草刈衡継

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草苅衡継
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年6月12日1569年7月25日
別名 草苅平継
通称:三郎左衛門尉
官位 従五位下加賀守
主君 毛利元就
氏族 藤原北家秀郷流宇都宮氏庶流 草苅氏
父母 父:草苅景継、母:三吉豊高の娘
正室:黒岩吉弘の娘
継室:山名兵庫頭の娘
景継重継、重久、女(三吉隆勝室)、女(草苅盛雅室)、女(小瀬広勝室)

草苅 衡継(くさかり ひらつぐ)は、戦国時代武将。草苅氏は因幡国の淀山城を本拠とする国人で、衡継の代に美作国へ移り住んだ。山名氏毛利氏に属する。父は草刈景継 (伊賀守)、子に景継重継

生涯[編集]

因幡国の国人・草刈景継(伊賀守)の子として生まれる。

享禄2年(1529年)に父・景継が死去し、家督を継ぐ。山名氏に属して出雲国尼子経久と度々戦い、山名氏の旧領である因幡国の気多郡岩井郡を取り返した。

天文元年(1532年)、備前国浦上村宗宗景父子と戦って美作国東北条郡西北条郡を切り取り、天文2年(1533年)に美作国東北条郡に矢筈城(高山城)を築き移り住んだ。[1]天文5年(1536年)には美作国の英田郡吉野郡を勢力下に置いた。

草苅氏は父祖以来山名氏に属し、衡継も多くの武功を挙げてきたが、それらの功がかえって警戒を招き、遂には衡継を討とうとするに至った。ここに至って衡継は山名氏から離反。山名氏と戦って因幡国の八束郡岩井郡を勢力下に置いたが、後に将軍足利義輝の調停により、衡継は山名氏と和睦した。

天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけての大内義隆出雲攻めを契機として、衡継は毛利元就に属するようになり、天文13年(1544年1月10日に衡継は従五位下に叙せられた[注 1]

その後、浦上氏家臣の宇喜多直家と度々戦い、天文23年(1554年)には美作国の大庭郡真島郡を勢力下に置く。

永禄2年(1559年)に嫡男の景継へ家督を譲って隠居し、永禄12年(1569年6月12日に死去した。


脚注[編集]

出典[編集]

注釈[編集]

  1. ^ この時の口宣案上卿中納言・日野資定、奉者は蔵人左中弁近江権介藤原国光

参考文献[編集]