茂木啓三郎 (初代)

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茂木啓三郎

初代 茂木 啓三郎(しょだい もぎ けいざぶろう、1862年4月2日文久2年3月4日[1] - 1935年昭和10年))は、日本商人醤油商)[2][3]、醤油醸造家実業家。日本醤油社長[1][4]千秋社理事[5]。日本醸造工業相談役[5]。族籍は千葉県平民[1]

人物[編集]

勝海舟

下総国野田(現・千葉県野田市)出身。茂木廣治の長男[1][4][6]、あるいは二代茂木房五郎の長男[7]。啓三郎は父が逝去の際いまだ幼少であったのでその姉に婿養子を迎え、房五郎家の相続人としたため自然廃嫡の姿となった[8]。分家して一家を創立した[1]

東京に出たが勝海舟に「帰って家道に励め」と言われ野田へ帰った[8]。家長房五郎の業を助けるため他の雇人と肩を並べ好んで労働に従事し、骨身を惜しまず甲斐甲斐しく立ち働いた[8]

しかし啓三郎は労働のみの人ではなかった[8]。多年実地に就いて得た所の経験に加え学理を応用して種々の発明改良を計った[8]。醤油醸造業を営んだ[4]

また銀行会社の重役であり、日本醤油社長、日華生命保険、野田醤油各取締役野田商誘銀行、千葉県農工銀行、日清製粉、総武鉄道、北総鉄道正田醤油監査役等をつとめた[1][2][3][5][9]。千葉県在籍[9]

家族・親族[編集]

茂木家

千葉県東葛飾郡野田町[5]

  • 父・廣治[1][4]、あるいは二代房五郎
  • [8]
  • 妻・さだ茨城、村田文太郎の妹)[4][5]
1877年 -
  • 養子
1899年 - 1993年
初代啓三郎は千葉県海上郡富浦村(現・旭市)の飯田家次男勝次を養嗣子に迎え、二代啓三郎とした[7]
  • とき(茂木啓三郎の妻、茂木房五郎の妹[5]、茂木房五郎の二女[4][6]
1903年 -
親戚

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第4版』も1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月14日閲覧。
  2. ^ a b 『人事興信録 第7版』も1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月14日閲覧。
  3. ^ a b 『人事興信録 第6版』も1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月14日閲覧。
  4. ^ a b c d e f 『人事興信録 第5版』も1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年4月2日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第10版 下』モ1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月14日閲覧。
  6. ^ a b 『大正人名辞典』2171頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月14日閲覧。
  7. ^ a b 『日本財閥経営史 地方財閥』60-73頁。
  8. ^ a b c d e f 『天才乎人才乎 現代実業家月旦』255-259頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月17日閲覧。
  9. ^ a b 『人事興信録 第9版』モ1頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年2月14日閲覧。

参考文献[編集]

  • 渡辺慎治編『天才乎人才乎 現代実業家月旦』東京堂、1908年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 東洋新報社編『大正人名辞典』東洋新報社、1917年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版 下』人事興信所、1934年。
  • 森川英正『日本財閥経営史 地方財閥』日本経済新聞社、1985年。
  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。

関連項目[編集]