苻融

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苻 融(ふ ゆう、? - 383年)は、五胡十六国時代前秦皇族。前秦建国の筆頭功臣である苻雄の末子であり、第3代君主苻堅の同母弟である。博休諡号哀公

生涯[編集]

苻健・苻生の時代[編集]

幼くして立ち振る舞いは堂々として立派で、既に大人にも劣らぬ学識を有し、体つきも逞しかった。

苻健の時代、安楽王に封じられる事となったが、苻融は上疏してこれを固辞した。苻健は彼をただものではないと深く思って「我が子に『箕山の操(固く節操を守って世俗的な名誉に流されない事)』を成してくれるであろうな」と感嘆し、封爵を取りやめた。

苻健の死後、後を継いだ苻生からもその容貌や振る舞いを愛され、常に傍近くに侍る事となった。この時まだ20歳にも満たなかったが、既に台輔(天子を補佐して百官を統率する事)の地位に至る事を周囲から期待されていた。成長するにつれてその名声はさらに高まり、官民問わず頼みとされる存在となった。

国家の重臣[編集]

357年6月、同母兄の苻堅が天王位に即くと、陽平公に封じられ、散騎常侍に任じられた。文武に才能を有していた事から苻堅からも重んじられ、苻堅は国事については苻融と共に議論したという。

12月、侍中・中書監・左僕射に任じられ、その後すぐに中軍将軍に任じられた。また時期は不明だが司隷校尉にも任じられている。

360年10月、烏桓独孤部鮮卑の没弈干が数万の衆を率いて前秦に降伏した。苻堅はこれを容れ、塞南(万里の長城の南)に住まわせようとしたが、苻融は「匈奴が患いを為すのは、古えからわかっている事です。虜馬どもがこれまで南を狙わなかったのは、我らの威を畏れていたからに過ぎません。今、内地に奴らを住まわせようとしておりますが、これは弱みを見せる事になります。彼らは郡県でその隙を窺い、北辺で害を為す事でしょう。塞外(万里の長城の外側)に移し、荒服の義を保つべきです」と諫めると、苻堅はこれに従った。

370年11月、苻堅が前燕併呑を目論んでへ向けて親征すると、苻融は洛陽の守備を委ねられた。

関東を統治[編集]

372年6月、苻堅は冀州として関東(併合した元の前燕領)を治めていた王猛を長安に呼び戻して丞相に抜擢すると、苻融を使持節・都督六州諸軍事・鎮東大将軍に任じ、王猛に代わって冀州牧に任じた。苻融が出立する際、苻堅は灞東で祖(旅に出るときに道の神に道中の無事を祈る事)を行い、楽賦詩を奏してこれを見送った。また、母の苟夫人は苻融が末子であったので甚だ溺愛しており、出発に際しては三度も灞上へ赴いて別れを惜しみ、出発の日の夕方にもまた密かに苻融の所へと赴いたという。

苻融は冀州において優秀な官吏の選抜と、規律を正す事に努めた。苻融の統治以降、盗賊は息をひそめるようになり、誰も道に落ちている物を拾おうとしなくなった。州郡の疑獄(有罪か無罪か判断のつきにくい事件)については、いずれも苻融が裁決に当たった。彼はその人の顔色や仕草を細かく観察し、実情について正確に判断する事が出来た。また、関東の地を鎮守していたといえども、苻堅は朝廷の大事に関しては、早馬を向かわせてまで苻融と議論を行ったという。

同年、尚書郎房黙・河間相申紹を治中別駕に、清河出身の崔宏を州従事、管記室に任じた。

373年、苻堅はかつての前燕の皇帝慕容暐を尚書に、また皇族である慕容垂京兆尹に、同じく皇族である慕容沖平陽郡太守に任じた。苻融がこの人事を聞くと、上疏して「臣が聞くところによりますと、東胡(鮮卑)は代々長きに渡って燕の地におりましたが、石氏の乱(石虎死後の後趙政権崩壊と冉魏建国)が起こると、遂に華夏(中原)を領有するようになり、その勢力は六州に跨り、南面して称帝しました。陛下は六師に命じて、毎年のように大挙して征討しました。その甲斐があって捕らえる事は出来ましたが、彼らは義を慕って徳を懐かしんで帰化したのではありません。しかし、今その父子兄弟らは官に列して朝廷を満たしており、執権・履職しており、その勢いは古くからの功臣を凌ぐほどになっておりますが、これは陛下が親しくこれを遇しているからに他なりません。臣は愚かではありますが、猛獣を養うべきではないと考えております。狼子の野心は明白です。かつて星に異常があったのは(同年初夏から半年以上にわたって彗星が、コマは尾宿箕宿、尾の伸びる先は井宿の位置に観測されたことを指す)、災が燕より起こる事を予兆していたのです。願わくばこれを天からの戒めと思い、少しでも心に留めていただきたく。臣はこの事を言うべき地(前燕の旧都である鄴)におり、黙っているわけにはまいりません。詩にも『兄弟急難』・『朋友好合』とあります。昔(前漢の)劉向は、肺腑の親(成帝の親しい身内)であることを以て極言することができたといいます。どうしてこの臣にできないでしょうか!」と訴えた。これに苻堅は「汝は徳を為すにも十分でなく、是非を抱いておらず、善を立てても称さず、名は実より過ぎている。詩には『徳輶如毛、民鮮克挙之』とある。君子は高き所に処り、傾敗を戒懼するのが、務めではなかろうか!今、四海の事は広がっており、兆庶(万民)は未だ安んじられていない。黎元(人民)が撫に応じ、夷狄が和に応じ、六合を混ぜて一家となすべきなのだ。そうすれば、夷狄もまた赤子のようであろう。汝はその思いを留め、疑念を抱かぬように。そもそも天道は順を助けるものであり、徳を修めれば災を払えるのだ。苟も自己を省みる事が出来るならば、どうして外患など恐れようか!」と述べ、聞き入れなかった。

379年1月、東晋領の襄陽を攻めていた長楽公苻丕が苦戦していると聞くと、苻堅は自ら軍を率いてこれの救援に向かい、苻融に関東六州の甲卒を与えて寿春で合流させ、梁熙に河西(元の前涼領)の兵を与えて後軍としようと考えた。しかし、苻融はこれを諫めて「陛下が江南を取りたいと思っているならば、固く博謀・熟慮すべきであり、慌ただしく行うべきではありません。もし襄陽を取るだけで止めようとしているならば、どうして親征するに足りましょうか。一城のためだけに天下の衆を動かすなどありえません。いわゆる『随侯之珠、弾千仞之雀(得る事が少なく失う事が多い事の比喩)』という事です」と述べたので、これを取りやめた。

380年4月、幽州を統治していた行唐公苻洛・北海公苻重が反乱を起こし、総勢17万の兵を擁して中山へ進出した。苻堅の命により、左将軍竇衝呂光は4万の兵を率いて長安より出撃し、右将軍都貴は鄴へ急行して冀州軍3万を率いて前鋒となった。苻融は征討大都督に任じられ、これら全軍を統括して討伐の指揮に当たった。また、屯騎校尉石越は騎兵1万を率いて東莱から石陘へ向かい、海上を通って400里彼方にある苻洛の本拠地和龍を攻撃した。軍の総勢は数十万に及んだ。

5月、前秦軍は苻洛と中山において交戦すると、これを大いに打ち破った。これにより苻洛とその側近である将軍蘭殊を捕らえて長安へ送り、逃走を図った苻重を追撃して斬り殺した。石越もまた和龍を攻略し、苻洛の側近100人余りを処断した。これにより幽州は平定された。功績により苻融は車騎大将軍・宗正・録尚書事に任じられた。

苻堅を諫める[編集]

6月、苻融は冀州牧としての役目を終えて長安へ帰還すると、侍中・中書監・都督中外諸軍事・車騎大将軍・司隷校尉・録尚書事に任じられた。

382年3月、前秦の大司農・東海公苻陽(苻法の子)、員外散騎侍郎王皮(王猛の子)、周虓は共に謀反を企てたが、事前に事が露見して捕らえられた。4月、苻融は上疏し、自らが姦萌(反乱の兆し)を止める事が出来ず、宗正の位を汚しているとして、私藩(自らの藩国である陽平郡)にて罪を請うた。苻堅はこれを許さずに逆に司徒に任じたが、苻融はこれを固辞した。

この頃、苻堅は東晋への侵攻に強い意欲を燃やしており、改めて苻融を征南大将軍・開府儀同三司に任じた。

9月、西域より車師前部王弥窴・鄯善王休密馱が前秦へ朝貢してきた。苻堅が彼らと西堂において引見すると、弥窴らは進み出て「大宛の諸国は貢献を通じているといえども、その誠節は純粋なものではありません。そこで、漢が都護を置いた故事に倣う事を請います。もし王師が出関するのであれば嚮導(道案内)となります」と要請し、西域の服従していない国家を討ち、都護を置いて統治するよう勧めた。これを受け、苻堅は驍騎将軍呂光を使持節・都督西域征討諸軍事に任じ、陵江将軍姜飛・軽騎将軍彭晃・将軍杜進・康盛らと共に歩兵10万、精鋭騎兵5千[14]を率いさせ、西域討伐を命じた。しかし、苻融は「西域の地は荒廃しており、遥か遠くにあります。その民を得られても使う事は出来ず、地を得ても耕す事は出来ません。漢武(前漢の武帝)はこれを征しましたが、得るものは損失を補うには至らなかったといいます。今、中国を疎かにして万里の外に軍を出しても、漢氏の過まった挙行を踏むだけです。臣は密かにこれを惜しんでおります」と諫め、征伐の中止を固く求めた。しかし苻堅は「二漢(前漢・後漢)では匈奴を制する事は出来なかったが、それでも西域へと出征した。今、匈奴は既に平らげているから、朽木を壊すように容易い事であろう。軍を遠くに出す事になるといえども、檄を伝えれば平定できるであろう。その化が崑山を被い、その芳を千年に渡って垂らしたならば、何と美ではないか!」と述べ、取り合わなかった。他の朝臣も幾度も諫めたが、いずれも聞き入れられず、383年1月には呂光を長安より出発させ、鄯善王休密馱を使持節・散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍に、車師前部王弥窴を使持節・平西将軍・西域都護に任じ、その国の兵を率いさせて呂光の嚮導(道案内)とした。

10月、苻堅は群臣を太極殿に招集し、会議を開くと「我が大業を継承してから三十年が過ぎたが、汚れた賊どもを刈り取る事で、四方をほぼ平定した。ただ、東南の一隅だけが未だに王化に賓しておらず、我は天下が一つではないことをいつも思い、夕飯をも満足に食べる事が出来ていない。ゆえに今、天下の兵を起こし、これを討たんと考えている。武官・精兵を数えるに97万にも及ぶというから、我自らがその兵を率いて先陣となり、南裔を討伐しようと思うのだ。諸卿らの意見は如何か」と問うた。秘書監朱肜は賛成し天下統一の暁には封禅を行うことを勧めたが、尚書左僕射権翼や太子左衛率石越の反対に遭い、苻堅はこれに真っ向から反論した。他の群臣も各々様々な意見があり、議論は纏まらぬまま長らく続けられたが、遂に苻堅は「これこそいわゆる『道傍築室(多数の人間が好き勝手に意見を言い合えば、小さな小屋すら造るのは難しいという諺)』であり、これを成すに時間が掛かりすぎる。時に万端(多すぎる意見)は計を妨げるという。我は内なる心において決断せん!」と宣言し、会議を終わらせた。

群臣が退出した後、苻堅は苻融一人を留めて議論を続けて「古えより大事においては、策を定めるは一両人で十分だという。今、群議は紛紜してしまっており、徒に人意を乱してしまっている。そこで、我と汝でこれを決めようと思う」と述べた。これを受け、苻融は「歳(木星)がにあり、呉越の福を現しております。伐つべきではない第一の理由がこれです。晋主(孝武帝)は君徳大きく英明であり、朝臣はその命を奉じております。伐つべきではない第二の理由がこれです。我々は幾度も戦い、兵は疲れ、将は倦れており、敵の意気を憚っております。伐つべきではない第三の理由がこれです。諸々の意見には征伐を不可とするものがありましたが、彼らは忠臣であり、これこそ上策であります。願わくば陛下がこの意見を容れます事を」と述べ、征伐に反対した。これを聞いた苻堅は顔つきを厳しくして「汝までそのような事を言うのか。我は天下の事業を誰と預かればよいのだ!今、百万の兵を有し、資杖は山の如くあるのだ。我はまだ令主(徳行を積んだ君主)を称していないといえども、暗劣でもない。連勝の威をもって、垂亡の寇を撃てば、どうして勝てない事があろうか!それにこの賊を子孫の代まで遺しておくのは、宗廟社稷の憂いとなるであろう」と返したが、苻融は涙を流して「呉を撃つべきでないのは明白であります。徒に大挙しても必ずや功なく引き返すだけです。それに、臣が憂えているのはこれだけに留まりません。陛下は鮮卑・羌・羯を寵遇して都城付近に住まわせており、旧人や族類を遠方へと移らせております。今、国を傾けてまで出征すれば、風塵の変が起こりましょう。そうなれば、宗廟はどうなりましょうか!監国(親征時には監国を務めることになる太子の苻宏)に弱卒数万を与えて京師(長安)を守らせても、鮮卑・羌・は林のように衆を集めましょう。そうなれば悔いても及びません。これらは全て国賊であり、我らは仇なのですぞ。臣が恐れますのは、討伐が徒労になる事だけでなく、国内が万全ではない事です。臣の智識は愚浅であり、誠に採用するには足りないでしょう。しかし、王景略(王猛)は当代の奇士であり、陛下はいつも孔明に例えておられました。その臨終の際の言葉(王猛は死ぬ間際、東晋へ出征しないように苻堅へ言い残した)を忘れるべきではありません!」と答えた。だが、 苻堅が聞き入れる事は無かった。

その後も、苻融は尚書申紹・石越らを始めとした朝臣の大半と共に上書し、言葉を尽くして出征を諫め、その回数は数十回にも及んだ。だが、苻堅は「我自らが晋を撃つのだ。その強弱の勢いを比べれば、疾風が枯れ葉を掃くようなものである。それなのに、朝廷の内外ではみな反対する。誠に我の理解出来るところではない!」と憤るのみであり、遂に従う事は無かった。

時に慕容垂・姚萇らはいつも苻堅へ、呉の平定や封禅の事について説いていた。苻堅はますます江南攻略に意欲を燃やすようになり、この事について夜通しで語り合った。

11月、苻融はまたも諫めて「『知足不辱、知止不殆(足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず)』と諺にあります。古より兵を窮め武を極めて、亡ばなかった者はおりません。それに我らが国家はもとより戎狄であり、正統ではありません。江東は微弱といえども僅かに存続しており、中華の正統を天意は必ずや絶やさないでしょう」と述べると、苻堅は「帝王の暦数がどうして常であろうか!それはただ徳がある人物のものにのみ存在するのだ!劉禅は漢の苗裔であったにもかかわらず、最後は魏に滅ぼされる事となった。汝が我に及ばないのはそういう所であり、変化に対応して適応できていないのだ!我は汝に天下の大事を委ねているのに、どうして事あるごとに我に盾突き、大謀を損ねようとするのだ!汝がそのように反対すれば、衆人はなおさらそうなってしまうであろう!」と反論するのみであった。

383年7月、朝臣はみな苻堅の出征を望んでいなかったが、ただ慕容垂・姚萇・良家の子のみがこれに賛成していた。苻融はまたも苻堅へ「陛下は鮮卑(慕容垂)・羌虜(姚萇)の諂諛の言を信用して聞き入れ、良家の少年の利口の説を採用されました。鮮卑・羌虜は我らの仇敵であり、風塵の変を起こしてその凶徳を逞しくすることを常に企んでおり、その述べる所は全て策略であります。どうしてそれに従うべきでしょうか!また、良家の子弟はみな富饒の子弟であり、軍旅の経験もないのに、苟も陛下に媚び諂ってその意見に合わせているだけです。今、陛下はこれを信用し、大事を軽々しく起こそうとしておられます。臣が恐れますのは、功が成らなかった後、しきりに患いが起こる事です。悔いても及びませんぞ!」と諫めたが、苻堅は最後まで聞き入れなかった。

東晋征伐と死[編集]

8月、苻堅は東晋攻略を決行すると、苻融は征伐軍の総大将となり、驃騎将軍張蚝・撫軍将軍苻方・衛軍将軍梁成・平南将軍慕容暐・冠軍将軍慕容垂らを始めとした、步兵騎兵総勢25万を従えて長安より出撃した。その後、苻堅もまた戎卒60万余り、騎兵27万を率いてこれに続いた。

9月、苻融らが率いる兵30万は潁口へ到達し、苻堅もまた項城へ到達した。東晋朝廷は尚書僕射謝石を征虜将軍・征討大都督に、徐兗二州刺史謝玄を前鋒都督に任じて兵8万を与え、輔国将軍謝琰・西中郎将桓伊らと共に迎撃させた。また。龍驤将軍胡彬に水軍5千を与え、寿春を救援させた。

10月、苻融は寿春へ侵攻すると、これを陥落させて東晋の平虜将軍徐元喜・安豊郡太守王先を捕らえた。その後、参軍郭褒を淮南郡太守に任じ、これを守らせた。胡彬は寿春陥落の報を聞き、硤石まで撤退したが、苻融はさらに軍を進めてこれを攻撃した。また、梁成・揚州刺史王顕・弋陽郡太守王詠に5万を与えて洛澗に軍を進ませると、淮に柵を設けさせて敵軍を遮断させた。梁成らは幾度も東晋軍を破り、謝石・謝玄らは洛澗から25里の所まで進軍していたたが、梁成軍の勢いを憚ってこれ以上進めなくなった。胡彬は兵糧が底を突き始めていたが、苻融軍には悟られないように虚勢を示すと共に、密かに使者を謝石の下へ派遣して「今、賊は盛んであり、兵糧も尽きてしまいました。このままでは、恐らく救援の大軍と見える事はないでしょう!」と報告させようとしたが、前秦軍はこれを捕らえて苻融の下へ送った。苻融はすぐさま苻堅へ使者を送って「賊は少なく、捕らえるのは容易でしょう。ただ、逃げ去るのを恐れております。速やかに赴かれるべきです!」と伝えた。苻堅はこの報告を大いに喜び、大軍を項城に留めて軽騎八千のみを率いて密かに寿春へ向かった。

11月、謝玄は龍驤将軍・広陵相劉牢之に精鋭五千を与え、洛澗にある梁成の砦を夜襲した。梁成はこれに大敗を喫して戦死し、揚州刺史王顕をはじめ10将が打ち取られて死者は1万5千を数えた。謝石は梁成の敗北を知ると、水陸から進軍を開始した。苻堅は苻融と共に城壁に登って東晋軍を望み見ると、その厳整とした陣形を目の当たりにした。苻堅は顧みて苻融へ「これは強敵であるぞ。どうしてこれを弱いなどというか!」と述べて憮然とし、始めて東晋軍に恐怖を抱いたという。

同月、張蚝が淝水の南において謝石軍を破ると、謝玄・謝琰は数万の兵をもって張蚝軍の到来を待ち構えたが、張蚝は軍を引いて淝水の近くに陣を布いた。その為、東晋軍は淝水を渡る事が出来なくなったので、苻融の下へ使者を派遣して「君は敵陣深く入り込んでおり、水辺近くに陣を布いている。これは持久の計であり、速戦ではないぞ。もし軍を少し引き、将士に陣を移すよう命じたならば、晋兵は渡河する事が出来、勝負を決する事が出来よう。なんと良い事ではないか!」と持ち掛けた。前秦の諸将はみな「我らは多勢であり、敵は寡勢です。渡河させなければ、何もできません。これこそ万全というべきです」と述べたが、苻堅は「兵を引いて少しだけ退却し、敵が半ばまで渡ったところで我が鉄騎をもって迫り、これを撃破するのだ。これで勝てないわけがなかろう!」と述べた。苻融もまたこの意見に同意し、軍に退却を命じた。こうして前秦軍は誘いに乗って退却を始めたが、突如として朱序は陣の後方より大声を挙げて「秦兵は敗れた!」と叫び回った。これにより、東晋軍が近づいても後退に歯止めが利かなくなってしまい、謝玄・謝琰・桓伊らは兵を率いて渡河を果たすと、苻融軍を攻撃した。苻融は馬を馳せて戦場を駆け回ったが、軍の退却の波に飲まれて馬が転倒したところを東晋兵に殺された。これにより軍は崩壊し、謝玄らは追撃をかけて青岡まで到達した。前秦は記録的な大敗を喫し、混乱により味方に踏み潰された死体が野を覆い川を塞いだ(淝水の戦い)。

12月、苻堅は失意のまま長安に帰還すると、長安東にある行宮に向かい、苻融の死を悼んでから入殿した。また、苻融に大司馬を追贈し、哀公と諡した。

その後、慕容垂・姚萇が相次いで反旗を翻すに及び、苻堅はかつての苻融の諫言を思い起こし、その哀傷はますます深くなったという。

人物[編集]

苻融は聡明にして物事の道理を明確に見極める事が出来、筆をとればすぐさま文章を成す事が出来た。談玄・論道(奥深い道理について議論する事)に至っては、苻堅の寵臣である沙門釈道安といえども及ばないほどであった。耳で聞いた事はすぐさま暗誦し、目に入った物は忘れず、時の人はみな彼を王粲後漢の政治家)に擬えた。かつて『浮図賦』を著したが、その内容は壮麗・清贍であるとされ、世間から重んじられた。高台に登ると詩を賦し、喪に臨むと誄を行い、朱肜・趙整らはその妙速な様(文章の構想を立てるのが速く巧みである事)を褒め称えた。

内外より人材を集め、刑政を整備し、滞りなく文章を進める様は、前秦の名宰相王猛を彷彿とさせたという。最もその才を発揮したのは裁判であり、彼は悪人には決して容赦しなかったので、苻堅より一任される事となった。これらにより、苻堅や朝臣はみな苻融に感服したという。

その体力や勇敢さ、騎射や戈矛の腕は、百人の男にも匹敵すると評され、1軍の将としてはよく謀略を巡らし、士卒を労わってよく施しを行った。その為、征伐に出ると必ず殊功を挙げる事が出来た。

また、親への孝行する様はこの上なく、冀州に赴任していた際はたびたび使者を派遣して母の現況について問うており、それが日に三度に及ぶ事もあった。だが、苻堅はこれを煩わしく思い、月に一度しかこれに返答しなかった。そのため、後に上疏して母の侍養のために長安へ帰還する事を請うた。苻堅は使者を派遣してこれを認めない事を告げ、彼を慰問して諭したという。

逸話[編集]

  • 冀州に赴任していた時、ある老母が道端で強盗に遭い、声を挙げて「盗まれた!」と叫ぶと、通行人が後を追いかけて盗人を捕まえた。だが、その盗人はあの通行人こそが盗人であると言い出した。既に日が暮れようとしていた為、老母もほかの通行人もどちらが犯人かが分からず、二人とも護送されることとなった。苻融はこれを聞くと笑って「これは容易くわかるであろう。二人に並走させ、先に鳳陽門を出た者は盗人では無い」と言った。そして結果が出ると、苻融は普段通りの表情で遅れて出た者に「汝こそが真の盗人であろう。どうして人を誣いたか!」と詰った。苻融が隠匿されている悪事を摘発するのは、みなこのようであった。
  • 京兆人の董豊は3年に渡って遊学した後に郷里へ帰り、その途上で妻の実家で一晩を過ごした。だがその夜、妻が賊に殺されてしまい、妻の兄は董豊が殺したのではないかと疑い、役人に送った。ここで董豊は拷問に耐え切れず、妻を殺したと嘘の自供をしてしまった。苻融はこの件を聞いて疑問を抱き、董豊へ「汝が街道を進んでいた間、何か怪異な出来事や卜筮(占い)はあったかね」と問うと、董豊は「郷里から出発しようとした日の夜、夢を見ました。その中で私は、馬に乗って川を南に渡り、渡り切ると引き返して北に渡り、その後また北から南へと戻りました。しかし、馬が川の途中で止まってしまい、鞭で打っても動かなくなりました。その為、馬の様子を見ようとすると、川の下に二つの太陽が映っておりました。また、馬の左側は白く湿っており、右側は黒く燥いておりました。そこで目が覚めましたが、胸騒ぎが収まらず、不祥ではないかと思いました。その後、郷里へ帰ろうとした夜、また同じような夢を見ました。その為、これを筮者(占い師)に尋ねてみましたところ、その筮者は『獄訟を憂うのだ。三枕を遠ざけるのだ。三沐を避けるのだ』と答えました。その後、家に到着すると、妻は沐浴の準備をしてくれて、枕を用意してくれました。しかし、筮者の言葉を思いだし、いずれも拒絶しました。すると、妻は自ら沐浴し、用意した枕で寝たのです」と答えた。これを聞いた苻融は「我はこれを理解したぞ。『周易』によると、坎とは水であり、離とは馬の事を指すという。夢で馬に乗って南に渡り、北に戻って更に南に戻るとは、坎より離へ至る事を示している。三爻も同じく変じて離をなす。「離」は中女(中年女性)を示し、「坎」は中男(中年男性)を示し、両日(二つの太陽)は二夫の象徴である。また坎は執法吏を指すものでもあり。吏がその夫を詰め、婦人が流血されて死す。坎は二陰一陽、離は二陽一陰であり、易位は互いに受け継いでいる。離下坎上は「既済」であり、文王はこれに遇して牖裏に囚われ、礼を有して生き、礼をなくして死した。馬の左に湿っているというが、湿とは水であり、左に水があって右に馬がある馮の字を指し、両日は昌の字を示す。馮昌という者が殺したのであろう!」と述べた。こうして各地を調査して馮昌を捕らえ、詰問すると、果たして馮昌は犯行を認めて「元々はその妻と共謀して董豊を殺そうと謀っておりました。沐浴させて枕を使わせ、それを目印に董豊を殺害する手はずでしたが、誤って婦人を殺してしまったのです」と言う事であった。
  • 372年8月、苻融は無断で学校を建造した事で役人より弾劾を受けたので、主簿李纂を長安へ派遣してこの件について弁明させようとしたが、李纂は憂懼のあまり道中で亡くなってしまった。その為、苻融は申紹へ「誰を使者とすべきであろうか」と問うと、申紹は「燕の尚書郎高泰は弁舌に優れて度胸を有し、その智謀・見識は深いものがあります。使者とすべきかと」と答えた。以前より、王猛や苻融は幾度も高泰を招いていたが、高泰は一度も従わなかった。しかし、ここに至って苻融が高泰へ「君子とは人の急を救うものだといいます。卿はどうか辞退なされぬよう」と請うと、高泰は遂にこれに応じて長安へ向かった。長安に到着すると、王猛は面会するなり笑って「高子伯は今になって来られたが、どうしてかくも遅かったのか」と問うと、これに高泰は「罪人が来て刑を受けるのに、どうしてその遅速を問いましょう」と答えた。これに王猛は「何を言わんとするのか」と問うと、高泰は「昔、魯の僖公は宮を分けた事をもって称賛を受け、斉の宣王は食糧を振舞った事をもって名声を得たものですが、今、陽平公は斉・魯を追従して学校を開建しておりますが、未だそれについて褒賞を受けたとは聞いておらず、それどころか役人の弾劾を患うところとなっております。明公(王猛)は聖朝を補佐される立場にありながらこのようになさっていては、下吏(自分の事)がどうして罪を逃れることが出来ましょうか!」と訴えた。これに王猛は「我の過ちであったな」と述べた。こうして苻融の疑いは解かれたという。

参考文献[編集]