芳賀高継

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芳賀高継
Haga Takatsugu.jpg
芳賀高継(清巌寺蔵)
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永6年(1526年
死没 文禄元年(1592年
改名 高規(初名)→高継
官位 伊賀
主君 宇都宮広綱国綱
氏族 芳賀氏
父母 父:芳賀高経、養父:芳賀高定
兄弟 高照高継那須高資
養兄弟:小貫信高
養子:高武(宇都宮広綱三男)

芳賀 高継(はが たかつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将下野宇都宮氏の家臣。下野国真岡城主。

出自[編集]

芳賀氏清原氏の後裔。下野国の有力武士団・清党の棟梁で益子氏の紀党と共に紀清両党と呼ばれる。

略歴[編集]

天文10年(1541年)、父・芳賀高経が主君・宇都宮尚綱と対立し反乱を起こすも敗死し、兄・高照弘治元年(1555年)、芳賀高定に追い詰められ自害すると、高継は益子氏の下に身を寄せる。その後、高定の養子となり家督を継いだ。

永禄9年(1566年)、主君・宇都宮広綱の名代として軍勢を率いて小田氏治を攻撃する。翌年も広綱の代わりに出陣した。天正4年(1576年)に広綱が没すると子・国綱に仕え、後北条氏と巧みな外交をしながら独立を保ち、その一方で結城氏佐竹氏白河結城氏と手を結んで後北条氏と対抗した。

天正年間((1580年代半ば)に、宇都宮広綱の正室・南呂院らの要望で、国綱の弟・時綱(後の芳賀高武)を養子とし、宇都宮に近い芳賀家の飛山城に移った。天正17年(1589年)には家中の勢力争いから益子氏を攻め滅ぼすが、高継の親北条路線が親佐竹路線を採る主君・国綱と反目し関係が悪化。同年、後北条氏に寝返り北条氏邦らと共に手勢を率いて、多気城(多気山城)を攻撃したが宇都宮氏家臣・多功綱継の活躍によって退却したが[1]復帰を許された。翌天正18年(1590年)には国綱と共に佐竹義宣に小田原への参陣を勧めている[2]

その後、程なくして陸奥国白河に追放され、文禄元年(1592年)に同地で没した。

脚注[編集]

  1. ^ 『史料綜覧』第11編之912 251頁
  2. ^ 『史料綜覧』第11編之912 264頁

出典[編集]

  • 『宇都宮興廃記』
  • 『後陽成天皇紀』