自動車製造事業法

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自動車製造事業法
日本国政府国章(準)
日本の法令
法令番号 昭和11年法律第33号
効力 廃止 - 昭和20年12月21日
(石油業法外十三法律廃止法律(昭和20年法律第49号))
種類 産業法
主な内容 自動車産業の統制。許可制導入による外資排除。
関連法令 軍用自動車補助法
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自動車製造事業法(じどうしゃせいぞうじぎょうほう)は、国防整備と産業発展を目的に自動車製造業の営業許可制などを定めていた日本の法律である。1930年代後半から行われた一連の統制経済立法のひとつ。軍用として重要な自動車の国産化推進のため、外国資本を排除することが主たる狙いだった。

成立の経緯[編集]

日本の国産ガソリン自動車1907年明治40年)に初めて製造されたが性能が悪く、日本で利用されていたガソリン自動車はほとんどが輸入車か外国資本との合弁会社のものであった。1929年昭和4年)に発生した世界恐慌の影響により各国は産業統制政策を取るようになり、日本も1931年(昭和6年)7月公布の重要産業統制法など国家による産業保護政策に舵を切っていた。

満州事変での戦訓などから、軍用自動車の重要性は日本陸軍でも強く認識されるようになっていた。日本陸軍は、国家総力戦を想定した軍用自動車の戦時量産体制確立を求め、1934年(昭和9年)初頭から商工省へと新たな保護立法を要望しはじめた。同年6月には「内地自動車工業確立方策」という陸軍案が作成され、許可制導入が提言された[1]

当時の日本の自動車産業では、アメリカ資本の影響が強かった。1925年大正14年)に日本フォードが設立され、1927年(昭和2年)には日本ゼネラル・モータース(日本GM)も操業開始、大量生産方式によるノックダウン生産で急激に日本市場を席巻した。性能的にもフォードトラックや日本GMのシボレートラックは優秀で、軍用自動車としても熱河作戦などで活躍していた。日本政府も古くは1918年(大正7年)に軍用自動車補助法を制定して国産軍用車の製造促進を図っており、1931年(昭和6年)には商工省が中級トラックバスを対象に「標準車」試作を民間委託した結果、九四式六輪自動貨車のようなそれなりの質の製品は生まれたものの、そもそも商工省標準車はフォードやGMの主力である大衆車との競合は避けた車種であり[2]、製造台数では遠く及ばなかった。むしろアメリカ資本との提携の動きが盛んで、1933年(昭和8年)には日産自動車と日本GMの合併計画が浮上していた。

商工省は、当初は外国系企業との提携による技術導入を支持して陸軍と対立したが、1935年(昭和10年)4月に工務局長へ岸信介・工政課長に小金義照が就任すると態度を一変させた[3]。岸と小金は、総合産業である自動車製造をてこに、産業全体の振興を図る意図だった。岸は、ナチス・ドイツ流の統制経済による産業合理化が有効だと考えていた[4]

1935年(昭和10年)8月9日、岡田啓介内閣は「自動車工業法要綱」を閣議決定、事業許可制の導入や日本フォードの工場拡張阻止といった方針を明確にした[5]。これに対してアメリカ政府は工場所有を含む製造業販売業などについて内国民待遇を保障した日米通商航海条約1条違反であるとの抗議を行ったが、日本側は単なる産業保護政策ではなく国防目的であるので同条約に違反しないと反論した[6]1936年(昭和11年)1月には、日産コンツェルン総帥である鮎川義介個人への圧力など陸軍の強い干渉により、日産自動車と日本GMの合併計画が破棄に追い込まれた[7]

1936年(昭和11年)5月19日に自動車製造事業法案は国会に上程され、10日間のスピード審議を経て5月29日に成立、即日公布された[8]

内容[編集]

自動車製造事業法は、自動車製造事業の許可制を主たる内容とする(3条1項)。そして、許可対象を日本の株式会社に限定し、株主取締役資本金の半数以上、議決権の過半数が大日本帝国臣民か内国法人に属することを要件とした(4条)。これにより、外国企業の新規参入はできなくなった。

また、既存の外国企業の既得権は認められたものの、工場の拡張は許されなかった。日本フォードは法案成立を見越して事前に工場拡張を進めていたが、本法の附則は、自動車工業法要綱閣議決定があった1935年(昭和10年)8月9日までの遡及適用を定めており(附則4項)、フォードの計画はとん挫することになった。この遡及規定を商工大臣の小川郷太郎法の不遡及の原則との関係で「天下の悪法」と評し、法案を承認はしたものの小金義照を左遷している[9]

その他、政府の介入権限や許可会社への5年間の所得税、営業収益税の免除措置(6条)などが規定されている。許可会社には達成するべき年間生産台数が規定され、この数量は施行令によって規定された[10]

法令の形式面では、1条に目的規定が置かれたことが当時としては画期的だった[8]。「本法ハ国防ノ整備及産業ノ発達ヲ期ス為」と国防目的が強調されており、これは前述のように日米通商航海条約との関係で必要な規定であった[6]

影響[編集]

本法により許可会社とされたのは、日産自動車と豊田自動織機自動車部(後のトヨタ自動車工業)の2社で、後に東京自動車工業(後のいすゞ自動車)が加わった。

本法の施行と、日中戦争勃発による円為替相場下落・輸入部品高騰の結果、3年後の1939年(昭和14年)にフォード、GM、クライスラーの3社は日本から撤退することになった[11]。フォードは、許可会社である日産およびトヨタとの合弁会社設立も検討したが、実現しなかった。

しかし、国産車の信頼性向上や大量生産化は容易には達成できなかった。戦場の日本兵には、たとえ中古車であってもフォードやシボレーが歓迎された。本法の制定で工場拡張を妨害されたヘンリー・フォードは、「自動車産業の育成は甘いものではなく、フォード工場を受け入れた方が多数の熟練工が得られて戦時の日本にもプラスになるはずだった」との書簡を残している[12]


関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、58頁。
  2. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、68頁。
  3. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、62-63頁。
  4. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、72-74頁。
  5. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、115頁。
  6. ^ a b NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、148-150頁。
  7. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、91-92頁。
  8. ^ a b NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、172頁。
  9. ^ NHKドキュメント昭和取材班(1986年)、172-173頁。
  10. ^ http://rose.lib.hosei.ac.jp/dspace/bitstream/10114/2169/1/keiei_39(4)_udagawa.pdf
  11. ^ 環境再生保全機構自動車産業の歴史と現状 5.工業化への道のり」(2010年8月23日閲覧)
  12. ^ NHKドキュメント昭和(1986年)、186頁、前川國男の回想。

参考文献[編集]

  • NHKドキュメント昭和取材班 『ドキュメント昭和 3―アメリカ車上陸を阻止せよ』 角川書店、1986年。