荒野の誘惑

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荒野の誘惑(あらののゆうわく)はキリスト教聖書正典である新約聖書に書かれているエピソードの1つ。キリスト教教理において重要な役割を果たしており、キリスト教文化圏の芸術作品の中で繰り返し用いられるモチーフでもある。

洗礼者ヨハネから洗礼を受けた後、イエスは霊によって荒れ野に送り出され、そこに40日間留まり、悪魔(サタン)の誘惑を受けた。マルコによる福音書(1:12,13)、マタイによる福音書(4:1-11)、ルカによる福音書(4:1-13)の福音書に記述がある。以下は、口語訳聖書のルカ伝によるもの。

悪魔の誘惑[編集]

さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた — ルカによる福音書4章1節と2節(口語訳)
  • 悪魔の誘惑をイエスが受けた場所は明記されていないが、誘惑の山と呼ばれるヨルダン川西岸地区のエリコの11km西郊外にある山(海抜366m)とする伝承がある[1][2][3]
  • 悪魔から試みられるためというのは、新共同訳では誘惑、日本聖書協会協同訳、新改訳第3版、新改訳2017、岩波訳はいずれも試みを受けるためと訳している。試みられるという言葉のギリシャ語はἀνήχθη(anēchthē)であり、7節のἐκπειράσεις(ekpeiraseis)は同じ動詞で試みるということを意味する。また、悪魔はδιαβόλου(diabolou)という単語であり、中傷する者という意味がある。サタンはヘブライ語でשָׂטָןであり、告発する者という意味がある。[4][5][6] イエスは御霊によって荒野に導かれたのであり、あくまでこれらの試みは神の意志によってなされたことである。カルヴァンはイエスが全人類の代表としてサタンから試みを受けたのであり、ヘブライ人への手紙4章15節にあるようにイエスが罪のない者でありながら試練を受けたということであるとしている。[7]
  • イスラエルの民も40年間の出エジプトにおいてその信仰が試みられたと言える。そこでイスラエルは終始神に忠実に生きるということができず、不信仰な悪い心を抱いて生ける神に反抗した。ヘブライ人への手紙の著者はこのイスラエルの民の反抗を警告として受けとり、旧約聖書の歴史を心に留めて歩むことが必要なのである。 また、イスラエルの民は神の意志を完全に実現することはできなかったが、決して現代の教会もそれをなすことはできていない。ヘブライ人への手紙4章1節にあるようにそれでも神の安息に入る約束は存続し続けるのである。 イエスは試みを受け、そのすべてに打ち勝った。イエスは試みを受けた者として人間たちの弱さに同情されているのであり、人間たちは恵みの御座に近づくことが許されているのである。[8]
    この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試練に会われたのである。 — ヘブル人への手紙4:15(口語訳)

第一の誘惑[編集]

そこで悪魔が言った、「もしあなたが神の子であるなら、この石に、パンになれと命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。 — ルカによる福音書4章3節と4節(口語訳)
  • イエスは旧約聖書から引用して悪魔に答えた。ここで引用した聖句は申命記の8章3節と思われる[9]。40日間断食したというのは出エジプト記における荒れ野の40年を表していると考えられる。イスラエルの民は出エジプトの時に神を疑い、十分に信頼しなかったが、それでも神は不信の民をマナによって養った。イエスが申命記8章3節を引用しつつ反論するのはそのような神に対する完全な信頼があることを示す。 [10][11]

第二の誘惑[編集]

それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」 — ルカによる福音書4章5節から8節(口語訳)
  • 悪魔がすべての国々を任されているというのは、ヨハネの第一の手紙の5章19節にも類似した記述がある[12]
  • ひざまずくだけで国々全部あげると悪魔自身が語っている事から、悪魔は国々全部よりも自分が崇拝される事を願っている事が分かる。神ではないものを拝むということは偶像崇拝に等しい。この箇所は福音書の読者にとってはコリントの信徒への手紙一10章19-20節にあるようにローマの偶像崇拝による背教が念頭にあったと考えられる。ヨセフスはユダヤの総督ピラトスがカイサルの胸像をエルサレムに持ち込んだことに対してユダヤ人が抗議したことに関して記述している。ピラトスは胸像の撤去はカイサルへの侮辱と考えたためローマ軍によりユダヤ人達を包囲し、騒ぎを中止して家に引き上げなければ命はないと脅迫したが、ユダヤ人たちは身を投げ首を差し出して、律法の賢明なる教えを犯すくらいなら喜んで死を迎えると宣言した。それを受けてピラトスは像をエルサレムから撤去した。[11][13]
    また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。 — ヨハネの第一の手紙5章19節(口語訳)
    すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像はなにかほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。 — コリント人への第一の手紙10章19-20節(口語訳)


第三の誘惑[編集]

それから悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、ここから下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために、御使たちに命じてあなたを守らせるであろう』とあり、また、『あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』とも書いてあります」。 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』と言われている」。悪魔はあらゆる試みをしつくして、一時イエスを離れた。それからイエスは御霊の力に満ちあふれてガリラヤへ帰られると、そのうわさがその地方全体にひろまった。 — ルカによる福音書4章9節から14節(口語訳)
  • 悪魔は詩篇91篇11-12節を引用しつつ主を試すように誘惑する。それに対してイエスは申命記6章16節を引用しつつその誘惑をはねつける。ここでイエスが飛び降りることをせず主を試みてはならないというのは当然信頼がないからではない。主への完全な信頼があることは第一の誘惑で石をパンに変えることをしなかったことによって証明されている。また、深淵に飛び降りることはマタイ26-27章で十字架にかかることによってなされることなのである。[11]
    あなたがたがマッサでしたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。 — 申命記6章16節(口語訳)
    これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。彼らはその手で、あなたをささえ、石に足を打ちつけることのないようにする。 — 詩篇91篇11節から12節(口語訳)


メシアへの期待[編集]

ラビは、メシアがエルサレム神殿の屋根に立つことを期待した。[14]

批評[編集]

トマス・ホッブズジョン・ロック など、批評家によると「荒野の誘惑」は 寓話と解釈されている。橋本はQ資料においてイエスのメシア意識についての自己検討や内的な葛藤が物語化され、イエス伝伝承に組み込まれたとする。[10]

美術[編集]

ドゥッチョの祭壇画や、ボッティチェリシスティーナ礼拝堂の壁画が有名である。近代ロシア美術では『曠野のイイスス・ハリストス』がイワン・クラムスコイの代表作の一つとなっている。

脚注[編集]

  1. ^ 誘惑の山
  2. ^ 『地球の歩き方 E 05、イスラエル 2013~2014』(ダイヤモンド・ビッグ社)
  3. ^ "Israel & the Palestinian Territories" (Lonely Planet Publications, 2012)
  4. ^ 田川建三『新約聖書 訳と註 第一巻 マルコ福音書/マタイ福音書』作品社、2008年、535-541頁。ISBN 978-4-86182-135-6。
  5. ^ Joseph Thayer. Thayer's Greek-English Lexicon of the New Testament: Coded With the Numbering System from Stron's Exhausive Concordance of the Bible. Hendrickson Pub. ISBN 978-1565632097. 
  6. ^ The Brown-Driver-Briggs Hebrew and English Lexicon: With an Appendix Containing the Biblical Aramaic : Coded With the Numbering System from Strong's Exhaustive Concordance of the Bible. Hendrickson Pub. ISBN 978-1565632066. 
  7. ^ John Calvin. John Calvin Commentary on a Harmony of the Evangelists, Matthew, Mark, and Luke. 1. p. 184-195. https://calvin.edu/centers-institutes/meeter-center/files/john-calvins-works-in-english/Commentary%20031%20-%20Harmony%20of%20the%20Evangelists-Matthew-Mark-Luke%20Vol.%201.pdf. 
  8. ^ T.G.ロング『ヘブライ人への手紙 (現代聖書注解)』笠原義久訳、日本基督教団出版局、2002年、119-131頁。ISBN 978-4818404441。
  9. ^ 人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記(口語訳)#8:3後半)
  10. ^ a b 松永 希久夫,眞山 光彌,三好 迪,山岡 健『新共同訳新約聖書注解1マタイによる福音書-使徒言行録』日本基督教団出版局、1991年。ISBN 978-4818400818。
  11. ^ a b c D.R.A.Hare『マタイによる福音書 (現代聖書注解)』塚本恵訳、日本基督教団出版局、2006年、58-64頁。ISBN 978-4818402539。
  12. ^ また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。(ヨハネの第一の手紙(口語訳)#5:19
  13. ^ フラウィウス・ヨセフス『ユダヤ古代誌6』秦剛平訳、筑摩書房、2000年、31-32頁。ISBN 978-4-480-08536-8。
  14. ^ "Our Rabbis related that in the hour when the Messiah shall be revealed he shall come and stand on the roof of the temple." Pesikta Rabbati 62 c-d Rivka Ulmer, A Synoptic Edition of Pesiqta Rabbati Based upon All Extant Manuscripts and the Editio Princeps. South Florida Studies in the History of Judaism 155, 1995

関連項目[編集]