笠間益三

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笠間 益三(かさま ますぞう、弘化元年(1844年) - 明治30年(1897年8月3日)は、明治期の漢学者官吏教育者は広延、を梧園、に十六松園、含紫楼主人など。通称は辰之助と「旧柳川藩志」にある。

経歴[編集]

筑後国柳川藩の藩士として生まれる。「旧柳川藩志」では父は笠間太仲とする。「文久・慶応・明治家中変遷」では父の笠間太仲は奥州小路の笠間養左衛門の養子で、明治29年(1896年)までには広敦と改名し、三池郡手鎌に居住したとされる。

文久元年(1861年)に作成され、以降、加筆が行われた「侍帳」において助教の笠間養左衛門、句讀師から訓導寮頭兼務になっている笠間太仲が見える。文久3年頃(1863年)とされる「列並諸役人帳」に笠間益三の名は見えないが、助教に笠間養左衛門、訓導寮頭兼務に笠間太仲、句讀師に笠間辰之助の名が見える。また、「元治元年分限帳」(1864年)では小姓組に笠間太仲と辰之助の名が見える。

藩校・伝習館に学び、特に漢学に秀でていたために句読師・寮長を歴任し、藩主の命を受け、戸次正三郎、戸次誠之助の3名で江戸に出て慶應3年(1867年)11月に昌平黌に入学。

著名な後輩に海老名弾正がいる。昌平黌廃校に伴い、大学校に学び、助教授となる。明治3年(1870年)、大学校廃止により慶應義塾に入学し、卒業後の明治5年(1872年)9月、兵部省に出仕して陸軍省より『日本略史』を記し、頼山陽との共著『明治新撰日本政記』や日本史の教科書を多く記した。明治12年(1879年)に神奈川師範学校長となり、明治13年(1880年)福岡県立橘中学校長、明治20年(1887年第五高等中学校講師となり、明治24年(1891年)3月第五高等学校(現・熊本大学)教授。漢詩を多く残している。また『鎮西餘響』には、「秋月悌次郎先生略伝」が収められている。

著書[編集]