笑福亭松鶴 (6代目)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
6代目 笑福亭(しょうふくてい) 松鶴(しょかく)
6代目 笑福亭(しょうふくてい) 松鶴(しょかく)
「戎松日曜会」。後列右が六代目松鶴(当時は三代目光鶴あるいは四代目枝鶴)。左に三代目桂米之助五代目文枝(当時あやめ)旭堂南陵(当時二代目小南陵)。子供は和多田勝(当時小つる)
本名 竹内 日出男
たけうち ひでお
別名 六代目、おやっさん
生年月日 1918年8月17日
没年月日 (1986-09-05) 1986年9月5日(68歳没)
出生地 日本の旗 日本大阪府大阪市
死没地 日本の旗 日本・大阪府大阪市
師匠 5代目笑福亭松鶴
名跡 1. 竹内日出男(1944年 - 1947年)
2. 初代笑福亭松之助(1947年 - 1948年)
3. 4代目笑福亭光鶴(1948年 - 1953年)
4. 4代目笑福亭枝鶴(1953年 - 1962年)
5. 6代目笑福亭松鶴(1962年 - 1986年)
出囃子 舟行き
活動期間 1944年 - 1986年
活動内容 上方落語
家族 5代目笑福亭松鶴(父)
5代目笑福亭枝鶴(息子)
所属 千土地興行(? - 1960年)
松竹芸能(1960年 - 1986年)
主な作品
「月宮殿星の都」「高津の富」「らくだ
備考
上方落語協会2代目会長(1968年 - 1977年)

6代目 笑福亭 松鶴(しょうふくてい しょかく、1918年8月17日 - 1986年9月5日)は、落語家大阪府大阪市出身。生前は上方落語協会会長。本名は竹内 日出男(たけうち ひでお)。出囃子は「舟行き」。父は同じく落語家5代目笑福亭松鶴。母は落語家6代目林家正楽の養女。息子は同じく落語家5代目笑福亭枝鶴(後に廃業)。甥は笑福亭小つるを名乗って松鶴と共に若い頃修行していたこともある和多田勝

経歴[編集]

五枚笹は、笑福亭一門の定絞である。

大阪市西区京町堀に父5代目松鶴の次男として生まれる。

1933年高等小学校を卒業し、漫談家・花月亭九里丸の紹介で心斎橋のお茶屋に丁稚奉公に出る。しかし仕事はそこそこに落語や歌舞伎の鑑賞に入れ込み、新町、松島、飛田でも遊ぶ。遊興費は父の着物を質に出したり父松鶴のサークル「楽語荘」の資金にまで手を出すほどであった。周囲は松鶴の御曹司ということと世話になっていた噺家も多く叱責されなかった。元は役者志望だったが、少年時代に片足に重傷を負い引きずるようになったため、断念せざるを得なかった[注釈 1]

1938年、兵役検査を受けるが不合格。これを機にお茶屋を辞め、遊蕩の日々を過ごす。その傍ら、5代目松鶴が手がけた「楽語荘」や雑誌「上方はなし」編集などを手伝い、落語に関わるようになる。1944年 中之島の大阪市中央公会堂にて、出番に遅れた出演者の穴埋めとして芸名無しで初舞台。演目は「寄合酒」。以降定期的に主に本名で高座に上がる。

1947年 父松鶴に正式に入門。5月19日今里双葉館にて正式に初舞台。目の大きい容貌だったことから、父の片腕であった4代目桂米團治より、「目玉の松ちゃん」と親しまれた尾上松之助にあやかって初代笑福亭松之助と命名される。演目は「東の旅・発端」。1948年 1月1日戎橋松竹の新春興行より4代目笑福亭光鶴(こかく)と改名。

1953年7月31日、4代目笑福亭枝鶴を襲名。戎橋松竹にて襲名披露興行(3代目林家染丸の襲名披露と同時におこなわれた)。出囃子を「だんじり」とする。1954年 衣笠寿栄と3度目の結婚。布施市(現東大阪市彌刀に居を構える。

1957年4月上方落語協会が設立され、副会長に就く。1958年6月朝日放送の専属タレントとなる。

1960年千土地興行から松竹新演芸へ移籍。

1962年3月1日、6代目笑福亭松鶴を襲名。道頓堀角座にて襲名披露興行。出囃子を「船行き」とする。

1966年、大阪府民奨励賞を受賞。

1968年1月2日、大阪厚生年金会館にて初の「笑福亭一門会」(弟弟子の2代目松之助、3代目笑福亭福松門下の初代森乃福郎も参加)を開く。同年6月、死去した3代目林家染丸の後任として上方落語協会第2代会長に就任、1977年まで務める。

1969年4月23日、大阪厚生年金会館にて初の独演会を開く(4月25日まで)。この年、住吉区粉浜に転居する(現在の「無学」)。

1971年1月30日芸術祭大衆芸能部門優秀賞受賞。8月31日、有馬温泉で行われた松竹芸能の親睦パーティーの席で泥酔して騒ぎ、来賓として出席した松竹本社の城戸四郎社長を激怒させるなど周囲の顰蹙を買った[1]。松竹芸能の所属タレントはもちろん、親会社からも松鶴の解雇を要求する声が挙がる中、松竹芸能の勝忠男社長が仲裁に入り、松鶴が勝に謝罪することで事態は収拾した[1]。皮肉にも松鶴はこのあとメディアでの露出が増えるが、勝は『六世笑福亭松鶴はなし』にて、有馬温泉の一件での松鶴の謝罪が影響したと回顧している[1]

1972年2月21日南区千年町(現・中央区東心斎橋)の島之内教会内に定席「島之内寄席」開場。12月、「上方お笑い大賞」を受賞。

1973年10月関西テレビ制作のドラマ『どてらい男』に「将軍」こと大石老人役でセミレギュラー出演(1977年3月まで)。この年、協会運営の落語会「千里繁昌亭」をスタートさせる。

1975年藤本義一直木賞受賞作の映画『鬼の詩』に特別出演する(オープニングで藤本義一と音声対談)。1977年5月神戸市東灘区の東灘文化センターで、落語など演芸関係の蔵書300点余が公開される。

1978年住之江区住之江公園近くに転居。1979年1月、還暦記念落語会「六世松鶴極め付き十三夜」を北区堂島の毎日国際サロンにて開催した。

1981年8月8日公開の映画『男はつらいよ 浪花の恋の寅次郎』に安宿の老人役で出演。同年11月3日、紫綬褒章を受章。上方落語家としては初。この際、市民税を滞納していたことが発覚し、急遽支払ったとされる[2]

1984年1月、惣領弟子・仁鶴との親子会「松鶴・仁鶴極め付き十三夜」を中央区本町の北御堂にて開催した。

1986年5月28日、北御堂で行われた林家一門の落語会で「二代目林家染丸の思い出噺」を口演し、これが最後の高座となる。9月5日、肺炎に伴う呼吸不全と心不全のため、入院先の大阪市天王寺区の大阪警察病院にて死去[3]。68歳没。この日は奇しくも父・5代目松鶴と長男・5代目枝鶴の誕生日に当たっていた。同じ時期に同じ病院に宮川左近ショー宮川左近が入院しており。その後左近は松鶴が過ごした個室に入ったがその数日後亡くなった。

最期の言葉には諸説ある。笑福亭鶴瓶によれば、最期に「ばば(大便)したい」と言い残し直後に息を引き取った(『鶴瓶上岡パペポTV』での談話)。また当時の新聞記事には「主治医に『戦争じゃ!』と呼びかけた」という記述がある(『落語ファンクラブ』より)。NHK等、媒体で発表された辞世の句は「煩悩を我も振り分け西の旅」である。これは、父・5代目の辞世の句「煩悩を振り分けにして西の旅」(4代目桂米團治作)を踏まえたものである。作者は甥の和多田勝(『六世笑福亭松鶴はなし』桂米朝の回顧より)である。

戒名は「笑福亭楽翁松鶴居士」。墓所は大阪府大阪市天王寺区上本町9丁目の壽法寺(別名・紅葉寺)。

没後[編集]

6代目の旧住居は現在は寄席小屋「無学」となっており、弟子の笑福亭鶴瓶が月1回「帝塚山 無学の会」というイベントを開催している(後述)。

生誕100年となる2018年9月には天満天神繁昌亭と動楽亭を会場に「六代目笑福亭松鶴生誕百年祭記念落語会」が7日間開催され、筆頭弟子の笑福亭仁鶴以下74人の現存する弟子・孫弟子の噺家がいずれかの日に出演する「一門そろい踏み」の催しとなった[4]

人物[編集]

芸風など[編集]

入門当時、消滅寸前だった上方落語の復興を目指し、3代目桂米朝らと奔走。埋もれていた演目を掘り起こし、また多くの弟子を育て上げ、上方落語の復興を果たす。米朝、3代目桂小文枝(後の5代目桂文枝)、3代目桂春団治とで「上方落語界の四天王」と讃えられた。豪放な芸風と晩年の呂律が回らない語り口(1974年頃に脳溢血を患った後遺症による)が知られているが、若い頃はまさに立て板に水というところで、テンポよく迫力のある語り、酔態や子供の表現の上手さで人気を得た。特に酒を題材に取った噺(らくだなど)や芝居噺(蔵丁稚など)を得意としていた。松鶴襲名のころまではまさに他の四天王たちやほぼ同年代の噺家たちよりは頭ひとつ抜けた存在であったと評判であった。また、枝鶴、染丸同時襲名の折は看板は枝鶴(6代目松鶴)が上であった。父が5代目松鶴だったこともあり、上方落語のサラブレッドやプリンスと呼ばれたことがあった。立川談志は初対面の時「随分汚ねえプリンスだな。」とあきれたが、松鶴は「わてがプリンスですねん。そう見えまっか。」と逆手に取って周囲を笑わしていた。

若手の頃はヒロポン好きであった。覚せい剤取締法が制定される1951年までヒロポンの市販は合法であったが、どれだけのヒロポンを打てるかが芸人のステータスとなっていた当時、松鶴は一升瓶に入ったヒロポンの溶水を掲げ「一日に30本打ったった」と自慢、「ワシや春団治は楽屋でヒロポン打っとったけど、米朝はリンゴ食うとった」との思い出を語っている(同じ松竹芸能所属だった北野誠のラジオでの談話)。3代目桂米朝は、自分は注射が嫌いだったのでヒロポンに手を出さなかったと述べている[2]

話を覚えるのがうまく、2代目松之助によると、5代目桂文枝が若手の頃に5代目松鶴から『天神山』の稽古をつけてもらっていたのを隣で盗み聞きし、文枝よりも先に高座でかけてしまった。また、3代目桂米朝も、5代目松鶴から『池田の猪買い』の稽古を付けられたときに横で6代目松鶴が聞いて覚えてしまったと述べている[2]

紙切り芸人の香見喜利平が、舞台で使った残り紙を利用して年賀状用に翌年の干支である鼠(子)を切っていたのを見つけ、喜利平の不在の間にそれを全部捨てた上で、自己流のを紙で切って置いておいた。用事から帰って破り捨てられた鼠と松鶴の切った猫を前にした喜利平は「これで腹を立てたらシャレの通じん奴やと思われるやろな」とぼやいた[2]

1964年頃、桂春団治と新世界の飲み屋で、それぞれの弟子を連れて飲んでいた時に、近くの席でヤクザが女に因縁をつけているのを見つけた松鶴は、春団治にアイコンタクトを取りつつ「三代目」と代数で呼びかけた。状況を察した春団治も松鶴を「六代目」と呼び、弟子たちも師匠を「おやっさん」と呼ぶなどしてしばらく会話しているうちに、件のヤクザは席を立っていた[5]

弟子や若手の育成[編集]

若手の芸人を非常に可愛がっていた。師匠(3代目林家染丸)を早くに亡くした4代目林家小染には、大ネタである「らくだ」の稽古を直に付け、小染の最初の独演会(1979年)のプログラムには「この調子でたゆまず精進してくれれば四代目染丸襲名も近いうち夢でない」と記して将来を嘱望していた[6]。その小染が1984年に若くして事故で急逝した際には、不祥事による謹慎中の身で通夜に参列した桂きん枝(現・4代桂小文枝)に声をかけ、その後「桂勝枝」の名前で復帰したものの芸能活動をほぼやめていたきん枝を伴って3代目桂小文枝の自宅を訪れ、「もう戻したれ」と持ちかけた(小文枝も「タイミングの問題」と考えており、1986年に「きん枝」に復名して本格的な芸能活動を再開した)[7]

弟子の笑福亭鶴光山本正之のプロデュースで「うぐいすだにミュージックホール」をリリースして大ヒットしたが、それを聞いた松鶴は「ろくに落語もできんくせに流行歌手かい!」「ストリップの歌うたいやがって」と激怒し、これを契機に鶴光は本格的に落語に取り組むことになった[8]

鶴瓶の弟子で松鶴の孫弟子にあたる笑福亭笑瓶は落語家志望だったため、鶴瓶に弟子にしてほしいと懇願した。そこで鶴瓶は「ウチの嫁と、師匠の松鶴に気に入られれば入門を認める」と条件を出す。鶴瓶の妻には認められ、その後松鶴と対面した際に「君は人を笑わせるのが好きか」と問われ、笑瓶は「好きです」と即答した。松鶴は笑瓶に対し、「こいつ(鶴瓶)の生き様を見習え」と告げたという。

プライベート[編集]

私生活においては、酒と借金にまつわる数々のエピソードなど、豪遊で知られる。これらは松鶴の弟子たちによって今でも面白おかしく語られ、「六代目」の生き方を偲ぶよすがとなっている。実際は家ではほとんど酒を飲まず、外では芸人「松鶴」を演じていたのではないかと筆頭弟子の仁鶴ほかが証言している。

生涯3度結婚している。最初の妻とは死別し、最後の妻は元芸妓であり、出会った当初は今里新地で店を開いていた。当時は別の男性と結婚しており、店に夫が姿を見せると機嫌が悪くなり、今里駅前から自宅までの200メートル余りの間を大声を上げながら歩き帰り、家の中でも壁や柱に当り散らしていた[9]。結婚後は家族・弟子から「あーちゃん」と呼ばれて親しまれ、名物的なおかみさんだった。

一時期「笑福亭」という名の割烹料理屋を営んでいた事がある。芸人が毎日出入りし食事代を踏み倒すのですぐに店を潰した。

ベルが鳴っている電話に出るのが苦手で、まず弟子か家人に受話器を取らせてから電話を代わった。やむを得ず電話に出なければならないときは受話器を取るなり開口一番「だっだっだ、誰や!」と怒鳴っていた。

1971年から1979年まで大阪府知事を務めた黒田了一の支持者として知られ、黒田の選挙応援を度々行った。

東京とのつながり[編集]

東京の落語家とも親交を持ち、東京でも「六代目」と呼ばれた。特に5代目柳家小さん三笑亭夢楽とは同じ世代でもあり無二の親友であった。松鶴自身東京の若手をもよく可愛がり、7代目立川談志3代目古今亭志ん朝は松鶴に心酔した。後年、談志は松鶴について、外見は豪放だったが実に繊細で面倒見がよく、毎晩のように御馳走になったり、普段の高座は「相撲場風景」などの軽いネタしかやらず「大したことないな」と思っていた矢先、「らくだ」をたっぷりと演じたのを聴いて体が震えるほど感動したなどと証言している。

東京の噺家が角座に来演するときは、必ず松鶴自らはトリに出ず東京方に取らせた。「わざわざ遠いとこから来てくれてんのやさかい、気持ちよう出てもらわなあかん」というというのが口癖で、その心遣いにみんな感激した。

弟子の鶴光は東京の落語芸術協会にも加入した時、周りの芸人たちが「世話になったから」と手厚く扱ってくれた経験から、松鶴への感謝の念を著書に記している[10]。また、2代目快楽亭ブラックも短期間ではあるが、松鶴に世話になったことがある。

得意としたネタ[編集]

など

過去に出演したテレビ・ラジオ番組[編集]

  • てれこ談義(朝日放送ラジオ)専属時代には多くのラジオ番組に出演。その一つがてれこ談義で米朝と共に落語のネタを2人で芝居仕立てで演じるラジオドラマ。
  • 突然ガバチョ!毎日放送、鶴瓶主演)女性アイドル歌手等とトークを繰り広げる「松鶴のお部屋」のコーナーやオープニングで素人等と銭湯に入ったりした。
  • アップダウンクイズ(毎日放送、解答者)2006年末の同局『朝まで生つるべ』で笑福亭鶴瓶は以下のように語っている。松鶴は2度の不正解で退場となってしまった。その後、ある問題で他の5人の解答者が誰も答えられなかった。この問題を松鶴が正解できれば復帰できる。構成作家が小さな声で松鶴にそっと正解を教えてくれたのだが、松鶴は小声で話されるのが大嫌いで「何でっか? 大きな声で言うとくんなはれ!」と言ってしまい周囲を慌てさせた。
  • 世界一周双六ゲーム朝日放送、解答者、鶴光とともに出演)
  • 三枝の国盗りゲーム朝日放送、解答者、鶴瓶とともに出演)
  • 笑点(お正月特番鶴亀大喜利)
  • 寛美の落語紳士録毎日放送

笑福亭松鶴一門[編集]

弟子に関しては「来る者拒まず、去る者追わず」の精神で多くの弟子を受け入れたが廃業した者も多い。

  • 笑福亭仁鶴
  • 6代目笑福亭枝鶴(5代目枝鶴の弟子。1984年に枝鶴が最初の破門を受けた際、6代目松鶴預かりとなる。)
  • 笑福亭鶴光落語芸術協会にも籍を持つ)
  • 笑福亭福笑
  • 笑福亭松喬(前名は鶴三、2013年7月30日逝去)
  • 笑福亭松枝
  • 笑福亭呂鶴
  • 笑福亭松葉(1996年9月22日逝去、死後、7代目松鶴を追贈)
  • 笑福亭鶴瓶
  • 笑福亭小松(入門時期は鶴瓶と鶴志の間だが、一時破門され東京の漫才師「青空ポン児」となったため、序列は末尾である。廃業期間が長く、上方で活動していないため協会の系図には記載されていない。2013年12月14日名古屋大須演芸場にて夏川贋二郎として活動再開したが2014年8月2日逝去)
  • 笑福亭鶴志
  • 笑福亭伯鶴
  • 笑福亭和鶴
  • 笑福亭竹林
  • 笑福亭圓笑(前名は猿笑)
  • 笑福亭鶴松
  • 笑福亭岐代松
  • 笑福亭伯枝
  • 笑福亭忍笑
  • 笑福亭鶴笑
  • 笑福亭鶴二
  • 鶴三(6代目松鶴が枝鶴時代の1953年に入門、後に廃業)
  • 呂鶴(1961年に入門、後に廃業)
  • 手遊(1971年10月に入門、中学生で初高座、高校生で廃業。鶴瓶のエピソードによく出てくる。後の実業家・SBIホールディングス役員の横山信治
  • 松橋(1973年8月に入門、1979年4月に同門の雛鶴と結婚。松喬襲名時里鶴に改名後死去。)
  • 璃鶴(龍谷大学卒業後、1972年に入門、後に廃業)
  • 一鶴(1973年10月に入門、タレントとして活動したが廃業。)
  • 松竹1974年3月に入門、1978年3月に廃業、笑福亭の大名跡「しょちく」ではなく「まったけ」と読む。)
  • 遊鶴(1974年4月に入門、後に廃業)
  • 幸鶴(1976年1月に入門、後に廃業、女性)
  • 雛鶴(幸鶴と一緒に入門、1979年4月に同門の松橋と結婚し廃業、女性)
  • 小遊(1973年4月に入門、後に廃業)
  • 千羽(1974年1月に入門、後に廃業)
  • 朝一(元東京の古今亭志ん朝の門下だったが、訛りがあった為松鶴の預かり弟子になるも1978年に廃業)
  • 花丸
  • 千鶴(ちかく、松葉前後に入門女性 廃業後女優タレントとして活動)
  • 福輔(1984年6月に入門、2010年に詐欺容疑で逮捕、これに伴い協会から離籍している)

通常では、惣領弟子の仁鶴を筆頭に呂鶴までが一門の幹部と認識されるが、仁鶴は八代目襲名問題以降一門と疎遠になっている。鶴光・福笑は一門の会合には滅多に顔を出さなかったものの、六代目の法要等は福笑が仕切っている。仁鶴と鶴笑は吉本興業所属。福笑はフリー。後の殆どは松竹芸能所属である。

落語会[編集]

帝塚山・「無学」(2013年11月撮影)

「帝塚山・無学」は粉浜にあった笑福亭松鶴の旧自邸を鶴瓶が買取をし改築した純和風ホールである。「落語会」を開催し一般にも開いている。今までのライブのゲストにタモリ、甥弟子に当たる明石家さんまイッセー尾形、桂米朝、桂春団治ら豪華な顔ぶれを迎えている。南海電気鉄道南海本線粉浜駅から東へ約5分のところにある。

著書[編集]

  • 〜松鶴極道ばなし〜ほな、いてこまそ(グリーンアロー出版社)1973年ーエッセイ。
  • 六代目松鶴 極めつけおもしろ人生(神戸新聞出版センター 1986年4月)
  • 上方落語(講談社 1987年10月) - 三田純市の選考による、ネタ100篇の速記録。
  • 六代目笑福亭松鶴 その芸・人・一門(1986年1月)
  • 古典 上方落語(講談社、1973年)

関連書籍[編集]

  • 笑福亭松枝『ためいき坂くちぶえ坂―松鶴と弟子たちのドガチャガ』(浪速社) -松枝の内弟子時代の思い出を書いたエッセイ。松鶴一家の様々なエピソードの他に、鶴瓶の奇行などが描かれている。
  • 中島らも寝ずの番」 -上方落語の重鎮が亡くなった通夜の晩の狂騒劇を描いた短編。なくなった落語家“笑満亭橋鶴”とその妻は、松鶴夫婦をモデルにしている。のちに、マキノ雅彦監督により映画化され、橋鶴役は、長門裕之が演じた。
  • 田中啓文『ハナシがちがう!―笑酔亭梅寿謎解噺』『ハナシにならん!―笑酔亭梅寿謎解噺〈2)』(集英社) -上方落語界を舞台にした短編ミステリ集。主人公の師匠(タイトルロール)として、松鶴を忠実にモデルとした「笑酔亭梅寿」なるキャラクターが登場している。時代や世代は二十年ほど後ろにずらし、CD時代にも矍鑠とした老落語家として描かれている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この経験が後年、視覚にハンディキャップを持つ笑福亭伯鶴を弟子に取ることに繋がった。

出典[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ a b c 戸田 2004, §9「勝忠男 松竹芸能社長に聞く」.
  2. ^ a b c d 戸田 2004, §5「桂米朝師に聞く」.
  3. ^ 朝日新聞1986年9月6日朝刊
  4. ^ 桂枝女太あっぱれ鶴笑!! 六代目笑福亭松鶴生誕百年祭」(上方落語WEBマガジン『んなあほな』2018年10月12日) - 上方落語協会
  5. ^ 戸田 2004, §5「桂春団治師に聞く」.
  6. ^ 戸田学 『上方落語の戦後史』 岩波書店、2014年7月、pp.430-432
  7. ^ 5代目桂文枝 2011, pp. 261-262.
  8. ^ 笑福亭鶴光『つるこうでおま!』 白夜書房、2008年7月、pp.116、208
  9. ^ 戸田 2004, §3「桂文枝師に聞く」.
  10. ^ 笑福亭鶴光『つるこうでおま!』 白夜書房、2008年7月、pp.70、205

参考文献[編集]

  • 三田純市『笑福亭松鶴』駸々堂出版 1987年9月 -三田純市による伝記。
  • 5代目桂文枝『あんけら荘夜話(新装版)』青蛙房、2011年11月、小佐田定雄。
  • 戸田学編『六世笑福亭松鶴はなし』岩波書店、2004年。ISBN 4-00-002586-4。

関連項目[編集]