美濃ミッション
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団体種類 | 包括宗教法人[1] |
---|---|
所在地 | 三重県四日市市富田浜町10-4[1] |
法人番号 | 8190005009218 |
主要人物 | 石黒イサク[1] |
収入 | 不明 |
支出 | 不明 |
ボランティア人数 | 不明 |
従業員数 | 不明 |
ウェブサイト | http://www.cty-net.ne.jp/~mmi/ |
美濃ミッション(みのみっしょん)は、石黒イサクが代表を務める日本の宗教法人である。[1]
聖書信仰に立つ福音派の単立の群れ[2]で、セディ・リー・ワイドナー宣教師によって1918年設立されたという。
美濃ミッションは聖書の無誤性、イエス・キリストの再臨を信じ、神社参拝を含むあらゆる偶像崇拝といわれることをしなかった。そのため、激しい迫害にあった。
沿革[編集]
開拓伝道[編集]
岐阜県大垣市で日曜学校と幼稚園から開拓伝道を開始する。他の岐阜県内、愛知県・三重県でも福音伝道をなした。本部は戸田伯爵家所有の家老屋敷においた。
神社参拝拒否事件[編集]
1929年9月24日、美濃ミッションの教会員の子弟たちが、大垣市中小学校(現大垣市立興文小学校)で行われた県社常葉神社の参拝を拒否した。この事件は『美濃大正新聞』1930年3月13日の報道をきっかけに、各新聞でも報道された。これを受けて日本基督教会大垣教会教会員で安八農学校校長の佐藤信夫は、我々キリスト教徒も迷惑を感じている。神社参拝に反対する必要はない、と述べた。美濃ミッションの児童は3月23日の大垣招魂祭例も拒んだ。これらの事件により9月23日提出した美濃ミッション設立願いはついに認められなかった。
1933年、美濃ミッションの子弟が伊勢神宮参拝を偶像であるとして拒んだ。この事件は新聞で大々的に報道された。岐阜県の政治家大野伴睦は「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と述べた[3]。煽動された大垣市地元民は「美濃ミッション排撃の歌:守れ国体、葬れ邪教」を作って美濃ミッションを迫害した。
我が国体の尊厳を 害なう彼らミッションの
— [4]
排撃目ざす 我らこそ 使命に生きる国民ぞ
血潮漲る憂国の 麋城(びじょう)の健児の力もて
倒せミッション倭異奴輩(ワイドハイ) 正々堂々最後まで
いざ起て勇士時は今 我市四萬の健児らよ
邪教の牙城を葬りて 正義の御旗輝かせ
日本基督教会大垣教会牧師朝倉重雄は、「神社に低頭するのは、キリスト教信仰に何ら差し支えない」として美濃ミッションを非難した。1933年8月21日、神社参拝を拒んだ児童たちは停学になった。同年9月1日、読売新聞は「美濃ミッション 聖書の「神」以外は一切排撃」と題する批判記事を書いた。翌年の1934年1月、美濃ミッションの幼稚園は閉鎖に追い込まれる。
ワイドナー宣教師は、病気により1939年死去した。美濃ミッションは解散を命じられたが、戦時中も信仰を守り、妥協せず、日本基督教団に加わることがなかった。1942年3月26日、美濃ミッションの牧師たちは治安維持法違反で投獄された。
戦後[編集]
1946年、エリザベス・アリス・フィウェル宣教師により美濃ミッションが再開され、現在に至っている。代表は石黒イサクである。
代表[編集]
- 創立者 セディ・リー・ワイドナー
- 第2代主管者 エリザベス・アリス・フィウェル
- 第3代主管者 石黒次夫
- 第4代教団代表 石黒イサク
批判[編集]
日本基督教団ら「神社非宗教論」を唱え神社参拝を容認する立場では、美濃ミッションをファンダメンタリストと呼んで非難した。美濃ミッション事件からファンダメンタリズム恐怖症が発生し、神社参拝拒否をファンダメンタリズムとする合意が形成されたという[5]。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 中村敏 『日本における福音派の歴史』著 いのちのことば社、ISBN 4264018269
- 『日本宣教と天皇制』 いのちのことば社、ISBN 4264019575
- 『それでも主の民として』 いのちのことば社、ISBN 9784264025689
- 『神社参拝拒否記録』 美濃ミッション