胡善祥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

胡 善祥(こ ぜんしょう、洪武35年4月10日1402年5月11日) - 正統8年(1443年))は、宣徳帝の皇后。恭譲皇后(きょうじょうこうごう)とされた。

経歴[編集]

済寧の人で胡栄の三女。母は劉氏[1]洪武帝の時代、長姉の胡善圍が尚宮(女官)に任じられ、胡栄が正六品錦衣衛百戸となった。建文帝が即位すると、胡栄は免職された。

永楽15年(1417年)、胡善祥は永楽帝に召されて皇太孫朱瞻基(のちの宣徳帝)の妃(正室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して胡善祥をあまり寵愛しなかった。洪熙帝が即位すると皇太子妃に立てられ、宣徳帝が即位すると皇后に立てられた。胡栄は正二品錦衣衛指揮僉事に任じられた。

宣徳3年(1428年)、貴妃孫氏が男子朱祁鎮(のちの英宗)を産んだ。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃され、清寧宮に移された。そして、皇后の礼で遇されたが、道士にさせられた。法号は「静慈仙師」。代わって孫氏が皇后に立てられた。姑の張太后は胡氏を憐れんで、清寧宮の自身の居所へいつも招いた。

英宗の正統6年(1441年)4月、胡栄が死去した[2]。翌正統7年(1442年)、張太后が崩じた。その葬儀で胡善祥は、妃嬪と共に配列された。さらに翌正統8年(1443年)、娘の順徳長公主も子供をもうけずに薨じた。胡善祥はその後まもなく亡くなった。

没後、嬪の礼で金山に葬られた。英宗の天順年間に恭譲誠順康穆静慈章皇后が贈られ、皇后の礼で改葬された。

子女[編集]

伝記資料[編集]

  • 『明宣宗実録』
  • 明史
  • 『明英宗実録』

脚注[編集]

  1. ^ 『明世宗実録』:嘉靖二年四月 詔給恭譲章皇后父胡栄、母劉氏、葬地五頃六十余畝。
  2. ^ 側室の陳氏が殉死し(あるいは殉死させられ)、三品淑人が贈られた。