耶律斡特剌

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耶律斡特剌(やりつ あつとくら、生没年不詳)は、(契丹)の政治家軍人は乙辛隠。

経歴[編集]

許国王耶律寅底石の6世の孫にあたる。41歳のときに初めて出仕して、本班郎君に補任された。このころ枢密使の耶律乙辛が朝廷で専権をふるっていたので、斡特剌は禍が及ぶのをおそれて、言動を抑制した。

太康年間、宿直官となり、右護衛太保・左護衛太保を歴任した。太安元年(1085年)、燕王耶律延禧の傅となった。太安2年(1086年)、知左夷離畢事を兼ねた。太安4年(1088年)、北院枢密副使となった。知北院枢密使事に転じ、翼聖佐義功臣の称号を賜った。太安10年(1094年)、北阻卜の首長の磨古斯が反抗すると、斡特剌は都統となって乱の鎮圧にあたった。大雪の天候のなか、磨古斯の4別部を撃破して、1000人あまりを斬首した。寿昌元年(1095年)、西北路招討使に任じられ、漆水郡王に封じられて、宣力守正功臣の称号を加えられた。寿昌2年(1096年)、梅里急を討って撃破した。寿昌3年(1097年)、阻卜を討って撃破し、南府宰相に上った。寿昌4年(1098年)、契丹行宮都部署を兼ねた。

北府や南府に訴えがあった場合、各州府が下調べをすることになっていたが、訴訟案件が滞るようになったため、斡特剌は旧制にもどすよう請願して、容れられた。寿昌5年(1099年)、再び西北路招討使となり、耶睹刮部を攻撃して、多くの部民を捕らえて斬り、数万の家畜を鹵獲した。寿昌6年(1100年)、磨古斯を捕らえ、守太保の位を加えられ、奉国匡化功臣の称号を賜った。

乾統元年(1101年)、致仕を願い出たが許されず、招討使を退任するにとどまった。南院枢密使を兼ね、混同郡王に封じられた。乾統2年(1102年)、北院枢密使に転じ、守太師の位を加えられ、推誠賛治功臣の称号を賜った。後に致仕し、死去した。は敬粛といった。

伝記資料[編集]

  • 遼史』巻97 列伝第27