藤原公定 (参議)

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藤原公定
時代 平安時代後期
生誕 永承4年(1049年
死没 承徳3年7月1日(1099年7月21日))
別名 高松宰相
官位 正三位参議皇太后宮権大夫
主君 後冷泉天皇後三條天皇白河天皇堀河天皇
氏族 藤原北家小野宮流
父母 父:藤原経家 (権中納言)、母:大江定経の娘
兄弟 定綱、公圓
不明
公通、宗圓、公観、公伊、尊胤
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藤原 公定(ふじわら の きんさだ)は、平安時代後期の公卿参議正三位皇太后宮権大夫高松宰相と号す。父は正二位権中納言藤原経家、母は美濃守大江定経女。歌人として著名な藤原公任の曾孫に当たり、公任の子孫としては最後の公卿である。

経歴[編集]

以下、『公卿補任』及び『尊卑分脈』の内容に従って記述する。

無月宰相[編集]

袋草子』には白河院が鳥羽殿にて9月13日夜に池上月という題で歌会を催したところ、公定は無月の歌を詠じたため「無月宰相」と呼ばれるようになった、との譚が記されている[7]

高松宰相の由来[編集]

公定が高松宰相と号したことは『尊卑分脈』と『袋草子』に記されているが、この「高松」とは高松殿のことかと考えられる。曽祖父公任の女が藤原教通に嫁して信長らを産んだことが知られている[8]が、道長一家との縁戚関係が生じたことから公定は高松殿に住んでいたと考えられる。そのため居所にちなんで「高松宰相」と呼ばれた可能性がある。

系譜[編集]

  • 父:藤原経家 (権中納言)
  • 母:大江定経の娘
  • 生母不明の子女
    • 男子:公通
    • 男子:公円
    • 男子:公観
    • 男子:公伊
    • 男子:尊胤

脚注[編集]

  1. ^ 氏の叙爵。
  2. ^ 太皇太后宮当年御給。
  3. ^ 関白が先坊傅賞を譲る。
  4. ^ 上東門院、延久元年朔旦未給。
  5. ^ この時、散位前斎院長官。
  6. ^ 上東門院御給。
  7. ^ 『袋草子』第三、『群書類従第十六下』、續群書類従完成会。
  8. ^ 小町谷照彦『藤原公任』224頁〜225頁

出典[編集]

  • 公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編)
  • 袋草子』、『群書類従第十六下』、續群書類従完成会
  • 藤原公任』、王朝の歌人7、小町谷照彦、集英社