葛城氏
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葛城氏 | |
---|---|
氏姓 | 葛城臣 |
氏祖 |
葛城襲津彦 (孝元天皇の後裔) |
種別 | 皇別 |
本貫 | 大和国葛城 |
凡例 / Category:氏 |
葛城氏(かつらぎうじ/かずらきうじ)は、「葛城」を氏の名とする氏族。
古墳時代、大和葛城地方(現在の奈良県御所市・葛城市)に本拠を置いていた有力な古代在地豪族。武内宿禰(たけうちのすくね)の後裔とされる[1]。6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。
概要[編集]
系譜[編集]
葛城氏の始祖である葛城襲津彦(そつひこ)は、『古事記』には武内宿禰(孝元天皇の曾孫)の子の1人で、玉手臣・的臣(いくはのおみ)などの祖とされる。襲津彦以降の氏人としては、葦田宿禰・玉田宿禰・円大臣・蟻臣の名が知られ、その系譜は断片的に復元可能である(系図参照)。 ただ玉田宿禰については、『日本書紀』允恭紀が襲津彦の孫とする一方、雄略紀では子としていて、互いに矛盾する。 同様に円大臣についても、『公卿補任』は玉田宿禰の子とするが、『紀氏家牒』には葦田宿禰の子であることを示唆した記述があって、やはり互いに矛盾している[注釈 1]。
なお近年、葛城氏を北部の葦田宿禰系(葦田宿禰 ─ 蟻臣)と南部の玉田宿禰系(玉田宿禰 ─ 円大臣)の2系統に峻別して考える見解もある[2]。
始祖・襲津彦の伝承[編集]
『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。
襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた[3]。
しかし「沙至比跪」の逸話が史実と見なせるかには疑問の余地があり、これを考慮すると、『書紀』の襲津彦像は総じて没個性的で、各々の記事間にも脈絡がほとんどない。
大王と葛城氏の両頭政権[編集]
葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である荑媛(はえひめ、荑は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を儲けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。
当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る[4]。
衰退と滅亡[編集]
『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。 これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。
ところが安康天皇3年(456年)8月、天皇が暗殺され、円大臣がその下手人である眉輪王を自宅に匿う事件が起きた。大泊瀬皇子(後の雄略)の軍によって宅を包囲された大臣は、王の引き渡しを拒否し、娘と「葛城の宅七区」(記に「五処の屯宅」)とを献上して贖罪を請うたが、皇子はこれを許さず、宅に火を放って円大臣・眉輪王らを焼殺した。
安康暗殺の背景に葛城氏が直接関与していた可能性も指摘されているが、生前の安康は押磐皇子に後事を託そうとしていたという記述(雄略即位前紀)からすれば、むしろ安康(允恭系)と押磐皇子(履中系)・葛城氏との間には王位継承に関する妥協が成立していて、このことに強く反発した大泊瀬皇子が安康を含む敵対勢力の一掃に踏み切ったと解釈することも出来よう[5]。
葛城氏2系統論を支持する研究者の中には、一連の政変で滅びたのは玉田宿禰系のみであって、葦田宿禰系は5世紀末までしばらく勢力を存続させていたと主張する議論もみられるが[6]。
系図[編集]
孝元天皇 | 彦太忍信命 | 屋主忍男武雄心命 | 武内宿禰 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葛城襲津彦 | 玉田宿禰 | 円大臣 | 韓媛 (雄略天皇妃) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
〔生江氏〕 〔玉手氏〕 〔塩屋氏〕祖 | 磐之媛 (仁徳天皇后) | 毛媛 (吉備田狭妻) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
葦田宿禰 | 蟻臣 | 荑媛 (市辺押磐皇子妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
黒媛 (履中天皇妃) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
腰裾宿禰 | 〔下神氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
戸田宿禰 | 〔的氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
熊道足禰 | 〔忍海原氏〕 〔朝野氏〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
◇ | ◇ | 菟上足尼 | 〔穂国造〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ ただし、『紀氏家牒』は、幕末の国学者の注釈に引用の形ではじめて現れるのみで、原本の由来は不明であり、史料性に疑問がある[要出典]。
出典[編集]
参考文献[編集]
- 井上光貞 『日本古代国家の研究』 岩波書店、1965年。
太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 「葛城 カツラギ」 『姓氏家系大辞典』 第1巻、上田萬年、三上参次監修 姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1555-1559頁。 NCID BN05000207。OCLC 673726070。全国書誌番号:47004572 。
- 門脇禎二 『葛城と古代国家 : 河内王朝論批判』 教育社、1984年9月。ISBN 431540151X。 NCID BN00121022。OCLC 632943531。
- 塚口義信「葛城の一言主大神と雄略天皇(日本史学科)」『堺女子短期大学紀要』第20巻、堺女子短期大学、1985年10月、 17-40頁、 ISSN 03892360、 NAID 110000221069。
- 直木孝次郎 「葛城氏とヤマト政権と天皇」、古代を考える会藤沢一夫先生古稀記念論集刊行会編 『古文化論叢 : 藤沢一夫先生古稀記念』 古代を考える会藤沢一夫先生古稀記念論集刊行会、1983年7月。 NCID BN08572171。
- 北郷美保 「顕宗・仁賢即位伝承考」、佐伯有清編 『日本古代史論考』 吉川弘文館、1980年11月。 NCID BN00328166。