芝居絵

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芝居絵(しばいえ) は、江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつである。芝居そのものを描いた浮世絵を指す。歌舞伎絵または劇画ともいう。ここでは、役者絵は別にして、江戸で悪所とされた芝居自体を描いた浮世絵を取り上げる。

歌舞伎の発生した慶長1596年 - 1615年)年間から早くもその舞台や客席の様子を伝える風俗画が描かれているが、元禄1688年 - 1704年)以降、明治の前半頃までの浮世絵において、最も盛んに描かれた。歌舞伎の誕生と浮世絵の発生とは基盤が同じ時期の庶民社会であった。「阿国かぶき」、「若衆かぶき」、「野郎かぶき」を経て、「元禄かぶき」で漸く近世演劇として着実な発展を遂げるが、その交代や変化の有様は屏風絵や浮世絵に如実に、また立体的に描き続けられてきた。楽屋や茶屋までを含めた劇場図から、舞台上の役者の演技の様態、さらには役者の日常生活の様子などを、多くの浮世絵師肉筆浮世絵と版画の両分野で競作している。歌舞伎界の慣習に慣れた鳥居派が絵看板や芝居番付など劇場関係の仕事を終始独占していたが、安永1772年 - 1781年)年間以降になると勝川派や歌川派の絵師が版画の分野で主導権を握っている。

当時の役者は河原ものとして帳外者(にんがいもの)扱いで、歌舞伎が女遊芸人の群れから発生し、とかく異装で華美、風俗上とかく問題を引き起こしがちで有ったし、若衆かぶきも「色子」で売り出して男色問題を生じ、為政者には苦々しい限りであった。しかし、江戸時代を通じ、吉原と同じく金力がある町人には取分け自由で、庶民にとってものびのびと呼吸できる自分たちの世界であった。それゆえに、為政者はまた常に喧しく取り締まり、もしくは禁圧している。その実、大奥女中も武家階級の子女も表面上は蔑みながら、しばしば芝居見物に行ったし、これらの人々の間でも役者絵、芝居絵が取沙汰され、求められてもいた。そのような強烈な魅力のほども、多数の芝居絵によって我々は知ることが出来うる。

特に舞台全体、建築内部の描写は興味深いものであり、ただ、芝居の雰囲気を伝えるのみのものではなかった。例えば、鳥居清経の「中村座 仮名手本忠臣蔵十段目図」は明和2年(1765年)当時の有様で、能舞台の屋根の遺風を残し、凸形の付舞台や、あるいは花道、客席の区分、有様を伝えているが、明和7年(1770年)の歌川豊春の「浄瑠璃神霊矢口渡」では能舞台式の屋根は消えて、今日のような額縁式の舞台となり、花道も2つ平行して架けられている。寛政6年(1794年)から翌年にかけての一時期、東洲斎写楽は役者似顔絵に新風を吹き込んだ。

また歌川国貞の場合、大道具のせり上げそのままを写し、「楽屋の当たり振舞」や「舞台稽古」の実際の様子をも活写している。舞台面では鳥居清長が「出語り図」シリーズで舞台の役者とともに浄瑠璃の太夫、三味線弾きも描いており、勝川春章が描く舞台面の描写は、明治時代の豊原国周の作品に到る間で続き、大道具や舞台装置が描かれている。特に、国周は文明開化には背を向け、明治芝居絵に力を注いでおり、その時代色に無縁ではなかったが、生涯、新時代の芝居絵、役者絵を描き続けた。あるいは、歌川豊国歌川国虎歌川広重渓斎英泉らの錦絵作品によって芝居町の状況、通りに面した芝居小屋の入り口、その賑わいも写されている。このように、宝暦8年(1758年)の廻り舞台の発明を含み、世界演劇史のうちでも、独自で様式的な確立を見た江戸演劇については、その内外ともに写した夥しい芝居絵によって豊富な視覚的資料が与えられている。さらに幕末期には江戸の浮世絵風が地方にも及び、京・大坂の上方役者絵を始め、東北のねぶたや凧絵、土佐の絵金の台提灯絵など、特色のある芝居絵を各地に誕生させている。

また、錦絵以外では、上方の松好斎半兵衛による『劇場楽屋図会』(寛政12年)や勝川春英、歌川豊国の挿絵による式亭三馬の『劇場訓蒙図彙』(享和3年)は、版本として世に出回り、一層具体的に図示して解説的で詳細なものであった。

関連項目[編集]

参考図書[編集]

  • 浮世絵 藤懸静也 雄山閣 1924年
  • 浮世絵の基礎知識 吉田漱 雄山閣、1987年
  • 浮世絵の見方事典 吉田漱 北辰堂、1987年
  • 図説浮世絵入門 稲垣進一編、河出書房新社、1990年