耶律学古

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耶律学古(やりつ がくこ、生没年不詳)は、(契丹)の軍人は乙辛隠。

経歴[編集]

仲父房耶律釈魯の後裔で、于越耶律洼の庶孫にあたる。聡明で学問を好み、翻訳と詩を得意とした。保寧年間、御盞郎君に任じられた。

乾亨元年(979年)、北宋北漢を滅ぼし、勝勢に乗じて燕雲十六州の奪回をはかると、学古は景宗の命を受けて援軍におもむいた。南京析津府に到着したとき、宋軍が耶律奚底・蕭討古らの軍を撃破して府城を包囲しており、城内の人々も動揺していた。学古は籠城戦の計画を立てて、適宜に防禦し、昼夜に警戒を解かなかった。宋軍の300人あまりの部隊が夜間に城壁を登ろうとしたため、学古は戦ってこれを撃退した。さらに遼の援軍が到着すると、南京の包囲は解けた。学古は城門を開いて陣を布き、四面に鼓を鳴らして民衆に叫ばせ、健在をアピールした。高梁河の戦いに勝利すると、凱旋した。功績により保静軍節度使に遙任され、南京馬歩軍都指揮使となった。

2年(980年)、漢人の部隊を率いて北宋を攻撃した。彰国軍節度使に転じた。南方の国境は安定せず、民衆は休息を求めていたので、学古は侵犯を禁じて民衆を安堵させた。北宋の潘美の軍が部隊を分けて侵攻してきたが、相対する学古の軍は少勢であったので、部隊のいないところに旗幟を立て、民衆を動員して偽物の兵士に仕立てた。夜に独虎峪で烽火があがったので、学古は偵察を派遣した。宋軍の一隊が村落を略奪していたところを学古の軍が攻撃して、奪われた物をことごとく奪回し、その将軍を捕らえた。これ以後学古と潘美はおたがいに国境を侵犯しなかった。功績により学古は惕隠となり、死去した。

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伝記資料[編集]

  • 遼史』巻83 列伝第13