竹槍

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インドネシア独立戦争で使用された竹槍(インドネシア、ジョグジャカルタ市のヨグヤ・ケンバリ独立記念館所蔵)。

竹槍(たけやり)とはを加工して製造された状の簡易武器である。

概要[編集]

「スラバヤの戦い」を記念する「竹槍記念碑」(スラバヤ市)。

竹槍は、竹を柄にして先端に槍の穂先を結び付けた物と、竹を削って先をとがらせたものの2種類がある。

竹のみで作られた竹槍は、竹を適当な長さに切った上で、先端部を斜めに切断した、あるいはその円周の一部だけを尖らせたもので、更に火で炙るなどして硬化処理を施した簡易の武器であるが、竹が熱帯から亜熱帯温帯亜寒帯に掛け広い範囲に自生しているため、この竹自生地域ではほとんどタダ同然で入手できる武器である。ただしその威力は一度使用すれば貫通力が鈍る使い捨て程度で、こちらも「簡易」と呼ぶに相応しいものとなっている。

使用される竹は該当地域に自生するものに限られるため、その太さはまちまちである。しかし竹が垂直方向に繊維が揃っていて丈夫で、かつ中空であるため軽量、加えて使い捨てとはいえ白兵戦CQCにおいては十分な殺傷能力を持っていたことから、広い範囲で様々な形で利用されていたと考えられる。

なお武器の性質としては竿状武器(ポールウェポン)となるが、その多くでは入手しやすいこと(=量産しやすいこと)から集団で利用するためにも便利が良く、これによって対象を相手の武器や牙・爪の間合いの外から取り囲んで、突いたり叩いたりして対象を攻撃するのに向いていた。

太平洋戦争中の大日本帝国陸軍では制式兵器として竹槍を採用していた。また、ベトナム戦争における南ベトナム解放民族戦線など、近代のゲリラ戦でも活用された。インドネシア独立戦争でも使用され、そのため独立を達成するまでの勇気と犠牲を象徴するものとされ、戦争記念碑などのモチーフとされている[1]

歴史[編集]

その起源は古く、竹林が自生する地域では鉄器文明以前から使用されていたとも言われているが、記録がない有史以前でもあり、材質的にも遺物として残りにくいため、詳細は不明である。

日本[編集]

日本では戦国時代にはすでに使用されていた記録があるが、当時は純粋な竹製のものだけでなく、(鋼鉄製の穂先が備えていたとしても) 柄が竹製であればいずれも竹槍と呼称していた[2]ので注意が必要である。明智光秀落ち武者狩りをしていた土地の農民らの竹槍に掛かり果てたとされる[3]一方で、錆びた鑓との異説もあるのもこのためである。

江戸時代の百姓一揆による強訴は、支配層の武力転覆を狙ったものではなく、騒擾を起こすことによって責任問題を恐れる代官に要求をのませようとする性格の行動であったため、農民としての身分を表す農具が使用された。狩猟用具であった鉄砲や竹槍を持ち出すことはあったものの、攻撃のために使用することはほとんどなかった[4]。青木虹二が江戸時代に発生した一揆3710件を調査した中で、竹槍で役人を殺害した事例は一例しか存在しない[5]

近代以後も、民衆の暴動に際しては竹槍が活躍した。明治初年、農民は新政府の政策に反対する新政反対一揆の中で竹槍を頻繁に使用するようになった[5]地租改正反対一揆を諷した「竹槍でドンと突き出す二分五厘」と言う川柳は著名である。明治6年(1872年)の筑前竹槍一揆で使用された竹槍は現在も福岡市博物館に現存している[5]。これらの一揆は明治十年代には沈静化し、自由民権運動が活発化すると百姓一揆は古い型の運動であると否定的に見られるようになり、竹槍はその象徴として「竹槍筵旗」という言葉で表現されるようになった[6]。 明治31年(1898年)2月5日には衆議院議員選挙において、選挙人が刀剣や銃器・棍棒・竹槍を携帯することを禁じた決議が枢密院で行われている[7]。その後も1918年米騒動や小作争議、労働争議、外地における反日蜂起などで竹槍が用いられた。例えば1931年から1932年にかけて起こった阿久津村の小作争議においては、猟銃や竹槍などで武装した労農大衆党員が、地主と結託して農民を弾圧した愛国主義政党・大日本生産党の演説会事務所を襲撃する事件が1932年春にあり、死者4名・重傷者10名を出し[8]、最終的に死者は5名となり、109人が殺人罪で起訴・35人が実刑判決を受けている。このような農民の「竹槍蓆旗」は、大正・昭和時代においては古いタイプの農民運動としてマスコミでたびたび批判されながらも為政者から恐れられ、例えば東京市は大東京市民の飲用水のために大宮・浦和町(いずれも現さいたま市)にある見沼を貯水池として中禅寺湖の3倍の規模にまで拡大する計画を1934年に発表したが、「竹槍蓆旗」への恐れから[9]、1939年に撤回した。

十五年戦争中の大日本帝国陸軍においては、竹槍が兵器として使用された。まず、日中戦争の勃発当初においては、輜重・兵站などの後方部隊における補助兵器として竹槍が配分された。その後、太平洋戦争中の1942年には大日本帝国陸軍の「制式兵器」(軍から兵士に配備される正規の兵器)として正式に竹槍が採用され、前線の兵士に竹槍が配備された。銃後の国民においても、1943年には陸軍が策定した「竹槍術」のマニュアルが配布され、学生や主婦など民間人の間で竹槍の製造と訓練が行われた。さらに1945年には竹槍は本土決戦に備えた「決戦兵器」と位置付けられ、国民義勇隊の主要装備のひとつとされた。また、軍では「制式兵器」としてだけではなく「自活兵器」(窮乏した兵士がありあわせの物から自作した兵器)としても採用され、使用する兵器に欠く陸海軍部隊が自作して小銃の代わりに装備した例が多見される。明治以前に一揆などで使用されていた物は長さが通常の槍と同じく3メートルから4メートルと長かったが、大日本帝国陸軍の制式兵器として規格化された竹槍は子供用が150センチほど、大人用が170~200センチほどだった。直径は3~5センチである。実態としてはというよりも銃剣の代用品であり、行われた訓練(竹槍術)は銃剣術と同じだった。

戦後では、昭和時代中期に新左翼過激派が鉄パイプや火炎瓶などとともに使用した例があり、例えば1971年の東峰十字路事件などで竹槍が使用された。

中国・台湾[編集]

中国・台湾でも昔から使用されていたようだ。明の時代には、日本刀で武装した倭寇に穂先を斬り落とされないように、枝葉の付いた青竹を竹槍の柄にする「狼筅」と言う武器が考案されている。

近代にいたっても、日本統治下となって日本軍による竹槍教練が始まる以前より使用されていたようだ。台湾において使用された例として、1930年に台湾原住民であるセデック族の民衆が日本人に対して蜂起した霧社事件において使用されたとの記録がある[10]

インドネシア[編集]

インドネシアでは、竹槍は「Bambu Runcing」と呼ばれる。日本軍が1942年に蘭印(現在のインドネシア)を占領した後、日本軍によって竹槍術の教練が行われていたが、竹槍がインドネシア人によって現実の兵器として使用されるのは、インドネシア独立戦争においてである。連合国軍の一員としてインドネシアに進駐したイギリス軍と、インドネシア独立を支持するインドネシア民兵との間でスラバヤ市において1945年11月10日より行われた「スラバヤの戦い」は、竹槍などで武装したインドネシア民兵側に多大な犠牲を出しながらもインドネシア独立戦争の端緒となった。そのためスラバヤ市には、連合軍に竹槍で立ち向かった英雄たちを記念する「竹槍記念碑(Monumen Bambu Runcing)」が建てられている。同じくインドネシア独立戦争の激戦地となったジョグジャカルタ市ヨグヤ・ケンバリ記念館(独立戦争の闘士を記念する記念館で、ジョグジャカルタの小学生は遠足で必ず行く)にも、独立戦争で使われた竹槍が展示されている。竹槍戦線(id:Barisan Bambu Runcing)の指導者であるK. H. Subchi(「竹槍将軍(Jenderal Bambu Runcing)」の異名を持つ)は、日本占領期より竹槍をインドネシアのナショナリズムの象徴としていた人物として知られ、Subchiの故郷であるテマングン県パラカンにはTAMAN BAMBU RUNCING(竹槍公園)が建設されている。インドネシアにおける竹槍は、鹵獲した武器の量が十分でないために竹槍で戦わざるを得なかった独立戦争の初期の苦難や、竹槍を持って蜂起した市井の民衆の勇気を象徴するものとされ、竹槍を記念したモニュメントが各地にある。

ベトナム[編集]

ベトナム戦争でも南ベトナム解放民族戦線ゲリラ戦用の無音武器やブービートラップ(仕掛け罠)として竹槍を使用していたと言われており、現代でも未開地の紛争では使用される事例がある。ベトナム戦争当時に使われたものとしては、これらは敵の予想進路に落とし穴を掘ってその底に突き立てて排泄物を切っ先に塗りたくる(排泄物に含まれる細菌による感染症が狙い)というものや、ワイヤーに引っ掛かると飛び出して串刺しにするといったもので、それらに掛かった兵士は見るも無残な姿となったため、アメリカ軍兵士にとって士気を下げるほどのストレスを与えたともされる。ポル・ポト派も、これらの罠を地雷に次いで多用したが、竹槍ではなく木を尖らせたものを使用した。

アメリカ[編集]

アメリカ陸軍のサバイバルマニュアル (FM3-05.70, May 2002) の12-18項は即席の槍を作る方法を説明しており、合わせて竹槍の作り方も図解されている。

作り方[編集]

竹を削って先をとがらせたタイプの竹槍と、竹を槍の柄として使って穂先としてナイフなどの刃物を結び付けるタイプの竹槍がある。大日本帝国陸軍の制式兵器としての竹槍については後述。

戦国時代の竹槍[編集]

戦国時代から近代にかけて、農民の一揆や博徒の出入りなどで使われたと考えられている竹槍[11]

  • 長さは4.0m前後。重さは1.8-2.5kg。
  • 先端に槍の穂先を結び付けないタイプの竹槍の場合、竹の先を単純に斜めに削いだものと、槍の穂先状に削ったものがある。
  • 肉が厚く、まっすぐな青竹を用いる。
  • 竹の根本側を穂先にし、穂先側が直径5cm、手元側が3cm程度が良い。
  • 削いだ穂先を強固にするために油を塗って火で焙り、これを繰り返すと切り口に油が浸みて強固な穂先を作ることができる。

米陸軍の竹槍[編集]

米陸軍兵士が、手持ちの道具がほとんど何もなくなっても、どんな場所からでも生還できるように、米陸軍のサバイバルマニュアルが作り方を指導している、即席の竹槍[12]。穂先に刃を括り付けるタイプの即席の槍は木で作ることもできるが、刃を括り付けないタイプの即席の槍を作るには竹が最適とのこと。ちなみに、竹の穂先にナイフの刃を括り付けるタイプの竹槍を作る場合は、刃を単に括り付けるよりも、竹の先を半分に割って、そこに刃を差し込んで括り付けた方が良いとのこと。

  • 青竹のまっすぐな部分を1.2mから1.5mくらいの長さに切り出す。
  • 先端を切って刃を作る。先端から8cm-10cmくらいのところから、先端に向けて、斜め45度の角度で切り込みを入れる。
  • 先端を削って鋭利にする。この際、竹は内側よりも外側の方が強度が強いので、必ず竹の筒の外側ではなく内側を削るように。
  • 先端を火で焙って固くしても可。

大日本帝国陸軍における竹槍[編集]

第52軍による訓練の様子(1945年)。義勇兵役法によって招集された銃後の国民で構成される国民義勇隊のメイン武器は竹槍だった
米軍の第5艦隊および艦載機、上陸した第77歩兵師団などに住人が竹槍で立ち向かった伊江島(1945年)。5千人が死亡

第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍においては、竹槍が「制式兵器」、すなわち正規の兵器として採用され、実戦で使用された。

まず、1931年(昭和6年)に勃発した満州事変の頃より、教育総監部本部長や陸軍大臣などを歴任した大日本帝国陸軍トップの荒木貞夫が、竹槍を「乏しい軍備の象徴」として盛んに語るようになった。「日本国民全員が日本精神を持ちさえすれば、あとは軍備が乏しくても十分国防が行える」とする論で、その趣旨については、荒木貞夫陸軍大臣の『非常時の認識と青年の覚悟』(荒木貞夫著、1934年)に詳しい。荒木曰く、「軍事費が非常に余計に掛かっていかぬと言うならば、もう要塞を全部平らにして、兵器を全部しまい込んで、この九千万国民が一致して、人と人との和、皇室と日本道とを戴いてやったらばよい。そうすれば国防の為に竹槍三百万本を揃えておきさえすれば、それでもう沢山だ」[13]とのこと。荒木陸相は1933年(昭和8年)に来日したバーナード・ショー(当時世界的影響力のあった文化人で、1925年にノーベル文学賞を受賞)にも面会し、各国の軍拡競争をストップするために各国で竹槍戦術を採用するべきだと訴えたことを東京朝日新聞(1933年3月8日付)などが報じている。

竹槍はやがて、「日本精神の象徴」としても用いられるようになった。荒木貞夫陸軍大将は1936年(昭和11年)の講演において、「三百万人の国民が竹槍を持ってよく防ぎよく守る決心あらば、大将自ら指揮して契って国家を守護する」と語っており、その解説によると「三百万人とは国防の第一線に立つ陸海軍人であり、竹槍とは誠心である」[14]とのこと。このように、少なくとも十五年戦争の初期の時点においては、竹槍はあくまで喩えであり、本当に竹槍を兵器として使うという意味ではなかったと帝国軍人には解釈されていた。しかし荒木のいわゆる「竹槍三百万論」は、当時のマスコミに幾度も報道されており、神戸又新日報(1932年5月9日付)が「爆弾三勇士」になぞらえて「竹槍三勇士」と評するほどのその扇情的な精神論が、当時の青年団員や在郷軍人の愛国心に訴えかけて「何ほどかの効果を持ったことと思われる」と当時の神戸又新日報も報じており[15]、また荒木は皇道派のシンボルとしても、当時の青年将校らに絶大な思想的影響力があったことは事実である。

1937年(昭和12年)に勃発した日中戦争の頃より、本当に竹槍が実戦で用いられるようになった。ただし、当初はあくまで銃剣の代用品としての位置づけで、輜重・兵站などの後方部隊において補助兵器として竹槍が配分された事例が見られる[16]。銃剣の代用品としての竹槍に関しては、『銃剣術指導必携』(陸軍戸山学校編、1942年)に詳しい。

1942年(昭和17年)より、竹槍は「制式兵器」と位置付けられて規格化され、陸軍兵士に配備された。また竹槍の扱い方も、陸軍の教育を掌る教育総監部によって武術の一つである「竹槍術」として完成され、1942年より全国民に竹槍訓練が行われるに至った。武術としての「竹槍術」の神髄、及び訓練方法に関しては、『竹槍術訓練ノ参考』(教育総監部、1943年)に詳しい。本書では、竹槍の代用品として木槍を使う方法も紹介されている。

さらに1945年には国民義勇隊が組織され、竹槍は本土決戦のための主要武器の一つと位置付けられた。白兵戦において竹槍を用いてアメリカ人を殺すためのテクニックについては、『国民抗戦必携』(大本営陸軍部、1945年)に詳しい。具体的には、「背ノ高イヤンキー共ノ腹ヲ突ケ、斬ルナ、ハラフナ」とのこと(刀槍の一般的な用い方を解説したものだが、例示されているイラストは明らかに竹槍である。銃を持った敵兵に正面から向かって行き、竹槍を突き刺すと、敵兵のちょうどおへそのあたりに突き刺さり、敵は撃滅する、というのが、1945年当時の大日本帝国の大本営陸軍部が想定した運用方法である)。

竹槍は「制式兵器」(軍から正規に支給される武器)としてだけでなく、「自活兵器」(現地でありあわせの物を使って自作する武器)としても活用された。日本軍においては武器弾薬が尽きた後も、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)の教えから降伏せず、敵に対して最後の突撃(バンザイ突撃)を行う慣習があり、その際に持参する武器として、現地に生えている竹を用いて竹槍が制作された。敵側の記録や日本兵の陣中日誌などに多数の例が記載されている[17]

竹槍術は実戦向けにマニュアルも整備されており、心身の陶冶にも、本土決戦における白兵戦闘兵器としても有効だと1944年当時の陸軍は考えていたが、一方で当時の海軍は「戦争は太平洋で決まる、敵が日本沿岸に侵攻して来た時点ではもう手遅れ」「敵は飛行機(海洋航空機)で攻めてくるが、竹槍では飛行機と戦い得ない」と考えており、海軍の意向をくむ形で毎日新聞新名丈夫記者が『毎日新聞』(1944年2月23日付)に「竹槍では間に合はぬ 飛行機だ、海洋航空機だ」との記事を載せたところ、東條英機陸相首相が激怒。毎日新聞は発禁となり、新名は招集された(竹槍事件)。

1945年の沖縄戦においては、兵士だけでなく本来は非戦闘員であるはずの住人の女性まで竹槍や爆弾を持って米軍に突撃を行い死亡した。沖縄戦における特に悲惨な例の一つとして知られる伊江島の例を挙げると[18]、1945年3月25日から4月16日早朝にかけて第5艦隊による艦砲射撃および艦載の海洋航空機によるナパーム弾の投下が行われ、やはり竹槍では戦い得ずに島の飛行場およびほとんどの建造物は破壊された。4月16日についにアメリカ軍第77歩兵師団が上陸し、伊江島守備隊との戦闘が行われたが、白兵戦においても竹槍はあまり有効であったとは言えない。米兵の腹を突くために竹槍を持って最後の突撃を行っても、ほとんどが米兵に近づく前に射殺されるという欠点があった。また、夜に竹槍などをもって少数で米兵に突撃する「斬り込み」と呼ばれる奇襲も行われたが、日本軍の奇襲は米軍も察知しており、照明弾で照らされて一斉射撃に晒されるため、生きて帰るのも難しかった。わずか5日後の4月21日に伊江島全島が占領され、守備隊と住人を含めて約5000人が死亡した。伊江島守備隊においては、各兵士に配備された竹槍と手榴弾以外にも、大隊に機関銃、中隊に小銃が数丁配備されており、あるいは爆薬を直接持って自爆攻撃を行うなど竹槍以外にも攻撃手段が無いわけではなかったが、第502特設警備工兵隊(約800名、うち半数を義勇召集による地元住民が占める)においては主な任務が飛行場の整備であり、まともな武器が配備されておらず、メインの対抗手段が本当に竹槍を持っての斬りこみしかなかった。「斬り込みで敵兵の元までたどり着き、竹槍を突こうとしたものの、敵に竹槍を掴まれて結局突けなかった」と言う、ある第502特設警備工兵隊隊員による逸話が『定本 沖縄戦』に記載されている。

硫黄島戦の後期、内地から送られて来た補給品を見たら雷管と竹槍だけであったという[19]。大戦末期には極度の物資の窮乏のため、竹の先に青竹で編んだ籠を付けて爆雷の発射装置とした「投射式噴進爆雷」(竹製のパンツァーファウストのようなもの)、竹槍の先に火薬を詰めて爆雷とした「爆槍」、爆槍の末尾に推進火薬を詰めてロケット弾にした「対空噴進爆槍」(竹製のフリーガーファウストのようなもの)など、竹槍を実際に対空兵器や対戦車兵器としたものが考案されている。

『竹槍術訓練ノ参考』など、大日本帝国陸軍兵器としての竹槍に関する軍事資料は、終戦直後の証拠隠滅による破却を逃れたものが、一部は他の軍事機密とともに連合軍に接収され(竹槍は『兵器引渡目録』にも記載されており、本当に竹槍が兵器として連合軍に引き渡された)、現在はアメリカ議会図書館に蔵されている(「米議会図書館所蔵占領接収旧陸海軍資料」)ほか、日本国内にある資料の一部は国立国会図書館国立公文書館アジア歴史資料センターによってインターネット公開されている。

規格[編集]

以下は『竹槍術訓練ノ参考』に準拠した。

  • 長さ:子供用が1.5m、大人用が1.7m~2m
  • 直径:子供用が3.5cm、大人用が4cm
  • 刃の角度:20度(木槍を使う場合は丸く削っても可)
  • 刃の強化のために弱火であぶって植物油を塗っても可
  • 竹は、生乾きまたは生の物でも可

竹の節をまたぐように切っ先を設けると、強靭とのこと。竹槍の代用品としての木槍の規格は、刃の先を丸く削っても可とする以外は竹槍と同じ。

竹槍術[編集]

「竹槍術」は、大日本帝国陸軍が1940年代に完成させ、1943年より大日本帝国の国民に教育された武術。竹槍術の「真髄ヲ体得シ必勝ノ信念ヲ養成スル」のための教本である『竹槍術訓練ノ参考』も、教育総監部によって制作された(生徒用と先生用の2種類がある)。なお、国立公文書館アジア歴史資料センターがネット公開している「竹槍術訓練の参考」は、帝国在郷軍人会台北支部が複写・頒布したものが、戦後に防衛省防衛研究所に収蔵されたもので、「竹槍術」は台湾や朝鮮など当時は日本だった諸地域でも教育されていた。

『竹槍術訓練の参考』は冒頭に「白兵戦ハ使術簡単ニシテ精練ナルモノ克ク勝ヲ制ス」との言があり、竹槍は明確に白兵戦のための「兵器」と位置付けられているが、同時に「銃代用」としての面や「心身ノ訓練陶冶」など、竹槍術の教練を通じた教育的要素も重視されている。

竹槍術においては「刺突」がもっとも重要視され、「気・槍・体」が一致していないと正しい刺突が行えないとされる。また、「一突必殺」と言う、精神的要素も重視されている。

なお、古武道における「竹槍術」には、「槍術」に「薙刀術」の要素も取り入れられ、敵を刺突するだけでなく、敵を押さえたり薙ぎ払ったりと言った実戦的要素が高められたものもあるが、教育総監部式の「竹槍術」は、そのような武道の達人ではなく老人・女性・小学生などの銃後の国民に対して、在郷軍人などが本土決戦が迫る中で短時間で白兵戦の教練を行うための物であるため、「一突必殺」だけである。

インドネシアに進出した日本軍が現地の人々に竹槍術を教えるために制作された、日本映画社ジャカルタ製作所による教育映画『TAKEYARI JUTSU Pemakaian Tombak bamboe』(1943)が存在する。竹槍の先を火で焙って固くしたり、屈強な日本兵が「突撃にぃー、進めッ!」の合図とともに大きな声を出しながら撃突台(竹槍訓練の時などに使う稽古用の的。軍教品として市販されていた)を次々と竹槍で刺していく様子など、『竹槍術訓練の参考』に書いてある通りのことだが、竹槍術の実際が映像で記録されている[20]。ちなみに「Pemakaian Tombak bamboe」とはマレー語で「竹槍術」の意味。

爆竹槍(爆槍)[編集]

第二次世界大戦末期の日本では「対人用爆竹槍」(爆槍)という兵器が実在した。簡単に言うと竹槍の先に爆薬を詰めたものである。

陸軍技術研究所によって考案され、配備された自活兵器のひとつ。2メートルほど長さの竹筒の先端に爆薬と簡易信管を装着し、これで敵を突くと先端が爆発して敵を殺傷するという自爆兵器である。本来の刺突爆雷は棒の先に爆雷を付けた物であるが、物資の窮乏のため爆雷を用意できず、竹筒の先に直接爆薬と信管を詰めた。爆薬はダイナマイト、安全装置は厚紙などの有り合わせの物を使い、信管も釘や針金などで自作した撃針を雷管に付けただけの簡単な構造であった[1]。運用法は竹槍術に準ずる。

また実戦で使用されたかは不明であるが、爆槍を巨大な弓矢で飛ばす兵器や、爆槍の末尾に推進火薬を詰めてロケット弾にした「対空噴進爆槍」という対空兵器まで考案されていた[2]ナチス・ドイツ製の携帯用対空ロケット砲フリーガーファウストに近い運用法であったと見られる。

なお、このように物資が窮乏する中で正規の兵器に対抗するためにありあわせの物やガラクタで作った兵器全般を自活兵器といい、大戦末期の日本軍では陸軍技術研究所をはじめ、各部隊単位でもいくつも試行錯誤していた。陸軍技術研究所は竹で作った爆槍の他にも、簡易投擲器である弩弓、和紙とコンニャク糊で作った大陸間兵器である風船爆弾など数々の兵器を開発している。なお、前述の通り「竹槍」自体は「自活兵器」ではなく、陸軍で正式に採用された「制式兵器」である。

出典[編集]

  1. ^ Monjali Dilapisi 1.500 Bambu Runcing(krjogja.com 参照日:2018.5.17)
  2. ^ 笹間良彦『図説 日本武道事典』柏木書房。
  3. ^ 太田牛一『別本御代々軍記』(「太田牛一旧記」
  4. ^ 呉座勇一, 2015 & Kindle版、位置No.全3065中 270-293 / 9-10%.
  5. ^ a b c 呉座勇一, 2015 & Kindle版、位置No.全3065中 222 / 7%.
  6. ^ 呉座勇一, 2015 & Kindle版、位置No.全3065中 232-244 / 8%.
  7. ^ 枢密院決議・一、刀剣銃砲槍戟仕入刀剣仕込銃竹槍棍棒ノ類携帯禁止ニ関スル件決議案・明治三十一年二月五日決議』 アジア歴史資料センター Ref.A03033947900 
  8. ^ 愛国陣営を見る 大阪時事新報、1932年12月17日
  9. ^ 東京市の大貯水池計画に地元民、必死の反対」、東京日日新聞、1934年10月13日
  10. ^ 10月31日 台湾憲兵隊長より今回の事件を軍に於ては霧社事件と名付け此の用語を定せり』 アジア歴史資料センター Ref.C10050156200 
  11. ^ 『武器事典』p.136、市川定春、新紀元社、1996年
  12. ^ FM 3-05.70』12-7, Headquarters, Department of the Army, 2002
  13. ^ 『非常時の認識と青年の覚悟』p.38、荒木貞夫著、1934年、文明社
  14. ^ 『建国の肇に還れ』p.14、帝国傷痍軍人会佐賀県支部編、1936年
  15. ^ ファッシズムと大衆の支持、神戸又新日報、1932年5月9日、神戸大学附属図書館デジタルアーカイブ
  16. ^ 一例として、第二次上海事変で1937年に上海の東華紡績の工場に駐屯した輜重兵が竹槍を支給されたと記述する陣中日誌を挙げる。『陣中日誌 自昭和12年11月1日至昭和12年11月30日 輜重兵第114連隊第1中隊(2)』 アジア歴史資料センター Ref.C11111352600 
  17. ^ 一例として、第二次長沙作戦で1942年に現在の湖南省長沙市長沙県陰山に駐屯した衛生班がバンザイ突撃を覚悟するところまで劣勢となった「竹槍を造り覚悟する」と題する陣中日誌を挙げる。『第2次長沙作戦2 明第9029部隊(衛生隊)その2』 アジア歴史資料センター Ref.C11112099600 
  18. ^ [証言記録 市民たちの戦争]悲劇の島 語れなかった記憶 ~沖縄県・伊江島~ NHK 戦争証言アーカイブス
  19. ^ 『実録太平洋戦争 第5巻』p.14、1960年、中央公論社
  20. ^ Membuat Bambu Runcing untuk Perjuangan (1945) - youtubeの映像

参考文献[編集]

  • 呉座勇一『一揆の原理』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2015年(原著2012年)、Kindle版、位置No.全3065中 2135-2185 / 70-71%。ISBN 978-4480096975。

関連項目[編集]

その他
  • 暴走族 - 改造マフラーの一種で竹槍と呼ばれるものが存在するが、こちらは形状の似た金属管。
  • 門松