繁沢元貞
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 文禄4年(1595年) |
死没 | 寛永4年7月8日(1627年8月18日) |
改名 | 繁沢元貞→朝倉元貞→繁沢元貞 |
別名 | 忠三郎(通称)、監物 |
主君 | 毛利秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 繁沢家→朝倉氏→繁沢家 |
父母 |
父:毛利元氏 養父:朝倉元息 |
兄弟 |
毛利元景、繁沢元貞、繁沢就真 女(三浦元忠正室) |
子 | まつ(繁沢就充室) |
繁沢 元貞(はんざわ もとさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。毛利氏の家臣。父は吉川元春の次男・繁沢元氏。
生涯[編集]
文禄4年(1595年)、吉川元春の次男である繁沢元氏の次男として生まれる。元和7年(1621年)、毛利秀就より、監物の官途名を与えられた。
朝倉元息(兵庫)が跡継ぎのいないまま死去したため、家臣・上田秋宣の願い出によって元貞は朝倉家を相続した。しかし、事情により元貞は浪人となったため、朝倉氏は断絶となった。その後、歳の離れた兄・元景によって証人として江戸へ遣わされ、数年間を江戸で過ごした。また、500石の知行とを与えられ、寛永4年(1627年)、33歳で死去した。益田就宣の弟・就充が跡を継いだ。
参考文献[編集]
- 『萩藩閥閲録』巻30「繁澤采女」