の立場をとる事、および、日本が負う戦時賠償義務を韓国に対しても認める事)

当然のことながら米国は一貫して「韓国が戦勝国の立場をとる」ことは一蹴している。しかし、竹島・波浪島の要望については米国内で再度確認を行い(「ワシントン中全ての資料をあたった」[注釈 3]、また、駐米韓国大使館まで調査を行った[11]が、韓国の主張は確認できなかった、とロバート・アップルトン・フィアリーによって報告されている(ワシントンで韓国の主張を精査し「韓国の主張は確認できない」と判断した地理学サミュエル・ホイットモア・ボッグスの名前を取って「ボッグスメモ」と呼ばれる)。

ラスク書簡(米国からの最終回答)[編集]

上記のように数回の会談、調査を経てアメリカ合衆国は最終的な米国の見解を国務次官補ディーン・ラスクが1951年8月10日に書簡にて竹島は日本の領土であると回答した。 ラスク国務次官補が回答した翌月の9月8日に、正式に日本国との平和条約が調印された。

サンフランシスコ平和条約調印後[編集]

1951年9月8日にサンフランシスコ平和条約(SF条約)が調印された。 日韓間の領土については

第2条(a) 日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島巨文島及び欝陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。

となっている。

韓国による竹島の占拠[編集]

韓国はマッカーサー・ラインが廃止されることに満足せず、1952年1月18日に「李承晩ライン」を宣言する[12]。マッカーサー・ラインそのものは基になった SCAPIN677 および 1033 に記載されている通り、漁獲水域を限定しており、領土の主権には影響しないものとされているにも関わらず、李承晩ラインは事実上領土主権のおよぶ範囲を規定したものであり、これに基づいて韓国は武力を持って日本漁船の拿捕捕獲を始めるようになる[6]

アメリカの思惑としては、竹島は日本の領土としておきたいというのが本音であった[13]。当時は朝鮮戦争のさなかであり、竹島が韓国領ということになると、いつ北朝鮮の侵攻を受け占領されてしまうかもしれない[13]日本海共産主義国の拠点をつくらせるわけにはいかなかった[13]

日米両国による抗議[編集]

韓国による李承晩ラインの宣言に対し、日本はその10日後の1月28日、韓国に対して抗議を行い、アメリカ政府も2月11日に抗議を表明した[14]が、韓国政府はこれを無視した。当時は、日本はサンフランシスコ平和条約に調印はしていたが、施行はしていなかったため、事実上主権はまだ回復されていなかった[15]。そのため、日本から韓国へ直接抗議を行うほかに事実上の占領国であるアメリカにも抗議を行い、アメリカからも対韓抗議声明を出すかたちとなった[15]。韓国がこの時期に強引に事を進めたのは、SF条約が発効してしまうと竹島が名実ともに日本領となってしまうことを恐れたためだともいわれる[13]

サンフランシスコ平和条約発効後[編集]

前年調印されたSF条約は1952年4月28日から発効し、この時点をもって連合国による日本占領が解除され日本の主権は回復された。

竹島周辺はGHQによる占領当時から当時米軍の爆撃演習・訓練水域であった。SF条約施行後の1952年7月米国より引き続き竹島周辺を爆撃演習地として使いたい旨の打診を受けた日本政府はそれを了承した[16]

アメリカの立場 [編集]

ヤング書簡[編集]

ケネス・ヤングによるラスク書簡の再通知

上記日本政府との合意に従って米軍は竹島周辺で訓練を行っていたが、韓国は釜山米国公使ライトナー「韓国領土に対する爆撃をやめる」ように抗議を行った。 ライトナー経由で韓国に抗議を受けた当時の米国国務省北東アジア部長ケネス・ヤングは1952年11月14日付で、竹島を爆撃演習区域から除外するよう回答するとともに、ラスク書簡の再通知をおこなう(「1952年11月14日付ヤング発ライトナー宛の書簡」)。このヤング書簡の中で米国国務省は明確に、

竹島に対する韓国の主張は米国は受け入れられない。従って、SF条約第2条(a)には竹島に言及していない。

と述べている。

口上書(No.187文書)

ヤング書簡の内容は韓国政府外務部に対しても同年12月4日に口上書(No.187文書)として正式に申し入れを行っている。しかし、韓国政府はこれを無視した。

第一大邦丸事件とバーマスター覚書「竹島問題のあり得るべき解決策」[編集]

韓国による日本漁船拿捕の様子 (1953年10月)

竹島周辺はアワビワカメの豊饒な漁場であり、地元漁民の嘆願により日本政府は1953年3月から同地域を爆撃訓練区域から排除した[16]。これを受けて同区域で漁を営んでいた日本の漁船第一大邦丸が、1953年2月4日に韓国軍によって銃撃され、死傷者が出る事態に陥った(第一大邦丸事件)。この時期、公海上で多くの日本漁船が武力により拿捕された。

第一大邦丸事件以降、竹島問題は日韓の紛争の種になっており、その解決に向けて1953年7月22日米国国務省のレノア・バーマスターは「日本と大韓民国の間のリアンクール岩礁紛争を解決する可能性のある方法」と題するメモランダムを北東アジア部副部長ロバート・マクラーキンに向けて発した。その中でバーマスターはラスク書簡およびNo.187文書を根拠に米国は竹島の領有権は日本にある、と述べている。同時に米国は日本からの要求がない限り、できるだけ中立の立場をとるべきとも述べている。

日韓間の対立は、1954年6月の韓国駐兵による実効支配が確立するまで続いた[12]

ヴァン・フリート特命報告書と日本政府の対応[編集]

朝鮮戦争が休戦したあと、ドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領の特命を受けてジェームズ・ヴァン・フリート特命大使が極東アジアを歴訪し米国がとるべき行動を進言した。この報告書の中で、竹島は日本の主権下に残すことを米国は決定しており、もし不服があるなら国際司法裁判所(ICJ)に付託するべき、と韓国側に進言したことを報告している。

日本政府は一貫して「平和主義路線」を採用し、1954年9月25日、韓国政府に対し、竹島問題を国際司法裁判所に提訴することを提案したが、韓国側はこれを拒否した。

マッカーサー2世からの電報[編集]

マッカーサー大使が本国に送った機密電文(3/4ページ)

軍事占領主義的色彩の強かった李承晩体制が続く間、竹島問題は解決の糸口がつかめなかったが、1960年に李承晩が失脚した。当時駐日アメリカ合衆国大使であったダグラス・マッカーサー2世は、李承晩失脚時を韓国が正常な民主主義国家に戻る絶好のチャンスととらえ、本国に「アメリカ政府は新しい韓国政府に圧力を加え、正常な状態に戻すべき」と強く進言する電文を発した[17]

この中でマッカーサー大使は李承晩政権が武力を行使して日本の漁船、漁民を拿捕し人質としていることを強く非難し「野蛮な人質外交」と表現している。また、日本人は8年間の李承晩政権の擁護できない占領主義手法で苦しんできたとも指摘している。その上で、日本と韓国が正常な関係に戻るためには

  1. 李承晩の残酷で野蛮な弾圧行為を受け苦しんだ全ての日本人全員の人質(まだ刑が確定していない人質も含む) を解放する事
  2. 日本の漁船を公海上で拿捕する習慣をやめさせる事
  3. 常に日本の領土とみなされている竹島を力づくで占拠しているが、この島を日本に返させなくてはならない。

が必要だと進言している。特に竹島については悩みの種で、この島が日本に返還されるまで日本と韓国の間に恒久的な平和が築かれることはないだろう、と指摘している。

日韓交渉[編集]

1953年から1962年まで、日本と韓国政府の間には前後4回にわたって竹島領有に関する文書のやり取りがあった[18]

見解往復 日本側文書名 日付 韓国側文書名 日付
第1回見解往復 「竹島に関する日本政府の見解」 1953年7月13日 「独島(竹島)に関する1953年7月13日付日本政府見解に対する韓国政府の論駁」 1953年9月9日
第2回見解往復 「竹島に関する1953年9月9日付韓国政府の見解に対する日本政府の論駁」 1954年2月10日 「1954年2月10日付け日本外務省口上書第15号亜2にみられる独島(竹島)領有権に関する日本政府の見解を反駁する韓国政府の見解」 1954年9月25日
第2回見解往復(つづき) 外務省口上書 1954年9月25日 韓国代表部口上書 1954年10月28日
第3回見解往復 「竹島に関する1954年9月25日付大韓民国政府の見解に対する日本国政府の見解」 1956年9月20日 「1956年9月20日付独島に関する日本政府の見解を反駁する大韓民国政府の見解」 1959年1月7日
第4回見解往復 「竹島に関する1954年1月7日付韓国政府の見解に対する日本国政府の見解」 1962年7月13日 「大韓民国駐日代表部1965年12月17日付口上書」 1965年12月17日

第1回見解往復 [編集]

日本政府は1953年7月13日の文書で、竹島が日本の領土であることは国際法からみて何ら疑問の余地がないと述べている[19]。そして、近代国際法において国家が領土権を確立するためには、その地を領土となす国家の意思と有効的経営が必要とされるが、日本政府は韓国併合に先立つ1905年の島根県告示により竹島を島根県隠岐島司の所管に編入し、日本国民である中井養三郎が日本政府の正式許可を得て竹島に魚舎を構え、そこに人夫を移して漁業経営に着手し、大戦発生直前まで有効的な経済活動がなされてきたのであって、この間、諸外国から竹島の日本帰属を問題とされたことは一切ないとの見解を伝えた[19]

それに対し韓国政府は1953年9月9日の文書において、日本は「先占」学説に基づき隠岐島司に管轄下に置いたというが、「先占」の要件は対象が無主の地であることであり、独島は無主の地ではなかったと反駁している[19]。さらに、当時の日本は「韓日仮条約」(日韓議定書、1904年2月23日)と「韓日協定」(第一次日韓協約、1904年8月22日)を大韓帝国に押し付けていた[19]。これにより日本は「韓国政府が日本人外交顧問を使用すること」を強制し、また、「戦略的見地から必要とあれば韓国領土のどの部分をも占領」することが可能だったのであり、1905年の島根県庁告示も当時の混乱に乗じてこっそりと行われたものであるとしている[19]。当時の日本政府が正規の外交的手続きを通じて韓国政府に通告したとは認められず、また、一地方政府の告示は韓国の独島主権に影響を及ぼすものではないと主張し、さらに、独島が鬱陵島附属の島にほかならないこと、それを韓国占領中の日本も認めており、このことは海軍省1933年に編纂した『朝鮮沿岸水路誌』第3巻の記載によっても証明されると付け加えた[19]

第2回見解往復 [編集]

日本側は、『朝鮮沿岸水路誌』が竹島を鬱陵島の附属島とみなしているという韓国政府の主張に対し、水路誌は一般に、使用者の便宜のために編纂されるものであって島の帰属とは関係ない、竹島が鬱陵島近海を航行する際に関係してくる島なので『朝鮮沿岸水路誌』第3巻に併記したにすぎず、竹島は同時に隠岐諸島を航行する際にも当然関係してくる島であるから『本州沿岸水路誌』第2巻においては「隠岐列島及び竹島」として掲載している事実を指摘した[19]。また、日韓議定書と第1次日韓協約については、外交顧問は日本人ではなくアメリカ人ダーハム・W・スティーブンスであったし、韓国領土のどの部分も占領可能ということについても、日露戦争に際して韓国領保全の目的を達成するために必要に応じて軍略上必要な地点を一時的に使用することを取り決めたものにすぎず、竹島の領土編入とは無関係であると説明した[19]。国際法上、領土取得の要件は、国家としての領有の意思とその公示、適当な支配権力の確立であるが、開国以前の日本には国際法の適用はなく、当時にあっては、日本政府が日本の領土と考え、日本領として取り扱い、それに対して他の国が異議を唱えなければ領有には十分であったと考えられるとし、地方庁による告示もまた当時の日本が先占の際に慣行した告示方法であって、国際法上の告示の要件を満たしていること、また、それは決して秘密裡におこなわれたものではなく、閣議決定に基づいて島根県知事から発せられたものであることを挙げて反論した[19]。また、告示内容の外国への通告は大多数の学者は領土取得の絶対要件とはみなしておらず、1928年パルマス島事件1931年クリッパートン島事件の仲裁裁判においても、「外国への通告は必要ない」との判決が出ている事実を紹介した[19]。さらに、朝鮮では、李氏朝鮮の建国当初より長年にわたって鬱陵島に対して「空島政策」が採用されていたのであり、鬱陵島よりもさらに沖合の孤島である竹島にまで実質的な領土経営がのびていたとは考えにくいと付け加えた[19]

また、適当な支配権力の確立については、1905年の島根県知事の視察、1906年3月の県部長らの調査、1905年5月の官有地としての土地台帳への記載、1905年4月の県令によるアシカ漁の許可制、同年6月5日の中井ら4名に対する免許、免許者からの土地使用料国庫納入、1940年の海軍財産への引継ぎといった一連の事実は、いずれも日本が竹島に対し継続的に支配権を行使していたことを意味しており、日本の竹島領有の要件は国際法においても完全に具備されていると主張した[19]

それに対し、韓国政府は、『朝鮮沿岸水路誌』には竹島の地勢や物産が詳細に記録しているのに対し、『本州沿岸水路誌』には「竹島」と名のみ記していることを指摘し、また、米国人スティーブンスは韓国の外交権を剥奪するために日本の手先である彼を外交顧問として雇い入れるよう強制したのであると反駁した[19]。日本帝国主義者の侵略は韓国全土を対象としており、その占領のためにおこなわれたのであり、単に一時占領のためではなく恒久的足場の上で実施したのであると主張し、日本政府は閣議決定が「先占」の条件のひとつを占める「領土取得の国家意思」であるというが、独島は韓国領土の一部なのであって先占の対象にはなりえないこと、また、島根県庁の告示は非常に隠密裏に行われたので外国はもとより日本の一般国民でさえこれを知りえなかったので一国の意思の公示とはみなしえないことを強調した[19]。また、測量やアシカ漁は日本の侵略行為の一つであって、国際法上の「領土支配権の継続的行使」にはあたらないとした[19]

日韓国交正常化と国際司法裁判所への提訴[編集]

竹島領有権問題に関して、これまで日本政府は4度、国際司法裁判所 (ICJ) への付託を韓国側に提案してきたが、いずれも韓国は拒否し続けている。日本側は終始対話路線を継続しており、また、決して竹島返還問題を日韓関係の中心課題にはしてこなかったと評価できる[20]

日本政府は1954年9月25日の「外務省口上書」において、韓国に対し、国際司法裁判所への付託を提案した[20]。2国間の話し合いで解決できないのであれば、公正な第三者の判断にゆだねようとしたわけであるが、韓国はこれを拒否した[20]。日本による付託提案について、韓国側は1954年10月28日の公文で、以下のように述べている。

紛争を国際司法裁判所に付託するという日本政府の提案は、司法的な仮装で虚偽の主張をするまた一つの企てに過ぎない。韓国は、独島に対して始めから領土権を持っており、この権利に対する確認を国際司法裁判所に求めなければならない理由は認められない。いかなる紛争もありえないのに擬似領土紛争を作り上げるのは、まさに日本である。

しかし、紛争の存否は、第三者による客観的な判定または当事者間の合意によって決定されるのであり、紛争当事国の一方が「存在しない」と言えば紛争がなくなるわけではない。ICJ 判決でも 「国際領土紛争の存否は客観的に判断されるべき 」 ことが確認されている[注釈 4]

また、1962年3月に行われた日韓外相会談の際にも、第2次池田内閣小坂善太郎 外務大臣が ICJ 付託を提案したが、韓国はこの提案も拒否した[23]。さらに、1962年11月に訪日した金鍾泌中央情報部長に対して、大平正芳外相が竹島問題を ICJ に委ねることを提案したが、これも韓国側から拒否された[24]。なお、この時点では韓国は国際連合に加盟していなかったが、非加盟国でも国際司法裁判所に付託することは可能であった[注釈 5]

日本側の対話路線は1965年の日韓国交正常化交渉においても引き継がれた[20]。結局日本側は、紛争解決に関する交換公文を結び、ここで規定される「外交交渉による決着がつかない場合、調停によって解決する」対象として竹島問題が存在するとの解釈を一方的に下すことによって、表面上は領土問題を日韓基本条約の障害にならないよう配慮したのである[20]

盧武鉉

その後も、竹島の韓国の実効支配は続いているが、2003年に大統領となった盧武鉉は竹島問題を最大限「対日カード」として利用する方針に立ったことから、竹島問題そのものが大きく動き始めることとなった[13]2004年1月、韓国政府は竹島をモチーフにした記念切手を発行し、これを機に本格的に韓国政府による竹島問題の政治利用が始まり、竹島への観光客の入島を許可するなど韓国の実効支配を強調するパフォーマンスが目立つようになった(2005年には一般観光客の入島を解禁)[13][注釈 6]

2006年海底地形の名称を登録する国際機関「海底地形名称小委員会」への竹島付近の海底部分の登録をめぐり、日本の海上保安庁は実力による海底調査の実施を企画した[25]。これは韓国国内で大騒ぎとなり、韓国の海上保安庁との間で一触即発の危機を招いたが、外交当局者の協議によって危機は回避された[25][26]。この件については、このとき日本が戦う姿勢を見せたからこそ、韓国は話し合いを求めてきたという専門家の見解がある[27]。毅然とした態度の結果、日本は初めて竹島海域に調査員を入れることができたのであり、日本が卑屈な態度をとり続けていたら、決して実現できなかったのではないかという指摘である[27]

2012年8月21日、韓国の李明博大統領が竹島に上陸(ウィキニュース「韓国、竹島の実効支配強化へ」参照)したことから、この事態を重くみた日本政府は50年ぶりに韓国に対し 国際司法裁判所 (ICJ) に合意付託すること及び日韓紛争解決交換公文に基づく調停を行う提案を持ちかけた[28]。しかし、同月30日、韓国政府はこれに応じない旨を口上書で日本政府に回答した。半世紀ぶりのICJ提訴も拒否されてしまったことから、日本政府は、今度は「単独提訴も辞さず」の構えを一旦はとった[28]。国際司法裁判所への付託は、義務的管轄権がない紛争の当事国が拒否すれば裁判を行うことができない。韓国はこの義務的管轄権を受諾しておらず、韓国政府が付託に同意しない限り竹島領有権紛争を ICJ で解決することはできない。しかし、裁判の手続きはできなくとも付託そのものは当事国の一方のみでも可能であることから、この問題を世界に提起するという意味合いから日本だけでも付託を行うべきだとの考えがある[28]。すなわち、日本のみで提訴しても韓国が応じなければ裁判にならないことは確かであっても、単独提訴となると韓国側は提訴に応じない理由を説明する義務が生じるわけである[28]

日本は単独提訴に切り替え、2012年10月、単独提訴の方向で調整に入っており、韓国政府もICJに対する弁明書を提出する方向で報じられたが、やがて沙汰やみとなってしまった[28]。「単独提訴も辞さない」と言った以上はそうすべきだったという意見は専門家のなかにも存在する[28]。これまで領土問題を ICJ で解決した事例は世界で16件にのぼっており、日本政府は、韓国に対し竹島の一方的な占拠を即刻やめて、ICJを間に入れた平和的な解決を行うよう韓国に対し、要望している[注釈 7]。また、サンフランシスコ平和条約に署名した国々から一国ずつ合意を取り付け、解決につなげるという方法もある[28]

脚注[編集]

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注釈[編集]

  1. ^ 閣議決定は、すでに1903年より隠岐島西郷町出身の中井養三郎が竹島に移住して漁業に従事し、その中井が1904年9月29日に内務大臣宛に申請書を提出したことを受けてのものであった[2]。中井は、島を調査し、その特徴を説明し、また、自身の調査によれば誰にも所有されたことがなく、それゆえ今後はおおいに活用していきたい旨を申請書に記している[2]
  2. ^ 1951年9月8日の韓国政府国務会議では、李承晩ラインによって漁業保護水域を設定する理由を、韓国は「すでにマッカーサーラインの恵沢を受けているが、マッカーサーラインは我国および連合国と日本との間のラインであり、本漁業水域宣布に画定されたラインは、我国と日本およびその他の外国との間に策定されたライン」だとしており、また、「本漁業保護区線を宣布するといっても、我国がマッカーサーラインによる利権を放棄するものではない」としている[5]
  3. ^ 「ボッグスメモ」原文には、"tried all resources in Washington" と記されている[10]
  4. ^ 具体的には、常設国際司法裁判所判決「マヴロマチス事件」(ギリシャイギリス1924年[21]、「上部シレジアのドイツ人の利益に関する事件」(ドイツポーランド1925年[21]、ICJ「連合国とブルガリア、ハンガリーおよびルーマニアとの平和諸条約の解釈に関する勧告的意見」(1950年)[22]、「カメルーンとナイジェリアとの間の陸地および海の境界に関する事件」の先決的抗弁に関する判決(1998年6月11日, 先決的抗弁5)」など。
  5. ^ 韓国の国連加盟は1991年のことである。
  6. ^ 2010年現在、日本人の観光客も70人程度入島しているが、入島のためには「独島は韓国の領土」と書かれた紙に署名しなくてはならないこととなっている[13]
  7. ^ 国際司法裁判所で解決した領土紛争」を参照。

出典[編集]

参照リンク[編集]

参考文献[編集]

  • 高野雄一(編著)『判例研究 国際司法裁判所』東京大学出版会、1965年1月。ASIN B000JAD3SC
  • 東郷和彦『「領土問題」の論じかた』岩波書店岩波ブックレット〉、2013年1月。ISBN 978-4-00-270861-4。
  • 玄大松『領土ナショナリズムの誕生―「独島/竹島問題」の政治学』ミネルヴァ書房〈国際政治・日本外交叢書〉、2006年12月。ISBN 978-4623046751。
  • 内藤正中・金柄烈『史的検証 竹島・独島』岩波書店、2007年4月。ISBN 978-4-00-023774-1。
    • 内藤正中「第1部 竹島の歴史」『史的検証 竹島・独島』岩波書店、2007年。ISBN 978-4-00-023774-1。
    • 金柄烈「第2部 独島の歴史」『史的検証 竹島・独島』岩波書店、2007年。ISBN 978-4-00-023774-1。
  • 保阪正康『歴史でたどる領土問題の真実』朝日新聞出版朝日新書〉、2011年8月。ISBN 978-4-02-273409-9。
  • 保阪正康・東郷和彦『日本の領土問題 北方四島、竹島、尖閣諸島』角川書店角川oneテーマ21〉、2012年2月。ISBN 978-4041101629。
  • 山田吉彦『日本国境戦争:21世紀・日本の海をめぐる攻防』SBクリエイティブソフトバンク新書〉、2011年7月。ISBN 978-4-7973-6368-5。
  • 山田吉彦『解決! すぐわかる日本の国境問題』海竜社、2013年12月。ISBN 978-4-7593-1336-9。
  • 横田喜三郎『国際判例研究 第1.』有斐閣、1933年。
  • 塚本孝 「平和条約と竹島-再論-」 『レファレンス (No.518)』 44巻3号 国立国会図書館調査及び立法考査局、31-56頁、1994年3月。 NAID 40003845239 
  • 山崎佳子「韓国政府による竹島領有根拠の創作」『第2期「竹島問題に関する調査研究」最終報告書(平成24年3月)』、島根県竹島問題研究会、2012年3月、 61-78頁。
  • Yoshiko Yamasaki (3 2019). “The Invention of a Basis for the Possession of Takeshima by the Korean Government”. Japan Review (日本国際問題研究所) 2 (3): 48-73. NAID 120006723747. 
  • 山崎佳子「韓国政府による竹島領有根拠の創作」(PDF版)

関連項目[編集]