緑の党 (ドイツ)

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ドイツの旗 ドイツの政党
90年同盟/緑の党
Bündnis 90/Die Grünen
200px
党首(Vorsitzende) クラウディア・ロート
成立年月日 1979年
本部所在地 ベルリン
ドイツ連邦議会(下院)議席数
68 / 622 (11%)
(2009年9月)
連邦参議院(上院)議席数
未定 / 69
(●年●月●日現在)
政治的思想・立場 環境主義
進歩主義
公式サイト Bündnis 90/Die Grünen
シンボル
国際組織 グローバルグリーンズ
欧州緑の党
党首はロートとラインハルト・ビューティコーファーとの共同党首。
  

緑の党(みどりのとう、正式名 90年同盟/緑の党,ドイツ語Bündnis 90/Die Grünen)は、ドイツ環境政党。グローバルグリーンズ加盟。

2006年12月現在はドイツ連邦議会で47議席を持つ5番目に大きい党であり、80年代以降一定の勢力を持つ野党である。1998年から2005年まではドイツ社会民主党連立政権を組み、脱原発風力発電の推進・CO2の削減など環境政策を進展させ、国民的人気の高いヨシュカ・フィッシャー外相などの閣僚も送り出した。

初めは、西ドイツの地方レベルで1970年代の終わりに、戦前から続く主に右翼的な環境保護運動が連合する形で「諸派・緑の党」(Die Grünen 緑の人々)は設立された。しかし、そのままでは5%条項を突破できないので、のちに60年代学生運動世代を呼び込んで、連邦レベルの政党「緑の党」として1980年に再出発する。その後、右左の勢力が逆転し、右派グループは別の環境政党として脱退、以降は新左翼色の濃いエコロジー政党として一貫している。1983年には連邦議会でも議席を獲得。世界の多くの緑の党の中で最も古く、最も議会政治的に成功している。1989年1990年には、東ドイツの民主化に関わった市民グループが「Bündnis 90」(90年同盟)を結成、1993年に緑の党と統合した。

目次

歴史

設立

ドイツにはナチス時代以前から続くエコロジーの伝統があり、シュヴァルツヴァルトの喪失などが話題となり環境意識の高まった1970年代の半ばから末期にかけて、主に右派や保守派の環境保護グループが中心となって、「Die Grünen」を組織した。当初はヘルベルト・グルール(CDU)を筆頭とする保守派・右派500人に対して中道左派(SPD系)はわずか15人にすぎなかった。1979年のヨーロッパ議会選挙ではヘルベルト・グルールとペトラ・ケリーの2人を第一候補に置いて、有効投票数の3.2%を獲得した。また、ブレーメン市州選挙では5.1%の高得票を叩き出す。さらに党員は一万人を突破した。これらの成功をみて、70年代をテロリズムにあけくれ衰退期にあった学生運動出身の左派グループが接近してくる。1979年11月4日にオッフェンバッハで行われた党大会では、右派グループは左翼過激派の参加を拒んで反対動議を提出するが、僅差で否決された。この採決によって緑の党の今日まで続く路線が決定されたと言える。1980年1月13日のカールスルーエでの党大会で新たに連邦議会政党として出発することになった際の結党メンバーにはドイツ全学連の元議長ルディ・ドゥチュケも名を連ねた。しかし、結果的に主導権を握ったのは、ケリーらの中道左派であった。彼女は右派と左派を巧みに仲介する役割を果たしていく。反原発自然エネルギーの推進、反核兵器・反軍国主義・反NATOと平和主義、反消費社会循環型社会が当時の主な主張であった。

一旦加入が認められた左派グループはどんどんと党員を送り込み、党内は次第に左寄りに加速していく。このことに不満をもったグルールの右派グループは、「毛沢東主義者に党が乗っ取られている」として1982年に脱退を表明し、新たに保守系の環境党(ドイツ独立環境党)を創設する。この分裂によって緑の党は党員の三分の一を失う。緑の党に残った人々は、軍事主義や移民規制と反中絶に対してより強く反対した。またこの間、マリファナ使用の自由化、ゲイレズビアンの権利の向上、自由主義教育や育児を主張した。さらに、核兵器保有案やフランクフルト空港の新しい滑走路の構築に対して、デモで警察と頻繁に衝突し抗議を行った。

議会への進出

州レベルやヨーロッパ議会の選挙でのいくつかの成功の後に、1983年連邦議会選挙で初めて議席を勝ち取った。その時の重要な争点の中で、米国およびNATOによる、パーシング II(IRBM)および核巡航ミサイルの西ドイツへの配備が、一般住民の強い反対を生みだしていた。新しく形成された党は、人々の運動への支援を補充することができた。部分的に、1986年チェルノブイリ原発事故のインパクトとドイツの大気汚染と森林への酸性雨の脅威に対する意識を育てることで、1987年1月に行なわれた連邦議会選挙で得票率を8.3%に増加させた。

ドイツが再統一されて初めて行なわれた1990年12月の連邦議会選挙は旧東ドイツと旧西ドイツで5%のハードルを別々に適用して行われが、旧西ドイツの緑の党は、連邦議会の中で議席を得るのに必要な5%の得票率を越えることができなかった。旧東ドイツでは、90年同盟が投票の5%以上を獲得することができた。敗因はナショナリズム愛国心の高まっているムードに反対するキャンペーンが原因だと考えられた。1994年連邦議会選挙では、連邦議会で7.3%を得票し、49席を獲得した。

政権与党

1998年連邦議会選挙では、得票率が6.7%に落ちたにもかかわらず、47議席を保持し、初めてドイツ社会民主党(SPD)との連立政権(赤緑連合)に加わった。ヨシュカ・フィッシャーは副首相と外務大臣に就任した。その他環境大臣にユルゲン・トリッティン、保健相にアンドレア・フィッシャー(後に狂牛病問題で辞任)が就任した。

コソボでのNATOの軍事行動へのドイツ軍の参加をめぐって、緑の党はすぐに危機に陥った。軍事衝突中の国外へのドイツ軍の最初の配備が緑の党の政府の下で行なわれた時、多数の戦争反対者は党員を辞めた。そのため、この時期は地方選挙で長期間にわたり敗北した。また、産業界寄りのSPDの閣僚は、広範にわたる妥協が必要として、緑の党の環境保護主義的な主張に反対した。

2001年には、数人の緑の党の連邦議会議員が米国アフガニスタン侵攻を支援するためのドイツ政府によるドイツ軍派遣案を拒絶し、党は最大の危機を経験した。ゲアハルト・シュレーダー首相は内閣の信任投票を行なった。緑の党から4人、SPDから1人の議員が反対したが、シュレーダーは大多数をまだ支配することができた。

前の選挙期間の危機にもかかわらず、2002年に行われた連邦議会選挙で、緑の党は得票率8.6%で議席を55へ伸ばし、自由民主党(FDP)を抜いて第3党となった。これは、部分的にはアメリカアフガニスタン侵攻についての内部討論が他の党より正直に公開されていたからであろう。エネルギー再生法やゲイ・レズビアンのレジスタード・パートナーシップ法のような1998年-2002年の期間に緑の党の立法からを支持する人々は投票でこの党に報いた。緑の党とSDPの双方はドイツの大衆には支持されないイラク戦争への参加に反対の立場を取ったために票を集めたといえる。SPDの議席減にもかかわらず、連立政権は下院でわずかに過半数を獲得し、第2次内閣を発足させた。ヨシュカ・フィッシャーが外務大臣に再任し、消費者保護・栄養・農業大臣のレナーテ・キューナストが、環境大臣のユルゲン・トリッティンも再任した。

下野、2009年選挙での躍進

2005年9月連邦議会選挙では、微減にとどまって党勢を維持したものの、FDPと左派党が勢力を伸ばしたために議会の第5勢力となってしまい、また連立相手の社会民主党が敗北し、キリスト教民主同盟大連立を組むことになったために政権与党の座を失った。メルケル政権の大連立に対する国民の評価を問うこととなった2009年9月の連邦議会選挙では、CDU・CSUとSPDの2大勢力に対する批判を集め、得票で初めて10%台を獲得し、議席を増やした。

連邦議会選挙での党勢推移

月日 得票数
(政党票)
議席数 選挙区
1980年 10月5日 569,589 1.5 0 0
1983年 3月5日 2,167,431 5.6 27 0
1987年 1月25日 3,126,256 8.3 42 0
1990年 12月2日 559,207 1.2 8 0
1994年 10月16日 3,424,315 7.3 49 0
1998年 9月27日 3,301,624 6.7 47 0
2002年 9月22日 4,110,355 8.6 55 1
2005年 9月18日 3,838,326 8.1 51 1
2009年 9月27日 4,641,197 10.7 68 1

参考文献

  • 西田慎 『ドイツ・エコロジー政党の誕生-「六八年運動」から緑の党へ-』 昭和堂、2009年 ISBN 978-4-8122-0960-8

関連項目


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