耶律雅里

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

移動先: 案内検索
耶律雅里
皇帝
在位期間 1123年5月 - 10月
姓・諱 耶律雅里
撒鸞
生年 太安9年(1093年
没年 神暦元年(1123年10月
天祚帝
蕭元妃
年号 神暦 : 1123年

耶律 雅里(やりつ がり、契丹音:ヤリュート・ヤーリ)は、北遼の第3代皇帝

生涯[編集]

天祚帝の次男として生まれる。生母は蕭元妃(小字は貴哥。蕭奉先蕭皇后の妹)。7歳の時に父帝から梁王に冊封された。

保大2年(1122年)2月に父帝が、入来山で太祖と戦って大敗し、長春に逃れた。すると翌3月、皇族の耶律大石李処温らとともに、雅里の従大叔父の耶律涅里を擁立し、勝手に天祚帝を「湘陰王」に格下げして「北遼」を建国してしまった(天錫帝)。しかし、天錫帝は6月に61歳で崩御し、その皇后だった蕭徳妃(普賢女)が摂政となり、同母弟で皇太子の秦王・耶律定(天祚帝の五男)が擁立された。

しかし、翌保大3年(1223年)正月に金の太祖は都の南京を陥落させ、大石らは蕭徳妃を奉じて、長春から雲中の陰山に移動していた天祚帝を頼った。だが、天祚帝は「おば」の蕭徳妃に対して、自分に無断で天錫帝を擁立し自分を「湘陰王」に格下げした罪を問い、陰山に逃げてきた翌月に処刑してしまった。

同年5月、天祚帝に絶望した大石ら遼の大臣たちは、再び「北遼」を建てて、父帝から自立した梁王・雅里をその皇帝に擁立して拝謁した[1]。しかし雅里は同年10月に崩御した。享年31。

そのため、大臣たちは天錫帝の従弟の耶律朮烈を擁立した。

脚注[編集]

  1. ^ 洪皓『松漠紀聞』に「達実(大石)、深入沙子、立天祚之子梁王為帝、而相之 」(原文)とある。

伝記資料[編集]

  • 遼史』 巻三十
  • 『松漠紀聞』