苻洪

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苻 洪(ふ こう、284年頃 - 350年3月)は、五胡十六国時代前趙後趙の人物であり、前秦の実質的な創建者。広世。元の名は蒲洪略陽郡臨渭県(現在の甘粛省天水市秦安県の東南)出身の族酋長。前秦の初代皇帝苻健・丞相苻雄の父である。

略歴[編集]

氐族の酋長[編集]

蒲洪の父は蒲懐帰と言い、部落の小帥(部族の中のさらに小さな集団を束ねる者)であったが、12歳の時に亡くなったので蒲洪が後を継いだ。

蒲洪は施しを好み、権謀術数に長けていたという。また、勇猛で武芸に優れ、特に騎射の腕に秀でていた。やがて氐族の酋長となると、氐人はみな敬畏の念を抱いて服従したという。

310年前趙皇帝劉聡は氐族を仲間に引き入れようと目論み、使者を派遣して蒲洪を平遠将軍に任じる旨を伝えたが、蒲洪はこれを受けなかった。その後、護氐校尉・秦州刺史・略陽公を自称した[1]

311年6月、永嘉の乱が起こると、蒲洪は千金を投じて英傑の士をかき集め、今後の身の処し方を協議した。宗族である蒲光・蒲突は、蒲洪を盟主に推戴した。

319年10月、前趙の丞相劉曜が帝位に即くと、蒲洪はその要請に従い、前趙に帰順した。これにより、劉曜より寧西将軍に任じられ、率義侯に封じられた。

328年12月、劉曜が洛陽において後趙石勒に敗北して捕らえられると、蒲洪は隴西に移ってその勢力を保った。その後、後趙の中山公石虎が前趙領の上邽へ侵攻すると、蒲洪は石虎へ帰順を申し出た。石虎はこれに大いに喜び、六夷軍事[2]・冠軍将軍に任じ、涇陽伯に封じ、西方の事業を委ねた。

石虎の寵臣[編集]

333年8月、石勒がこの世を去ると皇太子石弘が後を継いだが、実権は石虎が握った。10月、河東王石生・洛陽を守備する石朗が石虎討伐の兵を挙げると、蒲洪はこの混乱に乗じて後趙から離反し、雍州刺史・北平将軍を自称すると共に西進して前涼君主張駿に帰順した。石虎は将軍麻秋に蒲洪の討伐を命じると、蒲洪は2万戸を伴って再び石虎へ降伏した。石虎はこれを許し、光烈将軍・護氐校尉に任じた。石生らは石虎に滅ぼされた。蒲洪は長安へ入ると、石虎へ「関中の豪傑と氐羌を京師に移して充実させるべきです。諸々の氐人は皆、我が家の部曲です。我が率いたならば一体誰がこれに背きましょうか!」と勧めた。石虎はこれに同意し、秦州・雍州の民と氐族・羌族の10万戸余りを関東へ移住させた。そして、蒲洪を龍驤将軍・流民都督[3]に任じ、枋頭(現在の河南省鶴壁市浚県)に駐屯させた。

これ以降、石虎の下で幾度も戦功を上げ、大いに重用されるようになったという。

338年2月、段遼征伐にも従軍し、その討伐に大いに貢献した。これにより、光烈将軍に任じられ、侯に爵位を進められた。

338年5月、使持節・都督六夷諸軍事・冠軍大将軍に任じられ、西平郡公に封じられた。さらに、彼の部下2千人余りも関内侯の爵位を賜り、蒲洪は関内領侯将となった。石虎の養孫である修武県侯石閔は石虎へ「蒲洪は才知傑出しており、彼の将兵はみな死力を尽くしており、その諸子も非凡な才覚を有しております。その上、強兵5万を擁して都城近郊に駐屯しております。秘密裏にこれを除き、国家を安定させるべきです」と進言したが、石虎は「我はまさに彼ら父子を頼みとして東呉(東晋)と巴蜀(成漢)を攻め取らんとしているのだ。どうして殺さなければならんのだ!」と言い、逆にますます厚遇するようになった。

346年5月、後趙の中黄門厳生は尚書朱軌に恨みを抱いており、当時長雨が続いて道路整備が滞っていた事もあり、厳生は朱軌が道路の補修を怠り、さらに朝政を誹謗していると讒言した。その為、石虎は朱軌を捕らえたが、蒲洪は「陛下は既に襄国・鄴の宮殿を有しており、その上で長安・洛陽の宮殿を修復しておられます。一体これを何に用いるというのでしょう。また、猟車を千乗も造り、数千里も囲って禽獣を養われ、人妻10万人余りを奪って後宮に入れておられます。聖帝明王がこのような事を為しましょうか?今また、道路が修繕されていないという理由で尚書を殺そうとしておられますが、これは陛下が徳のある政治を修められない事から、天が7旬にも及んで淫雨を降らせたのが原因ではないでしょうか。しかも。晴れてからまだ2日であり、これでは100万の鬼兵を用いたといえども、道路の破損を除く事など出来ません。ましてや、これは人がやる事です!政刑がこのようでは、四海はどうなりましょうか!後の代はどうなりましょうか!願わくばこの作役を中止し、苑囿(動物の囲い場)を廃止し、宮女を返し、朱軌を赦免し、衆人の望みに応えて下さいますよう」と、強く諫言した。石虎はこれを快く思わなかったが、蒲洪を処罰する事は無かった。また、長安と洛陽の労役については中止としたが、朱軌は処刑された。これ以降、石虎は「私論朝政の法」を立法し、官吏がその上司を、奴隷がその主人を告発することを許可したが、これによって公卿以下の朝臣は目を合わせて意思を疎通させるようになり、必要以上に談話しなくなった。やがて車騎将軍に昇進した。

後に渡来僧である仏図澄もまた石虎へ「蒲氏には王の気が見られます。急ぎこれを除いてくださいますよう。」と請うたので、石虎は次第に蒲洪を殺そうと考えるようになった。その為、蒲洪は病と称して入朝しなくなった。

349年1月、高力督梁犢が謀反を起こし、その数は10万にも及んだ。反乱軍は長安・洛陽を突破し、滎陽・陳留へ侵犯し、後趙軍はこれに幾度も敗北した。蒲洪は征虜将軍石閔・燕王石斌・統冠将軍姚弋仲と共に滎陽において梁犢を大破し、梁犢の首級を挙げた。さらに、その残党勢力も掃討した。功績により、蒲洪は車騎大将軍、開府儀同三司・都督雍秦州諸軍事・雍州刺史に任じられ、略陽郡公へ改封された。

枋頭に割拠[編集]

4月、石虎が逝去し、石世が後を継いだが、まだ幼かった事から母の劉皇太后太保張豺が政権を握った。この時、蒲洪は姚弋仲・石閔・劉寧・王鸞らと共に梁犢討伐から帰還の途上であったが、李城において彭城王石遵と面会した。彼らは共に「殿下(石遵)は年長であり、聡明であります。先帝(石虎)も本来は殿下を世継ぎとなるお考えでした。ですが、老耄であった事から張豺の口車に乗せられたのです。今、女主(石世の母である劉皇太后)が朝廷に臨み、姦臣(張豺)が政治を乱しております。上白(上白城に拠って石世と対立していた李農のこと)が持ちこたえておりますので、宿衛(皇帝を護衛する兵が宿直する場所)に兵卒はおりません。殿下がもしも張豺の罪を数え上げ、軍鼓を鳴らして進撃すれば、全ての者が馳せ参じて殿下を迎え入れるでしょう。」と進言した。これにより石遵は挙兵を決断した。5月、石遵は鄴を攻略すると、石世を廃して自ら即位した。

同月、石閔は石遵へ「蒲洪は人傑です。今、蒲洪に関中を任せておりますが、臣は秦・雍の地が国家の有するもので無くなるのを恐れております。先帝臨終の命(蒲洪を関中へ置くのは石虎の遺命)といえども、既に陛下がこれを継いでいるのですから、自ら改めても差し支えないかと」と勧めた。石遵はこれに従い、蒲洪の都督職を免じた。蒲洪はこの処遇に怒り、枋頭へ帰って東晋へ帰順してしまった。

11月、石閔は石遵を殺害し、代わって石鑑を皇帝に擁立し、実質的に政権を掌握した。これ以降、各地で兵が起こり、秦州・雍州からの流民は西へ帰還しようと謀った。彼らはその途上で枋頭に入ったが、この時共同で蒲洪を首領に推戴した。これにより蒲洪の擁する兵は10万を超えた。

12月、襄国を鎮守していた後趙の新興王石祗は石閔とその側近である李農の誅殺を掲げて決起すると、蒲洪もまた姚弋仲らと共にこれに応じた。

自立を目論む[編集]

蒲洪の子である蒲健は鄴城に留まっていたが、関所を破って枋頭へ逃亡した。石鑑は蒲洪がすぐ近くで勢力を保っているのを恐れ、再び彼を懐柔しようと謀り、都督関中諸軍事・征西大将軍・雍州牧・領秦州刺史に任じた。蒲洪は配下の官吏を召集すると、この任を受けるべきか否かを協議した。主簿程僕はひとまず後趙に帰順し、諸侯のように土地を分け与えて貰い、これを治めるよう勧めた。蒲洪はこれに激怒して「我には天子に配する事は出来ないというのか?どうして汝は諸侯となって土地を分け与えて貰うなどと言う話をするのか!」と詰問し、程僕を引っ立てて殺害した。

350年1月、東晋の穆帝より氐王・使持節・征北大将軍・都督河北諸軍事・冀州刺史に任じられ、広川郡公に封じられた。さらに、子の蒲健は仮節・右将軍・監河北征討前鋒諸軍事に任じられ、襄国公に封じられた。

同月、蒲洪は密かに関西に割拠しようと目論んでおり、姚弋仲もまた同じ考えを抱いていた。姚弋仲は子の姚襄に5万の兵を与えて蒲洪を攻撃させたが、蒲洪はこれを迎撃して大勝を挙げ、3万以上の兵を討ち取った。

安定出身の梁楞らを始めとした関西の民はみな、蒲洪へ「胡運(後趙の国運)はまさに終わり、中原は騒乱しておりますが、明公の神武は必ずや大業を成し遂げる事でしょう。周漢に倣って尊号を称し、四海の望みに従ってくださいますよう」と勧めた。また、讖緯には「艸付應王」とあり、孫の蒲堅の背には「艸付」の字があった。この事から、苻洪と名を改め、大都督大将軍大単于・三秦王を自称した。さらに、南安出身の雷弱児を輔国将軍に任じ、安定出身の梁楞を前将軍・左長史に任じ、馮翊出身の魚遵を後将軍・右長史に任じ、京兆出身の段純を左将軍・左司馬に任じ、王堕を右将軍・右司馬に任じ、天水出身の趙倶・隴西出身の牛夷・北地出身の辛牢を従事中郎に任じ、氐族酋長の毛貴を単于輔相に任じられた。苻洪は博士胡文へ「我が兵10万を率い、堅牢な地を抑えれば、冉閔・慕容儁など望めばいつでも滅ぼせよう。姚弋仲・姚襄父子に打ち勝つのも我が術中の内である。我が天下を取るのは、高祖より容易いだろう。」と語った。

最期[編集]

同月、後趙の征東将軍麻秋は鄴へ向かっていたが、苻洪は子の龍驤将軍苻雄にこれを撃たせ、麻秋を捕らえた。苻洪は麻秋を登用し、軍師将軍に任じた。

3月、麻秋は苻洪へ「冉閔と石祗の対立により、中原の動乱はまだ終わらないでしょう。この機に乗じて関中を平定し、覇業の基礎を築くのです。その後に東進して天下を争えば、誰も敵わないでしょう」と薦めると、苻洪はこれに同意した。だが、麻秋は密かに苻洪の軍を奪う事を目論んでいた。ある時、宴会の席で苻洪の酒へ毒を盛って殺害し、彼の配下の兵を奪おうとした。目論み通り苻洪は毒を飲んでしまい倒れたが、苻健により麻秋は捕らえられて処刑された。

苻洪は死に臨んで苻健へ「我が以前入関しなかったのは、先に中原を安定させるべきであると考えたからだ。我は今、秋の如き豎子により不幸に遭ってしまったが、中原の平定は汝ら兄弟ではどうにもならんだろう。関中は天形勝であるから、我が死後はすぐに西へ向かうのだ」と遺言し、間もなく亡くなった。享年66であった。

351年1月、苻健が天王に即位すると、恵武皇帝[4]と追諡され、廟号太祖とされた。

逸話[編集]

祖先について[編集]

有扈氏(初期の有力な豪族。夏王朝を興した夏后氏と同じ姒姓である)の末裔であると言われており、彼の祖先は代々西戎酋長であった。

また、元々の姓は蒲でも苻でも無かった。その家の中にある池には、長さ五丈で竹のような形をした五つの節がある蒲草が生えており、人々よりその家は蒲家と呼ばれていた。その為、いつしかこれを姓にしたのだという。

出生[編集]

蒲洪の生まれる前、隴西で大雨が降って百姓は苦しみ、この時「もし雨が止まないならば、洪水は必ずや起きる事だろう」という謠言が流行った。これに因み、蒲懐帰は自らの子を洪と命名したという。また、十六国春秋によると、母の姜氏は寝ている時に蒲洪を生み、驚いて目を覚ましたという。

孫の苻生[編集]

苻健の子である苻生は幼い頃から無法な行いを繰り返しており、苻洪は彼を強く忌み嫌っていた。苻生は生まれた頃から隻眼であり、幼少の頃苻洪はふざけて侍者へ「片目の子は片方からしか涙を流さないと聞いているが、まことかね?」と問うと、侍者はこれに同意した。苻生はこれに怒り、佩刀を用いて自らを刺して流血させ「これもまさか涙と言うのですかな」と言い放った。苻洪はこれに大いに驚き、苻生を鞭打った。苻生は「生来、刀刺を恐れた事などありませんが、どうして鞭打ちをも我慢できましょうか」と言うと、苻洪は「汝が行動を改めなかったならば、我は汝を奴隷に落とそう」と言った。だが、苻生は「まさか石勒には及びますまい」と反論したので、苻洪は驚いて素足のままで苻生の口を塞ぎ、父である苻健へ「この子は非常に残暴であり、すぐに除くべきだ。さもなくば、必ずや家人を損なう事になる」と言った。これにより、苻健は苻生を殺そうと考えたが、末子の苻雄が「子供は成長すると自然に改めるものです。どうしてこのような事をする必要があるのです!」と諫めたので、苻健は思い止まったという。

宗室[編集]

父母[編集]

  • 蒲懐帰 - 部落小帥
  • 姜氏

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  • 苻安 - 武都王

従弟[編集]

  • 苻侯 - 永安威公

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脚注[編集]

  1. ^ 十六国春秋によると、この話は劉曜即位後と記載されている。
  2. ^ 十六国春秋では、監六夷諸軍事と記される
  3. ^ 晋書では流人都督と記される
  4. ^ 資治通鑑では武恵皇帝と記される

参考文献[編集]