落合博満

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落合 博満
Hiromitsu Ochiai.jpg
中日監督時代(2007年)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市
生年月日 (1953-12-09) 1953年12月9日(67歳)[1]
身長
体重
178[1] cm
82[1] kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手三塁手二塁手
プロ入り 1978年[1] ドラフト3位[1]
初出場 1979年5月29日
最終出場 1998年10月7日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督歴
  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2011)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 2011年
選出方法 競技者表彰

落合 博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日 - )は、秋田県南秋田郡若美町(現:男鹿市)出身[2]の元プロ野球選手内野手、右投右打[1])・監督野球解説者。血液型はO型[3]

選手時代は1979年から1998年にかけてロッテオリオンズ中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ(巨人)・日本ハムファイターズの計4球団に在籍した。ロッテ時代には史上4人目かつ日本プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した。また20世紀最後・昭和最後の三冠王達成者でもある。

2004年から2011年まで中日の監督を務め、全ての年でAクラス入りを果たし、4度のリーグ優勝・1度の日本シリーズ優勝を達成している。

2013年シーズンオフから2017年1月までは中日のゼネラルマネージャーを務めた。

経歴[編集]

プロ入り前[編集]

7人兄弟の末っ子として生まれる。長嶋茂雄に憧れて野球を始めた。若美町の後輩(1学年下)には船木千代美がいる(後にTDKの監督として都市対抗野球で東北勢の初の優勝を果たす)。

1969年秋田県立秋田工業高等学校建築科に進学[4]体罰をよしとする体育会系の風習が嫌いで、甲子園常連校ではなく無名の秋田工業を選択したが、予想に反して先輩による理不尽なしごきがあり、耐えかねて野球部を退部。野球部に在籍していた時期も、野球をしている時間よりも映画館にいる時間の方が長かったが、投打共に落合ほどの実力を持った選手がいなかったため、試合が近づくと部員たちに説得され、復帰した。落合はほとんど練習をせずに、4番として試合に出場していた。高校時代は退部と復帰を通算7回繰り返している。野球の名門校ではないため野球選手のOBが少ないが、高校の後輩の川邉忠義とはそれぞれFA制度による移籍の影響で、巨人・日本ハムでチームメートになっている。

1972年東洋大学に進学[4]。しかし、ここでも先輩がタバコを手にしたら後輩がそれに素早く火をつけるなどといった体育会系の慣習に納得出来ず、故障もしたことで、わずか半年で野球部を退部して大学も中退し帰郷した。その後、ボウリング場でのアルバイトをきっかけにボウリングに目覚め、プロボウラーを志したが、これも挫折した。

1974年、母校を訪ねた際に才能を惜しんだ高校時代の恩師の勧めもあって、東京芝浦電気府中工場臨時工として入社した[4]。同工場の社会人野球チーム・東芝府中に加入し、在籍5年間の公式戦で約70本塁打を放つなど頭角を現す。1976年には一塁手、4番として東芝府中を創部23年目で初の都市対抗出場に導く。1回戦ではデュプロを降し初勝利を挙げ、2回戦では日本通運から補強された村上之宏が先発するが、愛媛相互銀行に完封を喫し敗退した[5]。翌年以降も、都市対抗に日本通運・電電東京の補強選手として3年連続出場し、1978年には、木田勇森繁和らとともに第25回アマチュア野球世界選手権日本代表に選出された[4]。この頃の落合は、日中はトランジスタラジオの基板を組み立て、夕方から野球の練習をするという生活を送っていた[6]

1977年、24歳の時に阪神タイガースからドラフト会議で指名する意向を伝えられたことがあったが(スカウトは田丸仁)、同年は指名されなかった[7]。翌1978年のプロドラフト会議でロッテに3位指名されて入団した。落合をスカウトした城之内邦雄によると、指名理由は「変化球に強く、投手が苦手とするタイプの打者」という一点のみだった(城之内は投手としての視点から、落合の資質を見抜いていた[8])。なお、巨人は落合を2位で指名する予定であったが、江川事件により同会議に参加しなかったため、この指名は実現しなかった[4]

現役時代[編集]

ロッテ時代[編集]

1979年、プロ入り当時の監督・山内一弘はレベルスイングの本尊といえる人物でもあり、アッパースイングだった落合のバッティングフォームの矯正に取り掛かった。「ホースで水を撒く感じで打て」などのアドバイスを貰ったものの、落合自身は後年「当時の自分には山内さんの高度な打撃理論が理解できなかった」と述べている通り、山内から教わった打法ではボールが前に飛ばない状況であったという。チームメイトのベテラン捕手土肥健二の、手首を使ってボールをはじき返す「神主打法」のフォームを真似し[9]、我流のフォーム改造を狙った[注 1]。土肥や得津高宏などの先輩選手を参考に、自身のバッティングを作り上げていった[9]

1980年、5試合連続本塁打イースタン・リーグ記録を作って前期終盤には一軍昇格し、後期は井上洋一に代わり二塁手の定位置を得て54試合に先発出場した。シーズン終盤には三塁手に回り、同年は15本塁打を放つ。近鉄バファローズとのプレーオフにも出場した。

1981年は、開幕から先発として起用され、6月末には4番に起用された。オールスターゲームに初出場し、シーズンでも初めて規定打席に到達し、打率.326で首位打者のタイトルを獲得した。有藤通世レオン・リーレロン・リーらとクリーンナップを形成し、日本ハムとのプレーオフでは第4戦で本塁打を放った。

1982年、28歳で三冠王を獲得したが、これは史上最年少記録となった。シーズンオフには年俸5,400万円+タイトル料600万円で契約更改した[10]

1983年一塁手に定着。打率.332を残し、3年連続首位打者を獲得したが、球団初の最下位に終わった。

1984年には有藤道世外野手に回り、その後継として三塁手に起用される。

1985年、打率.367、本塁打52、打点146の成績で2度目の三冠王を獲得した。打率.367は当時の右打者歴代最高打率記録、52本塁打は当時のパ・リーグタイ記録、146打点は現在もパ・リーグ記録である。またこの年は日本記録となる得点圏打率.492(122打数60安打16本塁打98打点)を記録した[11]。また、シーズン52本塁打は1963年に記録した野村克也と並んで2020年現在で日本出身で日本国籍の選手における最多タイ記録である。

1986年、シーズン中盤までブーマー・ウェルズ秋山幸二らとタイトル争いを繰り広げ、最終的に2年連続で3度目の三冠王を達成した(打率.360、本塁打50、打点116)。2年連続の三冠王は日本プロ野球界において王貞治(1973年 - 1974年)、ランディ・バース(1985年 - 1986年)、落合の3選手のみで、通算3度獲得は落合のみである。また2年連続50本塁打はプロ野球史上初だった。10月8日の西武戦で小林晋三塁塁審の胸を2、3回突き自身初の退場処分となった[12]

シーズン終了後、理解者であった稲尾和久が成績不振で監督を解任されると、落合は「稲尾さんのいないロッテに自分はいる必要がない」と発言した[13]。落合の著書によると「稲尾の後任である有藤道世が、監督を引き受ける条件の一つに私(落合)をトレードで出すのが条件」としたと記している[14]

牛島和彦上川誠二平沼定晴桑田茂の4選手との交換トレードで、中日に移籍し[13]、年俸9700万円から1億3000万円にアップして日本人初の年俸1億円プレーヤーとなった[15]

中日時代[編集]

1987年は、篠塚利夫正田耕三らと首位打者争いを繰り広げ、首位と2厘差のリーグ3位の打率.331を記録した[16]

1988年は、32本塁打95打点(共にリーグ2位)勝利打点19、出塁率と長打率共にリーグ1位を記録するなどチームの優勝に貢献したが、打率は.293とレギュラー定着以降初めて3割を割った。6月1日から8月2日までは3番で、4番はゲーリー・レーシッチだった。西武との日本シリーズで西武の投手陣に打点0に抑えられ、1勝4敗で敗退した。

1989年は打率.321、本塁打40、116打点の成績を残して打点王を獲得したが、両リーグ打点王は史上初だった。セシル・フィルダーラリー・パリッシュらと本塁打王争いとなったが、2本差でパリッシュに奪われた。8月12日の巨人戦(ナゴヤ球場)では、9回1死までノーヒットノーランを続けていた斎藤雅樹から、逆転サヨナラ3ラン本塁打を放っている。シーズン終了後、契約更改後の記者会見で「165(いちろくご)」と、年俸1億6,500万円で更改したことを公言している[17]

1990年シーズンは、前年に引き続きパリッシュとの本塁打王争いを繰り広げた。5月8日阪神戦では、王貞治の1,270試合を超える、1,257試合目の史上最速で通算350本塁打に達すると[18]、パリッシュが8月に28本塁打を放ったところで阪神を退団したため、結果的に落合が追い抜いて34本塁打・102打点で本塁打王と打点王を獲得した。両リーグ本塁打王は史上初だった。また、最高出塁率も獲得し、セ・リーグ移籍後初となるタイトル三冠を手中にした。この年のオールスターゲーム第2戦(平和台球場)では、鳴り物入りでプロ入りし快進撃を続けていた近鉄の野茂英雄が投じた高めのストレートを狙い打ち、本塁打を放った。

1991年2月、契約更改で合意せず、落合は日本人選手として初めて年俸調停を申請した。落合希望額は3億円→2億8,000万円、球団提示額2億2,000万円だったが、調停の結果、3月8日に2億2,000万円で合意した[19]。同年シーズンは前半戦に肉離れを起こし、打撃三部門のトップに立った時点で1ヶ月程戦線を離脱した。打率.340、本塁打37、打点91で本塁打王を獲得したが、打率は古田敦也に3毛差(古田.3398、落合.3395)[20]、打点は広沢克己に8打点差で及ばず、それぞれリーグ2位だった。古田のいるヤクルトとの最終戦では勝負を避けられ、1試合6四球の日本記録を作った。オフに年俸3億円で契約更改した[21]

1992年、プロ野球選手会を脱退。22本塁打71打点の成績で、1984年以来の獲得タイトルなしに終わり、球団12年ぶり、自身2度目の最下位に終わった。

1993年5月7日の横浜戦で、史上初の両リーグ200本塁打を達成。同年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント(FA)制度を行使してFA宣言し、巨人に移籍した[22][23]

巨人時代[編集]

落合が在籍した1994年 - 1996年の3年間、長嶋茂雄率いるチームの2度(1994年、1996年)のリーグ優勝に、4番として貢献した。

1994年は左脇腹や左手手首に死球を受けて不調に苦しみながら、10.8決戦今中慎二から先制ホームランを放って優勝に貢献した[24]。しかし、同試合3回裏守備中に左内転筋を傷め[25]日本シリーズでは第3試合に指名打者として出場したのみである。1994年が現役時代での唯一の日本一となった。

1995年のシーズンは首位打者争いを繰り広げ、最終的にシーズン打率.311(リーグ4位)を残し、17本塁打、65打点を記録した。同年4月に通算2,000安打を達成したが、名球会入りを辞退している[26]。41歳4か月での通算2000安打達成は、新井宏昌の40歳2か月を抜き、当時の史上最年長記録となった(その後、2012年5月に宮本慎也が41歳5か月で記録して更新している)。

1996年、史上7人目の通算500本塁打、史上7人目の通算1,500打点を達成。8月31日の中日戦で野口茂樹から死球を受け、左手首を骨折し戦線離脱し(「ちょうどいい場面だよな。 俺の前に松井が凡退して、あとは俺に打たれなきゃいいわけだから、ぶつけにくることもあるなと想定して打席に入ったんだよ。だから心持ち後ろに立ったんだ。 でも、まさか本当に当たるとは思っていなかった。 もうちょっと慎重になっていれば良かったな、と後で思った。そうすればぶつかっていなかった」 「打ちにいったんじゃないよ。 打ちにいって(多少でも踏み込んで)いたら、頭か顔に当たっているんだ。(頭に当たって)蝶々が飛ぶより、指を1本折る方がずっとましでしょ」)[27]、以降の試合は棒に振ったが、オリックスとの日本シリーズでは復帰し、第1戦で3安打を放ち気を吐いた。シーズンでは打率.301、21本塁打、86打点の成績を残したが、巨人史上で、43歳になるシーズンで4番を務めた野手は落合以降出ておらず、現在も球団最年長記録である。打撃成績においても、43歳での打率3割達成、OPS9割越えも史上最年長記録であるほか、42歳での打率3割達成も歴代で落合のみである。

同年オフ、清原和博が自身と同じ一塁手として巨人に入団したことから、球団に自由契約を申し出た[28][29][30]。退団会見は落合と信子夫人のほか、渡辺恒雄オーナー、長嶋茂雄監督同席のもとで行われる、退団選手の会見としては異例なものであり、落合は「(子供の頃からファンで敬愛する)長嶋監督が、(自分か清原かどちらを起用するか)悩む姿を見たくなかった」とコメントしている[31][32]

日本ハム時代[編集]

1996年オフ、巨人と同じく東京に本拠地を置いていたヤクルトと日本ハム(当時は巨人と同じ東京ドームを使用していた)から獲得オファーがあったが、年俸3億円の2年契約を提示した日本ハムに移籍した。最初は背番号6を希望したが、チーム生え抜きの主力選手だった田中幸雄がつけていたため、空き番だった3を選択した。

1997年、5月17日時点で打率.339まで上昇する活躍を見せるも、6月に入ってからは年齢的な衰えと疲労が重なり、8月22日のオリックス21回戦の1回の裏に大島公一の打球を捕った際に左手を負傷し、左第四指末関節骨を脱臼した。二軍落ちはしなかったものの、この試合以降の先発出場は8試合だけで、打率は.260台まで降下。大杉勝男に次ぐプロ野球史上二人目の両リーグ1,000安打を達成し、9月14日の近鉄戦では小池秀郎のノーヒットノーランを阻止する左翼線への二塁打を放つなどの活躍も見せたが、打率.262、本塁打3、打点43で終わった。過去最低の成績に終わったが、44歳になる年での規定打席到達は2020年シーズン終了時点でも日本プロ野球史上最年長記録である。オールスターゲームにも出場したが、落合にとって現役最後のオールスターゲームとなった。

現役最終年となった1998年は、前年の屈辱を晴らすべく、それまで素手で握っていたバットを、バッティンググローブ着用に変えたり、デーゲームの多いパ・リーグに対応するためにサングラスを着用するといった改善を行い、オープン戦では、若手のホープとして期待されていた西浦克拓と4番争いとなった。落合が開幕4番を勝ち取り、開幕から安打を記録4月下旬頃までは打率.300をキープしていたが、打率が.300を切った時点で、監督の上田利治は落合の打順を下位に降格させ、西浦が4番に就いた。

同年の日本ハムは開幕から勝ち続け「ビッグバン打線」が爆発し首位を走ったが、落合の出場機会も減少し、後半戦ベンチを温める機会が多くなっていた。9月以降のチームは負傷者が続出するなどして急失速し、西武・ダイエー・近鉄(いずれも当時)を含めた4チームが犇めき合うこととなり、最終的には西武が優勝を決めた。

シーズン最終戦となった10月7日のロッテ戦(ダブルヘッダー第2戦)での代打出場が、現役最終打席となった(対戦相手は黒木知宏。結果は一塁ゴロ)。落合は当日、上田監督から先発出場を打診されたが断り、自らプロ入り初打席と同じ代打での最後の出場を選び、現役を引退した。

引退後[編集]

引退後は野球解説者として活動し、1999年から2001年まではテレビ朝日野球解説者を務めた(キャッチコピーオレ流解説)。

テレビ朝日との専属解消後はフリーとして[33] 、テレビ朝日時代から通っていた九州朝日放送(KBC)の中継に度々出演していた。また、1999年から2003年の間、日刊スポーツ野球評論家としても活動した。

2001年2月、横浜ベイスターズのキャンプで臨時打撃コーチを務めた。

中日監督時代[編集]

2003年10月8日、中日の監督に就任することが発表された(3年契約)[34]。就任早々、16人の選手の背番号を変更し、ユニフォームのデザインを中日伝統のロサンゼルス・ドジャース型のデザインから変更した。このユニフォームは退任する2011年まで使用された。

「この1年は補強を凍結し、個々の選手の能力を10%底上げして日本一を獲る」と、トレードなどの補強を凍結することを公言し、引退試合後巨人内部でのゴタゴタに巻き込まれ現役続行を決意した川相昌弘、横浜を解雇されたドミンゴ・グスマン広島を戦力外となっていた筒井正也しか獲得しなかった。また、キャンプ初日に紅白戦を実施する、異例の采配スタートとなった。

2004年、宣言通り就任初年度にしてリーグ優勝を達成した。開幕戦では3年間一軍登板のなかった川崎憲次郎を開幕投手に起用し、川崎は5失点で降板するも逆転勝ちした。エースの川上憲伸を3戦目に先発させ3連敗のリスクを避けると同時に、川崎の開幕起用で「全選手横一線」と選手に刺激を与えること、FAで中日に加入しながら一度も登板していない川崎に最後のチャンスを与えること、先発投手についての情報の漏洩がないかを確かめることが目的だったと、退任後語っている(「外部に漏らしそうなコーチには伝えていなかった」としている)。また、投手起用については投手コーチの森繁和がリリーフを含めて全て決めていたが、この川崎の開幕起用のみは落合が決めた[35]。落合が森に対し、川崎の開幕起用を提案したところ「長いシーズンでは負けてもいい試合がいくつかあるが、開幕戦からいきなり捨てゲームを作るのか」と呆れられたという。また、守備面においてはアライバコンビを使い続け、落合もこのコンビを重宝していた。日本シリーズでは、先に3勝しながらも3勝4敗で敗れ、日本一にはとどかなかった。

2005年、主砲のタイロン・ウッズ藤井秀悟に対する殴打事件による出場停止や、交流戦における負け越しにより失速し、2位に終わる。

2006年、監督として2度目のリーグ優勝を達成。普段はベンチに腰をかけて表情一つ変えない落合が、巨人との優勝決定戦でウッズが満塁本塁打を放つと泣きながら抱きついて出迎え、試合終了後の優勝監督インタビューでも冒頭で言葉が出ないほど感極まっていた。日本ハムとの日本シリーズでは1勝4敗で敗れまたも日本一ならず。オフに球団と新たに2年契約を結んだ。

2007年、ペナントレースでは連覇を逃し2位。セリーグでは同年から導入されたクライマックスシリーズで阪神に2連勝、巨人に3連勝と勝ち進み、日本シリーズに出場した。日本ハムと戦い4勝1敗で日本一を奪取したが、中日球団として53年ぶり2度目の日本一であり、更にその後行われたアジアシリーズでもチームをアジアチャンピオンに導いた。これらの功績が認められ、自身にとって、また中日の監督・選手として初となる正力松太郎賞を受賞した。

アジアチャンピオンに輝き、選手達に胴上げされる落合博満(2007年11月11日・東京ドーム)

2008年は3位に終わる。監督就任5年目で順位・勝利数・勝率のいずれもワーストだった。主力の不振や衰え、福留孝介メジャー移籍や、北京五輪で5人の主力選手が抜けたことで打撃力がリーグワーストの成績に陥ったことが響いた。クライマックスシリーズ2ndステージでは、巨人に1勝したのみに終わり敗退。オフに球団と新たに3年契約を結んだ。

2009年は2位に終わる。クライマックスシリーズ2ndステージでも、巨人に1勝したのみに終わり敗退した。川上、タイロン・ウッズ、中村紀洋がチームを去り、谷繁元信がケガで離脱したこともあり、7月には首位巨人に1.5ゲーム差まで迫ったが失速し、最終的に首位と12ゲーム差をつけられた。

2010年、監督として3度目のリーグ優勝を達成。井端弘和のケガによる離脱、トニ・ブランコの不調により得点力が大幅に低下し、一時は首位に8ゲーム差をつけられたが、ホームゲームにおいて勝率.746と無類の強さを発揮し、9月10日に首位に立ち、巨人・阪神との激しい三つ巴の争いを制して143試合目にして優勝を達成。クライマックスシリーズ2ndステージで巨人を4勝1敗で破り日本シリーズに進出したが、パ・リーグ3位から勝ち上がってきたロッテに2勝4敗1分で敗れ、日本一はならなかった。なお、中日球団で7年連続で指揮した監督となったが、与那嶺要(1972年 - 1977年)と星野仙一(第二次政権時の1996年 - 2001年)の6年連続を上回り、球団歴代1位となった。

2011年1月14日、2011年度野球体育博物館(野球殿堂)競技者表彰に選出された。この年は攻撃陣の絶不調により前半戦は苦戦し、8月3日には5位に転落、首位ヤクルトとは最大10ゲーム差をつけられたが、9月に入りリーグトップの投手陣の働きにより巻き返し、ゲーム差を縮めた。

シーズン中の9月22日、球団から同年シーズン限りでの監督退任が発表されるが[36]、10月6日に首位に浮上、18日に142試合目にして優勝を決め(監督として4度目のリーグ優勝)、強力な投手力で球団史上初のリーグ連覇を達成した。

監督としての契約は10月限りで切れていたので、以降は1日ごとの契約更新となった。ヤクルトとのクライマックスシリーズファイナルステージを4勝2敗(リーグ優勝アドバンテージ1勝を含む)で制し、2年連続(監督として5度目)の日本シリーズ進出を決め、試合後には当初予定されていなかった胴上げが行われた[37]。日本シリーズは3勝4敗で前年に続き日本一を逃したため、これが中日監督としての最後の胴上げとなった。11月10日、セ・リーグより最優秀監督賞に選出されたことが発表された[38]

11月20日、日本シリーズで福岡ソフトバンクホークスに敗れた試合終了を以って、監督退任となった。

落合が監督を務めた時期の中日は、8年間でリーグ優勝4回、日本シリーズ出場5回、日本一1回、Bクラス(4位以下)0回だった。歴代の中日監督では、最高の成績である。

中日GM時代[編集]

2012年、日刊スポーツ評論家に復帰した。解説者としてはフリー[39][40]。初解説は2012年4月15日に甲子園で行われた阪神対中日のテレビ中継だった(メ〜テレ制作)[注 2]

8月、顔面麻痺を発症し、病院に緊急搬送されたが間もなく退院する[42][43]。以後は、治療を続けながら講演や野球中継のゲスト解説などを行っていた。

2013年10月9日、中日球団に新設されたゼネラルマネージャーへの就任が発表された。当初は顧問役を打診されたが自らGM職を提案し、推定年俸8,000万円で契約した。

GM就任後に初めて実施された、選手との契約更改では、退団して巨人に移籍した井端弘和と、FA宣言でソフトバンクに移籍した中田賢一を除く中日選手は年俸提示に同意し、総年俸から総額推定8億円超のコストカットを実現した。中日オーナーの白井文吾は、球団フロントに対して、与えられた予算内での年俸抑制を、以前から求めていた。ところが、好成績を残した選手や実績のあるベテランが提示額を不満とすると、何がしかの「イロ」をつける、いわゆる「ゴネ得」を許す悪しき風習をなかなか断ち切れなかった。契約更改が終わると、結果的に予算オーバーという展開が繰り返されてきた。落合は、「自分が編成の責任者になって全てを任せてくれたら、年俸の削減もできる。それにはGMがいい」と提案した。白井は、監督時代の有無を言わさない統率力を見てきたこともあり、落合をGMに就任させた[44]

しかし、こうした経緯から明らかなように、GM時代の落合は、大金を投じた大型補強を実施することが難しかった。他球団で実績のある捕手の嶋基宏(当時は楽天)、炭谷銀仁朗(当時は西武)を、FAで獲得する可能性を中日が調査したとの報道があったが、いずれも実現していない[45]

2014年ドラフト会議では、即戦力重視の方針で、指名した9人(育成選手を除く)全員が、大学・社会人・独立リーグ出身者だった。ドラフト直前には、落合は1巡目候補として、山崎康晃亜細亜大学)をイチ押ししたとの報道があった[46]。しかし結果的に、山崎はDeNAが獲得した。中日が単独指名したのは、同じく落合が高評価したとされた[47]野村亮介三菱日立パワーシステムズ横浜)だった。野村は、プロ1軍では1勝もできずに、2017年に引退した。2014年に中日が獲得したドラフト1~4巡目の選手は、2020年までに全員が引退した。一方で、5巡目指名の加藤匠馬は126試合、6巡目指名の井領雅貴は178試合、7巡目指名の遠藤一星は293試合にそれぞれ出場し(いずれも2020年までの1軍成績)[48]、下位指名の選手のほうが活躍する結果となった[49]

2015年ドラフト会議の前段階で落合は、今永昇太駒澤大学)の1巡目指名を主張した。しかし、白井オーナーなどは、地元の注目選手だった髙橋純平岐阜県立岐阜商業高等学校)の指名を主張した[50]。結果的に、今永はDeNAが単独指名で獲得した。高橋は、中日、ソフトバンク日本ハムの3球団が指名し、ソフトバンクが獲得した。外れ指名では、小笠原慎之介東海大学付属相模高校)を、中日、日本ハムの2球団が指名し、中日が獲得した。2020年までの1軍通算成績は、今永41勝37敗・防御率3.52、小笠原16勝24敗・防御率4.19、高橋3勝2敗17ホールド・防御率3.17である[51]

2016年ドラフト会議の1巡目指名では、田中正義創価大学)に6球団が競合してソフトバンクが獲得。その外れ指名では佐々木千隼桜美林大学)に5球団が競合し、ロッテが獲得した。中日とDeNAは、柳裕也明治大学)を指名し、中日が獲得した。2020年までの1軍通算成績は、柳20勝23敗・防御率3.93、佐々木6勝8敗・防御率3.92、田中0勝1敗・防御率8.16である。中日が2巡目で獲得した京田陽太日本大学)は、プロ1年目の2017年に、149安打36打点4本塁打23盗塁、打率.264を記録し、新人王を獲得した[52]

GM時代の落合は、ドラフトで獲得した小笠原慎之介、柳裕也が、中日先発投手陣の柱に成長するなどの成果を残した。しかし、短期的なチーム成績では低迷し、2016年の中日は、19年ぶりの最下位になった。同年12月20日、球団は契約切れとなる2017年1月限りで退任すると発表した。2018年からは、フリーの野球解説者として活動を再開した。

プレースタイル[編集]

打撃[編集]

落合の採用していた打法は、同じ神主打法を使用する他の選手と比べても独特であった。この打法はプロ入り間もない頃に受けた松沼博久の徹底した内角攻めに対応するため、改良を重ねて編み出されたものである。松沼は「最初のうち落合はインハイが全く打てず、ある時を境に苦手なはずのインハイばかり狙って振ってきた。そのうちインコースが投げ難い構え(神主打法)を編み出し、インハイを完璧にカットする技術を身に付けていた」と語っている。また、江夏豊から「ピッチャーは特定の球種を待たれるのが一番嫌なんだ、お前みたいにコロコロ狙い球を変えていたら一生俺からは打てない」と言われたことから、狙い球を絞り、インハイの力のある球に振り後れないよう打席ではインハイを待っていたという[53]

通算で510本の本塁打を放っているが、そのうちの176本は右翼への本塁打で、初の三冠王を取った1982年は32本塁打のうち20本が右翼への本塁打だった。アウトコースの球を払うように流し、本塁打にしてしまう技術に感嘆したスポーツライターの山際淳司は、スポーツ選手に関するエピソードを集めた『ナックルボールを風に』(1983年)という著書の中の「アウトコース」で、落合を取り上げている。しかし落合本人はインタビューにおいて、「俺の弱点はアウトローだった。俺ほど外の球を打つのが下手なのはいない」と語っており、事実、落合が得意としていたのは、インコースの球を広角に打つことであった。ライト方向へ多く飛ぶので「アウトコースは危ない。勝負するならインコース」と単純な考えから落合対策を練る他球団が増え、得意なコースばかりに球がきて苦手なコースにはあまり投げ込んでこず、落合本人はそのことをほくそ笑んでいたという[54]

リーグ最多四球を1984年から1991年の8年連続含め、通算9回記録した。通算1475四球は王貞治に次いで歴代2位、右打者では歴代1位である。3桁の三振を記録したシーズンは一度もない。通算打率.311に対して通算得点圏打率は.334を記録している[55]

落合いわく、自身が三冠王をとれたのは「三兎(打撃の三冠タイトル)をおって三兎を得る勢い」でやったからとのことであり、俗にいう「二兎を追うものは一兎をも得ず」を野球選手は考えてはいけないとのこと[56]

守備[編集]

一塁手、三塁手、二塁手としてそれぞれ出場経験があるが、最も出場試合数が多いのは一塁手である[57]

逸話[編集]

家族[編集]

20代で1度離婚後、9歳年上の信子と再婚した。信子は後にタレント活動をするようになった傍ら、内助の功で博満は前向きではなかったFA権の行使や監督就任などを決断させたことでも知られる。

長男は声優落合福嗣。また、元プロレスラージャイアント落合は甥にあたる(姉の子)。落合一家は博満が三冠王を獲得したことに掛けて「トリプルクラウンファミリー」と呼ばれるなど独特の知名度がある[58]

人物[編集]

愛甲猛は自伝[59]で、入団してしばらく投手として伸び悩んでいた愛甲に打者転向をすすめ、コーチングしてくれたのは、現役時代の落合だったと語っている。その指導は厳しいもので、あまりの厳しさに、「俺はこれでも甲子園のヒーローなんです」と泣き言を言うと、「じゃあ甲子園にさっさと帰れ!」と怒鳴られたこともあるという。しかし落合の指導は緻密で、愛甲の打撃力が向上したと判断すると首脳陣に「タケシ(愛甲)のバッティングがかなりよくなってきているからいま見にきてくれ」とすぐに電話する気配りもあった。打者転向によってプロとして成功した愛甲は、落合のことをプロ野球界での師匠として深く尊敬している[60]

1985年から1987年まで社団法人日本プロ野球選手会の2代目の(プロ野球選手としては初の)理事長を務めたが、1992年に選手会を脱退した後の1993年、選手会が導入に尽力したFA制度を利用し、巨人に移籍している。

プロ入り前からの熱心な長嶋茂雄ファンで、後楽園球場での引退試合をスタンドで観戦している。巨人は1992年から長嶋が監督に復帰していたが、落合はロッテ時代に受けた取材にて「長嶋さんがもう一度巨人の監督になったら、世間から馬鹿にされますよ。笑われますよ。だって、自分をクビにしたチームにのこのこ帰っていくヤツがどこにおるんよ」と発言し、取り沙汰されていた長嶋の巨人復帰に釘を刺したことがある[61]。しかし後年、落合も巨人に移籍し会見では「長嶋さんを胴上げするために来ました」と述べ、そして長嶋を胴上げに導いた。

現役時代、プロ入り時の監督であった山内一弘からフォームの矯正を施されたが、指導された打法が合わなかった。しかし山内との関係が悪かったわけではなく、その後に出来上がった神主打法を改めて見てみたところ、山内から教わったものが自分のバッティングにも生きていることが分かったという[62]。また、落合は山内から伝授された打撃練習法を、現役晩年まで実践していた[63]

ロッテ在籍時代、阪急のエース・山田久志とはライバルとして認め合い、名勝負を繰り広げた。1980年5月28日の阪急戦で2安打した落合を見た山田は、ブルペンに居た若手投手に「凄い打者が出てきた。あいつは三冠王を獲るかも知れない」と話したという[64]。落合はプロ入り当初、山田の決め球であるシンカーを全く打てなかったが、当の山田本人に攻略法を聞くという大胆な行動を起こし、「センター返しをしろ」とのアドバイスを貰い受け、それを実践し苦手のシンカーを克服した[64]。1982年4月29日に行われた、山田の200勝が掛かった試合では、山田から3本のホームランを放っている[65]。打った球は全てシンカーであった[66]

山本昌は監督を務めていた頃の落合から「年齢はグラウンドに立てば関係ない。ひとつでも多くのアウトをとれるやつをオレは使う。力のあるやつが、このグラウンドに立つことができるんだ」という言葉をかけられ、2009年に出版した著書でこの言葉に感謝している旨を記している。2007年のシーズンには何度も山本を二軍に落としたが、山本は自著に「2007年には19試合登板し、うち18試合は先発のチャンスを与えられたが、これだけ使ってもらって結果を出せなかった。落合監督は本当に僕を辛抱強くマウンドに送り出してくれた」という趣旨の記述を残している[67]

暴力嫌いであり、監督に就任直後、招聘した全コーチに、「いかなる理由があっても選手に手を上げてはいけない。守れなかった場合は解雇する」という誓約書にサインさせた[68]。中日球団は星野仙一監督など、鉄拳制裁が日常的になっており、その慣習を変えるべくチームの暴力根絶にも苦心し、落合は「チームから暴力をなくすのに5年かかった」としている[69][70]。スポーツ界全体に蔓延る暴力指導の根絶について「この先何十年もかかると思う。『絶対ありません』と言う時代は私が生きている間には訪れないと思ったほうがいい。それだけ時間がかかる難しい問題」と語っている[71]

稲尾和久との関係[編集]

ロッテ時代の監督だった稲尾和久を師と仰いでいる。現役時代、室内練習場で長時間にわたるバッティング練習を終えたところ、落合の指が感覚を失い、バットから離れなくなったが、物陰から姿を現し、指をゆっくりとバットから離してあげた人物が稲尾だった。落合の稲尾への私淑はこの時がきっかけだという。

落合が正力松太郎賞を受賞した2007年11月13日は奇しくも稲尾の命日でもあり、受賞後の会見で稲尾について「監督と選手の立場を超えて野球を語り合った。教示された打者には分からない投手心理は私の財産」との旨のコメントを残している。

1986年は123試合の出場で50本塁打していたが、稲尾に残り試合を若手の育成に使いたいと言われ、本人も承諾し欠場した。これについて自伝では「来年でも日本記録の55本塁打を狙えると思ったから」としているが、翌年は中日にトレードされている。

落合は「7人の監督に仕えたが、野球を教わったのは山内(一弘)さんと稲尾さんだけ」と振り返っている[72]

野球[編集]

通算500安打、1,000安打、1,500安打、2,000安打は、すべて本塁打で達成した。さらに、1,000試合出場、2,000試合出場時も本塁打を打っている。

その優れたバットコントロールのエピソードとして、このようなものがある。

  • 1987年に中日にトレードされた際、球団は本球場から離れた周囲・天井共にネットを張り巡らした体育館を急造の打撃練習場としていた。当然ボールがネットに乗り、垂れ下がってきてしまうので、選手がボールを投げて落とそうとするもなかなか上手く行かない。すると落合は「オレが落とすよ」と言い、ピッチングマシンの球を打って打球をネットに当て始め、乗ったボールを落としていったという。セントラル・リーグの審判部長を務めた田中俊幸は「まるで魔法のようなバットコントロールで、曲芸かマジックを見ているようだった」と述懐している[73]
  • 落合はゆるい球を自由に打ち返せれば調整はOKとしているが、ナゴヤ球場での打撃練習中のこと、審判が目慣らしのため近づいてきた。「10本打って何本スタンドに入ると思う?」と聞くと、ゆるい球は全力で打っても飛ばないため、審判は「精々4、5本だろう」と答えた。落合は「8本だ」と言い打ち始めると、打球はきれいな弧を描き、スタンドに吸い込まれていく。結果的に2本がフェンス前に落ち、スタンドインしたのは8本であった。その審判は「信じられない光景であった」と述べている[73]
  • 打撃投手に体の正面にボールを投げさせて全球バットの芯で打ち返した、トスバッティングで投手の胸にライナーで打ち返した等、練習段階からパリーグ審判員山崎夏生が驚く程のバットコントロールであった[74]
  • ロッテ時代は長さ35インチのバットを使っていた。南海の門田博光は「オレでも34インチ半が精一杯やったのに……。あの長さのバットを扱うのはすごい技術が必要なんです」と振り返っている[75]

入団当初は三塁手だったが、一軍に定着するため、2年目からはチームに手薄だった二塁手に転向し、初めて三冠王を獲得した年のポジションも二塁手だった。その翌年は一塁手に転向したが、三塁手であった有藤通世の外野手転向により三塁手に戻り、その後は守備の負担を考慮して再度一塁手に転向した。二塁手だった時期もあるため、2000年に日本野球機構などが行った「センチュリーベストナイン(20世紀ベストナイン)」投票で落合は二塁手としてノミネートされ、選出された。ベストナインは一塁手で4回、二塁手で2回、三塁手で4回選ばれている。

主流となっているユニフォームのズボンの裾を下まで下ろす着こなしは、中日時代の落合がチームメイトの宇野勝と共に始めたのが最初とされる。内野守備のクロスプレーで足をスパイクされるのを防ぐため、ソックスの上に毛製の足首のサポーターとストッキングを着用し、血流が悪化しないようにそれまでズボンの裾に付いていたゴムをなくし、下まで下ろすようにした。同様の理由でソックスやストッキングは独自規格のものをメーカーに特注していたという。また、落合はロッテ時代に当時打撃コーチだった広野功の薦めで、木製バットの含水率を厳密に管理できるバットケース(富士シリシア化学製)の使用を始めた。これは球界におけるバットの含水率管理の先駆けである。

前田智徳の打撃を評価しており、打撃指導の時は「広島の前田を参考にしろ」と言う事が多い。また、リトルリーグの指導をする時も「プロの真似をするなら広島の前田の真似をしなさい」と言う。自身の真似については「真似るとスランプに陥る可能性があるので絶対にやめなさい」と述べている[76]。落合自身の打撃法について「俺と同じ打撃が出来るのは石嶺和彦だけ」と語っており、特に石嶺の内角打ちを高く評価していた。落合は中日の監督に就任すると同時に石嶺を中日の打撃コーチに迎え、石嶺は落合が監督在任した8年間、一貫して打撃コーチとしてチームを支えた。

発言[編集]

2009年に行われた第2回WBC日本代表が優勝したことに対して、「よかったね、おめでとう」とあまりにもそっけないコメントを残し [1][リンク切れ]、同大会の日本代表に選出された中日所属の選手が全員出場を辞退している事と共に自身のWBCへの関心の無さを批判された。落合は、行くも行かないも選手の自由としながらも、自著「采配」で、「選手とは球団と契約している個人事業主であり、契約書に明記されていない仕事をする場合には本人の意思が第一に尊重されるべきなのだ」「(メダルを逃した北京オリンピックに出場した岩瀬が)帰国すると、球団には電話がひっきりなしにかかってきた。中には彼の命の危険さえ感じる物騒なものもあった。…」と記している[77]

また、中日監督辞任後には2013年第3回WBC日本代表監督への就任を期待する声もあったが、落合自身は2012年1月13日に紀伊國屋ホールで開かれた著書『采配』(ダイヤモンド社)刊行記念の講演で「(WBCの監督は)絶対やりません。何でそんな命縮めるようなことわざわざしなくちゃいけないのか。短期決戦が下手なんでしょうね。私がやったら絶対に負けますからね」と発言して否定し、結局は山本浩二が監督に就任した[78]

同年シーズン中、親会社が新聞社なのにも関わらず、記者団のインタビューで「当分俺からは野球の話はない。マスコミを使って選手にメッセージを伝えるのはやめた。新聞を読んでない選手もいるから」と発言。これが原因で中日新聞上でコラム『読む野球』を書かされることとなった[79]

2011年、監督退任後の『報道ステーション』での長嶋一茂との対談で、統一球の影響については「全く関係ない」と発言し「選手が『統一球は飛ばない』という言葉に逃げた。現に打てなくなった奴はみんなボール球を振っている。それでは打てないのは当然だ」と述べている[80]

オマール・リナレスとの友情[編集]

1978年7月にオランダで開催されたハーレムベースボールウィークの第11回大会に出場した落合は、キューバの豪速球投手・ブラウディリオ・ビネンから死球を受け、それ以来、キューバの選手に対してはあまり良いイメージを持っていなかったという。しかし1995年にキューバの選手が日本を訪問したおりにオマール・リナレスの手形を落合博満野球記念館に貰えないかという話になり、リナレスはこれを快諾。アントニオ・パチェコビクトル・メサと共に車で世田谷にある落合邸を訪問した。

リナレスが訪問した際、信子夫人と福嗣に歓迎されたが、落合は東京ドームの試合で留守だった。時間制限があったために落合に会えず、短時間で落合邸に別れを告げた。ところが、ホテルに戻ると信子夫人から連絡を受けた落合が駆けつけてきてくれていた。パチェコの誕生日祝いもあり、信子夫人と福嗣も後から合流してお祝いの会は大盛況で進んでいった。2人は野球談義で意気投合し、最後に落合はリナレスに「47歳までプレーする」と約束してみんなと別れた。

翌1996年5月に再びキューバの選手が日本を訪問したおり、落合は再び彼らの宿舎を訪れ、リナレスとパチェコに自分のバットをそれぞれ1本ずつプレゼントした。亡命直前のローランド・アローホの誕生日も祝った。後日、リナレスの母校のピナール・デル・リオ大学で開かれた「リナレス展」の会場の真ん中に落合のバットが飾られていた。そこには「これは日本で三冠王を3度も獲ったオチアイという偉大な選手のバットです」と見学しに来ていた人に自ら説明するリナレスの姿があった[81]。後に2004年の一年間という短い期間ではあるものの、中日で落合は監督、リナレスは一塁手のレギュラーという間柄でリーグ優勝を達成した。

背番号へのこだわり[編集]

背番号に対してのこだわりが強く、落合博満記念館は背番号6にちなんで六角形のデザインとなっている。2010年以降は眼鏡をかけるようになったが、フレームの淵の部分には漢字で「六」と入っている。巨人移籍時には6を既に篠塚和典が使用してしていたため、6に0をくっつけた60を使用した(篠塚が引退した翌1995年からは6に変更)。1994年は巨人の球団創設60周年であり、尚且つ落合が同年開幕時に四番に立った場合巨人の「第60代四番打者」になるために選んだとも言われている。また仮に篠塚が6を譲った場合、篠塚への同情論と落合への更なる批判が集まるおそれがあり、これを避けたかったためともされている[82]。また、中日監督就任後は、6を二つ重ねた66を背番号としている。

中日監督就任後も背番号のこだわりを随所に見せており、谷繁元信の当時の背番号7を「捕手の番号らしくない」と森昌彦大矢明彦伊東勤・古田敦也など歴代の名捕手が背負ってきた背番号である27に変更させている。また、背番号16だった森野将彦を就任直後に8、2006年からは31に変更[注 3]させた。森野は2010年から2013年まで30を、2014年以降は7を使用。2009年には、現役を引退しファンから永久欠番の署名活動があった立浪和義の背番号3を森野に与えようとしたが本人が辞退している。なお背番号3は1年間欠番となった後、2011年からは新入団の吉川大幾、吉川が退団した2015年以降は高橋周平が引き継いでいる。

中日を代表する投手に代々受け継がれて伝統と化していた“中日のエースナンバーは「20」”という考え方にも否定的で、2004年川崎憲次郎引退後に入団した中田賢一に20を与えた。「オレの中では18がエース番号。だれかがあれ(20)をつけないと番号が足りない」と説明している[83]

中里篤史佐藤充など、後がない選手には1年だけ猶予を与えるが、支配下の選手の中で一番下という意味で背番号を70に変更させる。結局、中里と佐藤は結果が出せず1年後に戦力外通告された。また、この2人以前にも70をつけていた鳥谷部健一2006年)、三澤興一2007年)は移籍して1年で解雇されている。ただし、2011年に加入したエンジェルベルト・ソトは例外で、入団当初から70をつけていた。GMとして中日復帰後は70をつけていたダニエル・カブレラの背番号を99に変更させ、谷哲也の背番号を70に変更させた。

中日新聞の読む野球のコーナーで「背番号00は意味がない」という理由で2011年から欠番とすることになったが、GM復帰後の2014年から2016年まではアンダーソン・エルナンデスが使用した。2007年から2012年まで在籍していた金剛弘樹がつけていた背番号0についても「背番号ではない」とコメントしている。

ガンダムファン[編集]

息子の福嗣の影響もあり[84]ガンダムシリーズ好きである。

ガンプラにもこだわりがあり、最も好きなモビルスーツは、『新機動戦記ガンダムW』に登場するウイングガンダムゼロカスタム[85]2008年1月には静岡県にあるバンダイホビーセンターを訪れ、『機動戦士ガンダム00』に登場するガンダムエクシアの中日ドラゴンズカラー版をプレゼントされた[85]

ミラクルジャイアンツ童夢くん[編集]

石ノ森章太郎の漫画およびアニメ『ミラクルジャイアンツ童夢くん』に実名で中日の選手として登場(声優は沢木郁也)。劇中の主人公、新城童夢(ジャイアンツ)の投げる魔球「童夢スペシャル1号・スノーミラージュボール」を初めて打破するなど、実在の選手としては最大のライバルとして童夢に対峙する(他に童夢の魔球と対決するのは架空の人物が主)。アニメのサブタイトルにも「落合、魔球打倒宣言」(第8話)、「対決!落合対童夢」(第9話)などと題される。信子夫人も劇中に登場した。

映画好き[編集]

無類の映画好きとしても知られる[86]

監督として[編集]

監督を務めた8年間で4度のリーグ優勝、すべての年でAクラス入りを果たす実績を残した。

FA権に対して「FAは選手が勝ち取った権利」だと、容認的なスタンスを取っており、在任期間中に野口茂樹福留孝介川上憲伸中村紀洋と4人の選手がFA権を行使して移籍していった。

2004年監督就任1年目の開幕戦から数試合は、勝ち試合のゲームセット時にベンチで喜びを露にしていたが、徐々に試合中は無表情となり、一切感情を露わにしないことでも知られていたが、2011年11月の監督退任後には「イニング毎に必ずベンチ立つでしょ? 裏行って、表情変えているから。監督室帰って、例えばお茶飲んだり、水飲んだり、一人でボソボソ文句いいながら、『あの馬鹿野郎、あんなところで、あの球打ちやがって』とか独り言を言ったり。そこで頭切り替えて、ベンチ行って座っていると。この繰り返しですよ」と明かした[87]

マスコミに対しては、試合後のコメントも他の監督に比べ短く、落合の試合後のコメントを毎回掲載する東京中日スポーツの「オレ流語録」コーナー掲載のコメントはほとんど一行のみである。現役時代にチーム事情を敵にばらす記者がいることを知り、自分のチーム事情が漏れるのを警戒しているからであるとされている[88]

上記の事情から、マスコミや、球団内からは「ファンサービスが足りない」と批判を受けていた。こうした批判に対し、落合は「勝てばファンはついてくる」と口にしている[89]

2007年11月1日、日本ハムとの日本シリーズ第5戦で、球団として53年ぶりの日本一を成し遂げた。その一方で8回表まで完全試合投球を続けていた先発の山井大介を、9回表に岩瀬仁紀へ交代させた采配には、賛否両論が巻き起こった(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投を参照)[90]

2007年11月13日、中日球団からは初となる、正力松太郎賞を選考委員会の満場一致で受賞した。その際、座長であった川上哲治は「強い信念と、選手の上手い育て方。自分の野球観を持って強いチームを作った。立派な功績」とコメントした[91]岡田彰布は落合と2008年オフに会話した折、これからはウッズ・和田など他球団の強力な主軸をマネーゲームで取る野球ではなく、選手を育成して勝利するという強い執念を感じたという[92]

2010年は打率、得点でリーグ5位、2011年には両部門でリーグ最下位の成績ながら、球団史上初の連覇を達成した[93]。2011年5月7日、11敗目を喫した際に「あと50回負けられる」という旨の発言をし[94]、結果その年の中日の61敗目がちょうどそのシーズンの優勝ラインとなった。

投手起用に関しては、自身が野手だったことから、信用を置いているコーチの森繁和に任せて一切口出ししなかったという。これについて落合は「(下手に口を出すと)大抵それで失敗する」と発言している。攻撃面ではサインはほとんどなく、基本は選手のやりやすいようにやらせていたという。甘い球や狙い球ならどんどん打っていけ、という考え方で、「狙いがあるなら、全員が初球打ちで3球でチェンジになっても構わない」とも言っていたとされる[95]

2011年シーズンをもって監督を退任したが、これに関しては、落合に勝たれては困ると思っていた球団幹部が存在し、さらに同年9月の巨人戦で負けた際、その幹部にガッツポーズをされたことを明かしている[96]。また、翌2012年のファンクラブ会報誌(1月臨時号)には「高木守道新監督のファンサービスぶりはすでに前任者をはるかに凌駕している」「前任の監督は『勝てばファンはついてくる』といい、勝つこと以外でのファンサービスには熱心ではなかった」などといった露骨な落合批判の文が掲載された[89][97]

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1979 ロッテ 36 69 64 7 15 3 1 2 26 7 1 0 0 0 4 0 1 12 2 .234 .290 .406 .696
1980 57 188 166 28 47 7 0 15 99 32 1 0 2 2 17 0 1 23 5 .283 .349 .596 .946
1981 127 502 423 69 138 19 3 33 262 90 6 3 1 4 68 1 6 55 17 .326 .423 .619 1.043
1982 128 552 462 86 150 32 1 32 280 99 8 2 0 4 81 6 5 58 11 .325 .428 .606 1.034
1983 119 497 428 79 142 22 1 25 241 75 6 5 0 3 64 5 2 52 14 .332 .419 .563 .982
1984 129 562 456 89 143 17 3 33 265 94 8 1 0 4 98 8 4 83 14 .314 .436 .581 1.017
1985 130 568 460 118 169 24 1 52 351 146 5 1 0 4 101 26 3 40 16 .367 .481 .763 1.244
1986 123 522 417 98 150 11 0 50 311 116 5 1 0 1 101 19 3 59 15 .360 .487[注 4] .746 1.232
1987 中日 125 519 432 83 143 33 0 28 260 85 1 4 0 4 81 10 2 51 10 .331 .435 .602 1.037
1988 130 557 450 82 132 31 1 32 261 95 3 4 0 6 98 13 3 70 11 .293 .418 .580 .998
1989 130 559 476 78 153 23 1 40 298 116 4 3 1 6 75 7 1 69 11 .321 .410 .626 1.036
1990 131 570 458 93 133 19 1 34 256 102 3 3 0 8 100 17 4 87 7 .290 .416 .559 .975
1991 112 478 374 80 127 17 0 37 255 91 4 2 0 5 95 16 4 55 9 .340 .473 .682 1.155
1992 116 481 384 58 112 22 1 22 202 71 2 3 0 6 88 8 3 74 12 .292 .422 .526 .948
1993 119 504 396 64 113 19 0 17 183 65 1 2 0 8 96 14 4 69 13 .285 .423 .462 .885
1994 巨人 129 540 447 53 125 19 0 15 189 68 0 0 0 6 81 4 6 56 13 .280 .393 .423 .815
1995 117 483 399 64 124 15 1 17 192 65 1 0 0 8 73 2 3 87 17 .311 .414 .481 .895
1996 106 448 376 60 113 18 0 21 194 86 3 0 0 2 67 3 3 53 11 .301 .408 .516 .924
1997 日本ハム 113 466 397 35 104 14 0 3 127 43 3 0 0 5 61 1 3 60 16 .262 .361 .320 .680
1998 59 192 162 11 38 6 0 2 50 18 0 1 0 2 26 0 2 22 12 .235 .344 .309 .652
通算:20年 2236 9257 7627 1335 2371 371 15 510 4302 1564 65 35 4 88 1475 160 63 1135 236 .311 .422 .564 .987
  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPBにおける歴代最高

年度別監督成績[編集]

レギュラーシーズン































2004 中日 1位 138 79 56 3 .585 (7.5) 111 .274 3.86 623 558 50歳
2005 2位 146 79 66 1 .545 10.0 139 .269 4.13 680 628 51歳
2006 1位 146 87 54 5 .617 (3.5) 139 .270 3.10 669 496 52歳
2007 2位 144 78 64 2 .549 1.5 121 .261 3.59 623 556 53歳
2008 3位 144 71 68 5 .511 10.0 140 .253 3.53 535 556 54歳
2009 2位 144 81 62 1 .566 12.0 136 .258 3.17 605 508 55歳
2010 1位 144 79 62 3 .560 (1.0) 119 .259 3.29 539 521 56歳
2011 1位 144 75 59 10 .560 (2.5) 82 .228 2.46 419 410 57歳
通算:8年 1150 629 491 30 .562 Aクラス8回
  • ※1 順位の太字は日本シリーズ優勝、チーム成績の太字はリーグ1位(最優秀)、下線はリーグ最下位
  • ※2 2001年から2004年までは140試合制(2004年は選手会ストライキのため2試合が行われなかった)
  • ※3 2005年から2006年までは146試合制
  • ※4 2007年から144試合制
  • ※5 優勝年のゲーム差は2位とのゲーム差
ポストシーズン










2004 中日 日本シリーズ 西武ライオンズ 3勝4敗=敗退
2006 日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 1勝4敗=敗退
2007 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ3位) 2勝0敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 3勝0敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 北海道日本ハムファイターズ 4勝1敗=日本一
2008 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
阪神タイガース(セ・リーグ2位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝2敗1分=敗退
2009 セ・リーグ クライマックスシリーズ
1stステージ
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ3位) 2勝1敗=ファイナルステージ進出
セ・リーグ クライマックスシリーズ
2ndステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ優勝) 1勝3敗=敗退
2010 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
読売ジャイアンツ(セ・リーグ3位) 3勝1敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 千葉ロッテマリーンズ 2勝4敗1分=敗退
2011 セ・リーグ クライマックスシリーズ
ファイナルステージ
東京ヤクルトスワローズ(セ・リーグ2位) 3勝2敗=日本シリーズ進出
日本シリーズ 福岡ソフトバンクホークス 3勝4敗=敗退
※ 2008年と2009年のクライマックスシリーズ2ndステージではセ・リーグ優勝の読売ジャイアンツに、また2010年と2011年のクライマックスシリーズファイナルステージ(2ndステージより名称変更)では、同じくセ・リーグ優勝の中日ドラゴンズに1勝のアドバンテージが与えられたが、ここではアドバンテージ分は除いた勝数を示した

タイトル[編集]

  • 首位打者:5回 (1981年 - 1983年、1985年、1986年)※右打者のパ・リーグ記録
  • 本塁打王:5回 (1982年、1985年、1986年、1990年、1991年)※両リーグ本塁打王は史上初
  • 打点王:5回 (1982年、1985年、1986年、1989年、1990年)※両リーグ打点王は史上初、現在も唯一
  • 最高出塁率:7回 (1982年、1985年 - 1988年、1990年、1991年)※受賞7回は歴代2位、右打者歴代1位
  • 最多安打(当時連盟表彰なし):1回(1982年)
  • 最多勝利打点:5回 (1982年、1985年、1988年、1989年、1993年)※受賞5回は史上最多、1989年と1993年は特別賞

表彰[編集]

記録[編集]

日本記録
  • 三冠王:3回 (1982年、1985年、1986年)※史上4人目、3回の三冠王は史上唯一
  • 両リーグ200本塁打以上(パ247本、セ263本)
  • 2年連続シーズン50本塁打以上(1985年 - 1986年)
  • シーズン得点圏打率:.492(1985年)
  • シーズン出塁率:.487(1986年)※NPB公式での日本記録。ただし、出塁数を採用していた時代のセリーグの記録に遡ると1974年王貞治の.534が日本記録となる。
  • シーズン打率.360以上:2回(1985年、1986年)※日本タイ記録、右打者では史上唯一
  • 1試合6四球(1991年10月13日)
パ・リーグ記録
  • シーズン打点:146(1985年)
  • シーズン長打率:.763(1985年)
初記録
  • 初出場:1979年5月29日、対南海ホークス前期8回戦(川崎球場)、7回裏に新井昌則の代打として出場
  • 初先発出場:1979年5月30日、対南海ホークス前期9回戦(川崎球場)、七番・三塁手として先発出場
  • 初安打・初打点:同上、6回裏に森口益光から
  • 初本塁打:1979年5月31日、対南海ホークス前期11回戦(川崎球場)、3回裏に山内新一から3ラン
節目の記録
  • 100本塁打:1983年8月31日、対阪急ブレーブス20回戦(阪急西宮球場)、9回表に山沖之彦から左越先制3ラン ※史上127人目
  • 150本塁打:1985年5月5日、対南海ホークス4回戦(川崎球場)、5回裏に大久保学から ※史上75人目
  • 200本塁打:1986年5月31日、対阪急ブレーブス8回戦(川崎球場)、2回裏に今井雄太郎から中越先制ソロ ※史上48人目
  • 250本塁打:1987年5月19日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に西本聖から中越2ラン ※史上27人目
  • 1000安打:1987年6月2日、対横浜大洋ホエールズ9回戦(ナゴヤ球場)、7回裏に高橋一彦から左越ソロ ※史上148人目
  • 1000試合出場:1988年5月14日、対読売ジャイアンツ7回戦(ナゴヤ球場)、四番・三塁手として先発出場 ※史上276人目
  • 300本塁打:1988年10月2日、対阪神タイガース23回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に仲田幸司から右越決勝ソロ ※史上19人目
  • 350本塁打:1990年5月8日、対阪神タイガース3回戦(浜松球場)、3回裏に嶋尾慶一から左越先制3ラン ※史上14人目(歴代2位の1257試合で到達:当時史上最速、後にアレックス・カブレラが更新)
  • 1000打点:1990年6月12日、対広島東洋カープ9回戦(広島市民球場)、9回表に高木宣宏から右越3ラン ※史上21人目(歴代最速の1284試合で到達)
  • 1500安打:1990年9月5日、対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)、9回表に桑田真澄から左越3ラン ※史上59人目
  • 3000塁打:1991年6月30日、対読売ジャイアンツ10回戦(ナゴヤ球場)、8回裏に香田勲男からソロ ※史上30人目
  • 400本塁打:1991年8月30日、対広島東洋カープ15回戦(広島市民球場)、4回表に金石昭人から中越ソロ ※史上11人目
  • 1000得点:1992年4月26日、対阪神タイガース5回戦(ナゴヤ球場)、3回裏に中込伸からソロ本塁打を放ち達成 ※史上24人目
  • 1500試合出場:1992年5月4日、対広島東洋カープ3回戦(ナゴヤ球場)、四番・一塁手として先発出場 ※史上101人目
  • 3500塁打:1993年8月15日、対読売ジャイアンツ18回戦(東京ドーム)、8回表に橋本清から単打 ※史上18人目
  • 450本塁打:1993年8月18日、対ヤクルトスワローズ18回戦(ナゴヤ球場)、6回裏に川崎憲次郎から先制決勝2ラン
  • 300二塁打:1994年4月16日、対ヤクルトスワローズ2回戦(東京ドーム)、7回裏に内藤尚行から ※史上31人目
  • 2000安打:1995年4月15日、対阪神タイガース2回戦(東京ドーム)、6回裏に久保康生から左越ソロ ※史上27人目
  • 1000三振:1995年10月8日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、2回裏に紀藤真琴から ※史上21人目
  • 4000塁打:1996年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(東京ドーム)、2回裏にテリー・ブロスからソロ本塁打を放ち達成 ※史上11人目
  • 2000試合出場:1996年5月29日、対ヤクルトスワローズ10回戦(東京ドーム)、四番・一塁手として先発出場 ※史上29人目
  • 500本塁打:1996年7月3日、対ヤクルトスワローズ15回戦(明治神宮野球場)、6回表にテリー・ブロスから逆転2ラン ※史上7人目
  • 1500打点:1996年8月27日、対広島東洋カープ21回戦(広島市民球場)、8回表に白武佳久から右前決勝適時打 ※史上7人目
オールスターゲームの記録
  • オールスターゲーム出場:15回 (1981年 - 1991年、1993年、1995年 - 1997年) ※1992年も選出されるも出場辞退[101]
  • オールスターゲーム通算打率:.365 ※100打数以上では、歴代1位タイ
  • オールスターゲーム通算本塁打:11本 ※歴代4位
  • オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ
その他の記録
  • シーズン得点:118(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
  • シーズン塁打:351(1985年)※右打者のパ・リーグ記録
  • シーズン打率3割以上:11回(1981年 - 1987年、1989年、1991年、1995年、1996年)※歴代5位タイ、右打者歴代1位タイ。1996年は43歳になる年での達成で史上最年長記録。
  • シーズン50本塁打以上:2回(1985年、1986年)※歴代2位タイ
  • シーズン30本塁打以上:9回(1981年、1982年、1984年 - 1986年、1988年 - 1991年)※歴代3位タイ
  • 17年連続シーズン100安打以上(1981年 - 1997年)※歴代4位タイ
  • 両リーグ1000安打以上(パ1096本、セ1275本)※史上2人目
  • 5試合連続本塁打(1989年10月10日 - 10月14日)
  • 通算打率:.3108(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代最高打率、5000打数以上では右打者最高打率
  • 通算出塁率:.422(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
  • 通算長打率:.564(1979年 - 1998年)※右打者の日本人歴代1位
  • 通算四球:1475(1979年 - 1998年)※歴代2位、右打者歴代1位
  • シーズン打率:.367(1985年)※右打者歴代3位
  • シーズン本塁打:52(1985年)※右打者の日本人歴代最多タイ記録

背番号[編集]

  • 6 (1979年 - 1993年、1995年 - 1996年)
  • 60 (1994年)
  • 3 (1997年 - 1998年)
  • 66 (2004年 - 2011年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『なんと言われようとオレ流さ』(講談社1986年4月、ISBN 4062026295)
  • 『勝負の方程式』(小学館1994年6月、ISBN 4093871213)
  • 『激闘と挑戦:巨人軍・落合博満が闘った奇蹟の136試合』(鈴木洋史共著、小学館、1995年6月、ISBN 4093871574)
  • 『不敗人生:43歳からの挑戦』(鈴木洋史共著、小学館、1997年2月、ISBN 4093872120)
  • 『野球人』(ベースボール・マガジン社 1998年12月、ISBN 4583035691)
  • 『プロフェッショナル』(ベースボール・マガジン社 1999年11年)12月 ISBN 4583036213)
  • 『落合にきけ!』(朝日新聞社 2000年3月 ISBN 402257478X)
  • 『コーチング:言葉と信念の魔術』(ダイヤモンド社 2001年9月 ISBN 4478720215)
  • 『落合博満の超野球学(1):バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社 2003年5月 ISBN 458303749X)
  • 『落合博満の超野球学(2):続・バッティングの理屈』(ベースボール・マガジン社 2004年3月 ISBN 4583037910)
  • 『采配』(ダイヤモンド社、2011年11月、ISBN 4478016267)
  • 『戦士の休息』(岩波書店、2013年8月、ISBN 9784000259125)
  • 『落合博満 バッティングの理屈:三冠王が考え抜いた「野球の基本」』(ダイヤモンド社、2015年7月、ISBN 9784478061916)
※『落合博満の超野球学(1)』、『落合博満の超野球学(2)』の再編版
  • 『落合博満アドバイス 指導者に明かす野球の本質』(ダイヤモンド社、2017年7月、ISBN 4478103089)
  • 『決断=実行』(ダイヤモンド社、2018年11月、ISBN 4478106150)
  • 『戦士の食卓』(岩波書店、2021年4月、ISBN 9784000614641)

関連書籍[編集]

  • 『奇跡を呼ぶ男落合博満物語』(綾野まさる著、小学館、1999年4月、ISBN 4092900953)
  • 『落合戦記:日本一タフで優しい指揮官の独創的「采配&人心掌握術」』(横尾弘一著、ダイヤモンド社 2004年11月 ISBN 4478960917)
  • 『落合博満変人の研究』(ねじめ正一著、新潮社、2008年4月、ISBN 9784103722069)
  • 『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』(テリー伊藤著、角川oneテーマ21、2010年5月、ISBN 9784047102439)
  • 『原辰徳と落合博満の監督力』(張本勲著、青志社、2011年1月、ISBN 9784905042105)
  • 『プロ野球にとって正義とは何か:落合解任と「プロの流儀」VS.「会社の論理」』(手束仁著、イースト・プレス、2012年3月、ISBN 978-4781607597)
    • 『プロ野球にとって正義とは何か:落合博満と「プロの流儀」VS.「組織の論理」』(改題、文庫ぎんが堂、2014年2月、ISBN 9784781671048)
  • 『野村「ID」野球と落合「オレ流」野球』(川崎憲次郎著、KKロングセラーズ、2012年12月、ISBN 978-4-845-42266-1)

出演番組[編集]

出演CM[編集]

ディスコグラフィー[編集]

  • 「サムライ街道/そんなふたりのラブソング」(1986年)「そんなふたりの…」は夫人の信子とデュエット。5万5000枚を売り上げた[111]
  • 「男のララバイ」(1987年)
  • 「めぐり逢い」(1989年12月22日)
  • 「恋の広小路」(1990年12月12日)中村美律子とデュエット
  • 「落涙」(1991年12月24日)
  • 「縁歌酒」(1992年9月21日)多岐川舞子とデュエット
  • 「息子へ」(1993年1月8日)
  • 「夜明川」(1994年1月15日)
  • 「涙 渇くまで」(1996年2月21日)林るり子とデュエット
  • 「抱かれて乾杯」(1997年3月20日)若山かずさとデュエット
  • 「霧の別れ」(1998年3月21日)若山かずさとデュエット
  • 「サムライ街道/男のララバイ」(2004年2月11日)
  • 「旅路のひと」
  • 『オレ流クラシック』(落合博満選曲・監修、キングレコード、2005年11月23日、KICC-556)
  • 『落合博満ゴールデン★ベスト』(EMIミュージックジャパン、2011年11月23日、TOCT-11284)

登場作品[編集]

脚注[編集]

[脚注の使い方]

注釈[編集]

  1. ^ このことが落合が「オレ流」と呼ばれる所以である。
  2. ^ 2012年4月15日のテレビ解説については、スポニチでも古巣の試合初観戦という表現を交えながら報じている(どこの放送局であるのかは明記せず)[41]
  3. ^ 前者は「16は野手の番号ではない」という落合の考え、後者は入団当初に背番号8を希望した新人時代の平田良介の希望と、森野が掛布雅之に憧れていたことから。
  4. ^ 赤太字で表記しているが、出塁率が公式記録として採用される前には落合の記録を上回る記録も存在する(出塁率#参考記録を参照)。
  5. ^ 2013年[102]
  6. ^ 参考:TBSチャンネルでの放送告知ページ[105]、放送の模様をつづったネットニュース記事[106]・スポーツライターのブログ[107]
  7. ^ NHKクロニクルの番組表検索結果を参照[108]
  8. ^ 参考:『週刊ポスト』2012年11月2日号掲載記事[109]、『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑』でも、2012年の中日対ヤクルトクライマックスシリーズ中継で森繁和と解説を務めたことが記されている(第何戦・どこの局であるのかは明記せず)[110]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i 個人年度別成績 - 落合博満 日本野球機構 2021年4月9日閲覧。
  2. ^ 『'98プロ野球12球団全選手百科名鑑』(『ホームラン』1998年3月号増刊。同31日、日本スポーツ出版社発行)P157
  3. ^ 蛭間豊章記者の「Baseball inside」 メジャー挑戦者はO型、B型ばかり(第454回)”. ブログ報知 (2009年2月11日). 2021年1月21日閲覧。
  4. ^ a b c d e 二宮清純『プロ野球「衝撃の昭和史」』、文藝春秋、2012年、ISBN 9784166608812
  5. ^ 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  6. ^ テリー伊藤『なぜ日本人は落合博満が嫌いか?』p142(2010年、角川書店)
  7. ^ 落合博満氏 幻に終わった阪神ドラフト指名「期待したんだよ、あの時は」”. スポーツニッポン (2018年12月15日). 2018年12月16日閲覧。
  8. ^ 岡邦行『プロ野球 これがドラフトだ!』、1989年11月30日、三一書房、ISBN 4380892492
  9. ^ a b 落合博満『なんと言われようとオレ流さ』、講談社、1986年4月、ISBN 4062026295
  10. ^ 【12月16日】1982年(昭57) 落合博満、不文律破った!一気に237・5%増で判子ポン!
  11. ^ 筒香 シーズン得点圏打率4割なるか イチらと並ぶ最年少タイ23歳”. スポーツニッポン (2014年7月29日). 2014年7月29日閲覧。
  12. ^ 放棄試合も辞さず…中日・落合監督、「退場シーン」も“オレ流”だった!AERA
  13. ^ a b 【12月23日】1986年(昭61) ロッテ、ついに落合放出 中日と1対4のトレード発表”. スポーツニッポン (2007年12月23日). 2013年9月21日閲覧。[リンク切れ]
  14. ^ 落合博満 『野球人』 p.78、ベースボール・マガジン社
  15. ^ プロ野球選手の「異常に安かった」バブル期の年俸 沢村賞投手に提示された“衝撃の額” (1/3) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)
  16. ^ 年度別成績 1987年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2018年7月30日閲覧。
  17. ^ 批判の集まる中日・落合GM 思い返せば、落合“選手”の契約更改といえば… | BASEBALL KING
  18. ^ 2011年にアレックス・カブレラに更新されるまで最速記録だった。カブレラ最速350号!落合の記録を88試合更新”. Sponochi Annex. スポーツニッポン新聞社 (2011年5月14日). 2018年1月25日閲覧。
  19. ^ 日本人選手で初めての年俸調停。落合博満、その真の目的とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1990~91年】 - 野球:週刊ベースボールONLINE
  20. ^ 年度別成績 1991年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2018年7月30日閲覧。
  21. ^ 気がつけば40年(31)1992年 西伊豆の落合道場に電撃入門したのは長嶋一茂だった― スポニチ Sponichi Annex 野球
  22. ^ 【今日は何の日?】落合博満がFAで巨人に入団 - 『スポルティーバ 公式サイト』2011年12月21日付(1993年12月21日、落合が巨人へ入団した時のことをつづった記事)。[リンク切れ]
  23. ^ 長嶋監督、渡邉恒雄以外のフロント・首脳陣は猛反対であるにも拘らず落合の巨人入りを強行させた。清原の巨人入りは落合からの進言(『日本プロ野球トレード大鑑1936-2001』(ベースボール・マガジン社2001年2月20日発行)より)
  24. ^ 今夜解禁!アスリート運命の一日 スポーツ名勝負の舞台裏
  25. ^ 【ボクの思い出STADIUM】ナゴヤ球場
  26. ^ 1995年 名球会目指してきたわけじゃない 落合博満、資格獲得も入会辞退 スポニチ 日めくりプロ野球2009年4月[リンク切れ]
  27. ^ 『不敗人生~43歳からの挑戦』124頁
  28. ^ 96年球界席巻 FA宣言・清原の巨人入りを巡る落合解雇騒動
  29. ^ 清原の巨人入り決定の裏で…渡辺社長VS落合の“大口争”
  30. ^ 平成8年ミスター流配慮 清原入団と落合退団は同じ会見場、背広、ネクタイだった
  31. ^ 落合博満、巨人への決別【1996年11月28日】
  32. ^ 【24年目の真相】落合博満が雲隠れした“空白の1日”…清原和博の巨人FA移籍の裏で何が起きたのか - プロ野球 - Number Web - ナンバー
  33. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑2002』P232に掲載された落合の解説者名鑑プロフィールより、活動先は「フリー」「テレビ朝日ほか」となっており、人物紹介文には「もっと幅広くの理由で専属を解く。」との記述あり。
  34. ^ 中日新聞』2003年10月8日夕刊1面「中日・落合監督が誕生『底上げ図り優勝狙う』」
  35. ^ めざせ!会社の星」Eテレ 2013年7月10日付放送分
  36. ^ 中日監督に高木守道氏 落合監督、今季限り”. 中日新聞. 2011年9月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年6月17日閲覧。
  37. ^ 落合監督、予定外の胴上げ「自然にそうなった」 サンケイスポーツ 2011年11月6日付
  38. ^ セの最優秀監督賞に中日・落合監督 デイリースポーツ 2011年11月10日付
  39. ^ 『12球団全選手カラー百科名鑑』2012年・2013年版の解説者名鑑より、いずれも「CS系・フリー」のグループ内にプロフィールが掲載された。
  40. ^ 『プロ野球&メジャーリーグ解説者名鑑 ただいま放送席の音声のみでお送りしています』P158-159掲載の解説者リスト(P159に、同年6月20日現在の情報である旨が明記)より、メ〜テレ解説者・フリー解説者として記載。
  41. ^ 落合博満氏 中日戦を生観戦「マサは城島で楽だろうなと思った」 - 『スポニチアネックス』野球ニュース 2012年4月16日6時27分付配信
  42. ^ 落合博満氏が「顔面麻痺」で救急搬送される - 『NEWSポストセブン』2012年8月27日(ソース:『週刊ポスト』2012年9月7日号)
  43. ^ 落合博満が〝顔面まひ〟隠さず語った「闘病2週間」 - 『現代ビジネス』(講談社)2012年09月17日(ソース:『フライデー』同21日号)
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参考資料[編集]

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  • 落合『采配』ダイヤモンド社、2017年11月17日。ISBN 9784478016268。

関連項目[編集]

関連人物[編集]