粟田細目

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粟田 細目(あわた の ほそめ、生没年不詳)は、飛鳥時代豪族

経歴[編集]

日本書紀』巻第二十二によると、推古天皇20年(612年)の時に

十九年の夏五月(さつき)の五日に、菟田野(うだのの)に薬猟(くすりがり=鹿の若角をとる猟)す。鶏鳴時(あかつき)を取りて、藤原池(ふぢはらのいけ)の上(ほとり)に集(つど)ふ。会明(あけぼの)を以て乃(すなは)ち往く。粟田細目臣(あはた の ほそめ おみ)を前(さき)の部領(ことり=指揮者)とす。額田部比羅夫連を後(しりえ)の部領にす。是(こ)の日に、諸臣(もろもろのおみ)の服(きもの)の色、皆冠(かうぶり)の色に随(したが)ふ。各(おのおの)髻花(うず)著(さ)せり。則(すなは)ち大徳・小徳は並(ならび)に金(こがね)を用ゐる。大仁(だいにん)・小仁(せうにん)は豹(中津神)の尾を用ゐる。大礼(だいらい)より下は鳥の尾を用ゐる[1]

とあり、これが細目の名前の初出である。このことから聖徳太子冠位十二階がつつがなく履行されていたことが分かる。

そのほか、細目の名前が現れるのは、時代が下って、30年後の皇極天皇元年(642年)の舒明天皇の喪葬の時である。

甲午(きのえうまのひ)に、初めて息長足日広額天皇(おきながたらしひろぬか の すめらみこと=舒明天皇)の喪(みも)を発(おこ)す。是の日に小徳巨勢臣徳太(こせ の おみ とこた)、大派皇子(おほまた の みこ)に代(かは)りて(しのびごとまう)す。次に小徳粟田臣細目(あはた の おみ ほそめ)、軽皇子に代(かは)りて誄(しのびごとまう)す。次に小徳大伴連馬飼(おほとも の むらじ うまかひ)、大臣(=蘇我蝦夷)に代(かは)りて誄(しのびごとまう)す。乙未(きのとひつじのひ)に、息長山田公(おきなが の やまだ の きみ)、日嗣(ひつぎ)を誄(しの)び奉(たてまつ)る[2]

ここでも、冠位制の施行を窺うことができ、舒明天皇の葬儀に際して、粟田細目が重要な役割を果たしていたことが分かる。なお、大派皇子は、舒明天皇の叔父にあたる。

天武天皇13年(684年)、八色の姓で粟田連一族は朝臣を賜姓されている[3]

脚注[編集]

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  1. ^ 『日本書紀』推古天皇19年5月5日条
  2. ^ 『日本書紀』皇極天皇元年12月13日条、14日条
  3. ^ 『日本書紀』巻第二十九、天武天皇13年11月1日条

参考文献[編集]

関連項目[編集]