葛原猪平

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葛原 猪平
くずはら いへい
Ihei Kuzuhara.jpg

選挙区 山口2区
当選回数 1回
在任期間 1928年2月20日 - 1930年2月20日

個人情報
生年月日 1879年12月22日
出生地 山口県吉敷郡小郡町上郷字新町東上
(現在の山口市小郡新町東上)
没年月日 (1942-01-15) 1942年1月15日(62歳没)
死没地 日本の旗 日本
出身校 旧制・高等商業学校(現一橋大学)卒業
ペンシルベニア大学 留学
ウィスコンシン大学 留学
コロンビア大学 修了
前職 会社役員
現職 会社役員
所属政党 立憲政友会
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葛原 猪平
Ihei Kuzuhara
生誕 同上
死没 同上
職業 農商務省海外実業練習生
葛原商会 社長
山口電灯 社長
山陽電気 社長
葛原冷蔵 社長
東洋冷蔵 社長
満蒙冷蔵 社長
子供 葛原輝 次女
親戚 滋野清彦(義父)
滋野清武(義弟)

葛原 猪平(くずはら いへい、1879年12月22日 - 1942年1月15日)は、日本の実業家政治家である。山口電灯(後の山陽電気)、葛原冷蔵の創立者として知られ、衆議院議員もつとめた[1]

人物・来歴[編集]

1879年(明治12年)12月22日山口県吉敷郡小郡町上郷字新町東上(現在の同県山口市小郡新町東上)に生まれる[2]。上京し、旧制・高等商業学校 (現在の一橋大学)を卒業[1]農商務省海外実業練習生となって渡米、ペンシルベニア大学ウィスコンシン大学コロンビア大学政治経済学を修めた。在米し、 ニューヨーク市の貿易会社に入社した[2]

1908年(明治41年)、28歳にして個人商店葛原商会を設立[1]、貿易業に従事する[2]。1912年(大正3年)、31歳のときに山口電灯を設立[1]、都濃電気株式会社を合併して山陽電気株式会社と改称、社長に就任した。小郡電灯株式会社、大津電灯株式会社、長門電気株式会社を買収合併、山口県の電気事業を統一した[2]。1918年(大正7年)、資本金150万円で葛原商会株式会社を設立した[2]

1920年(大正9年)、個人事業として冷凍業を開始し[1]北海道森町に「森冷凍庫」を設け、翌1921年(大正10年)、三菱合資会社から、1900年(明治33年)8月に三菱合資会社三菱造船所(現在の三菱重工業長崎造船所)が建造した江浦丸を買収、冷蔵運搬船に改造した。1922年(大正11年)には葛原冷蔵株式会社を設立、冷凍運搬船を建造した。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、森冷蔵庫の冷凍魚を東京に運び、罹災者に無料配布した[2]。資金を借入金で調達していたため、負債が増大し、1925年(大正14年)に同社は倒産、東洋冷蔵株式会社と改称した。

1928年(昭和3年)、48歳のときに立憲政友会から立候補し、衆議院議員に当選、代議士となる[1]。1930年(昭和5年)には政界を引退した。

1942年(昭和17年)1月15日に死去した[1]。満62歳没。妻足子は滋野清武男爵の姉[3]。次女は伊東深水門下の日本画家の葛原輝(1915年 - )である。

[編集]

  1. ^ a b c d e f g コトバンクサイト内の記事「葛原猪平」の記述を参照。
  2. ^ a b c d e f 高宇『1920年代における水産物冷蔵流通構想と実践 - 葛原冷蔵の創業と失敗について』(『立教経済学研究』、第58巻第2号、2004年)の記述を参照。#外部リンク欄の同項リンク先でPDFファイルが閲覧できる。二重リンクは省く。
  3. ^ 滋野清武 (男性)人事興信録データベース第4版 [大正4(1915)年1月](名古屋大学大学院法学研究科


先代:
賀田金三郎から事業譲渡を受け設立
山口電灯社長
1914年 - 1916年
次代:
平賀敏