結城忠正

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結城忠正
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 不詳
別名 進斎、通称:左衛門尉
霊名 アンリケ
官位 山城
幕府 室町幕府 奉公衆
主君 三好長慶松永久秀
氏族 結城氏
正室:勧修寺尹豊の娘
左衛門尉(アンタン)
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結城 忠正(ゆうき ただまさ)は、戦国時代武将三好長慶松永久秀の家臣。キリシタン

生涯[編集]

室町幕府奉公衆であったが、三好長慶に仕え、その家宰松永久秀に属した[1]。当初は久秀の命令によりキリシタンを弾圧した。しかし永禄6年(1563年)、京都の町人・ディエゴとの宗論を機にキリスト教に関心を寄せ、日本人宣教師ロレンソ了斎に感化されて高山友照、清原枝賢らと共に受洗を受けた(『フロイス日本史[注 1])。これは日本史上、畿内で最も古いキリシタン武将の誕生で、忠正は畿内のキリシタンの有力な庇護者となった[1]

フロイスによれば、学問・降霊術に優れ、偉大な剣術家であったという。剣術の腕前については、柳生厳包が父・利厳の口伝を書き残した『柳生連也自筆相伝書』の中でも、「結城進斎」としてその剣技に触れている一節がある。

三好長慶没後は松永久秀に従って三好三人衆と戦い、久秀が織田信長に通じると信長より大和国柳生氏の調略を任されている(『柳生文書』)。永禄11年(1568年)に信長が足利義昭を奉じて上洛した際には、久秀と共に信長に従った。

子は左衛門尉[注 2]、甥に結城弥平次[注 3]がおり、いずれもキリシタンである。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この際「老人」と記されており、かなりの高齢であったと思われる。
  2. ^ 三好氏家臣。受洗名アンタン。永禄8年(1565年)に急死。死因は不明。
  3. ^ 小西行長加藤清正有馬晴信らに仕えた。

出典[編集]

  1. ^ a b 阿部 & 西村 1990, p. 812.

参考文献[編集]