藤原喜明

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藤原 喜明
Yoshiaki Fujiwara
藤原 喜明 Yoshiaki Fujiwaraの画像
プロフィール
リングネーム 藤原 喜明
本名 藤原 喜明
ニックネーム 関節技の鬼
組長
昭和のテロリスト
問答無用の仕事師
身長 185cm[1]
体重 102kg
誕生日 (1949-04-27) 1949年4月27日(70歳)
出身地 岩手県和賀郡江釣子村(現:北上市
所属 藤原組
ウォーターオリオン
スポーツ歴 柔道
剣道
トレーナー アントニオ猪木
カール・ゴッチ
山本小鉄
デビュー 1972年11月12日
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藤原 喜明(ふじわら よしあき、1949年4月27日 - )は、日本プロレスラー。学校法人日本医科学総合学院理事長。同学校法人は文部科学省認可の専修学校朋友柔道整復専門学校を運営している。

プロレスラー以外に俳優声優タレントイラストレーター陶芸家エッセイストとして活躍している。「関節技の鬼」という異名をとり「藤原組長」の愛称で親しまれている。

来歴[編集]

後にイラストレーターとして活動することもあったが小学校時代は絵が嫌いであり、絵の授業を担当する教師がこうしろああしろというのが嫌だったというのを2017年に行われた画家の五木田智央との対談で明かしており、学校の美術担当の教員に関しては「絵描きになり損ねたヤツらばっかりなんだから、そんなことを言うあれじゃないんだよ」と批判している[2]岩手県立黒沢尻工業高等学校時代、体育と応用力学、機械工作の評定は5であり、非常に器用であった。体育は高1の時は3であったが、16歳から始めた自己流のトレーニングの成果が出たため高2で4、高3で5と少しずつ高くなった[3]。高校卒業後、サラリーマンや板前を行っていた。サラリーマン時代は『プレイボーイ』や『平凡パンチ』などを読んで、面白いと思ったページを破いて、それを見て絵を描いていた。

1972年11月2日に23歳で新日本プロレスに入門。そして入門の10日後である同月12日に和歌山県白浜町坂田会館にて藤波辰巳相手にデビュー戦を行う。新人時代からカール・ゴッチに師事して、関節技をはじめとするレスリングの技術を学ぶ。1975年、第2回カール・ゴッチ杯木村たかしを破り優勝。道場での若手選手のコーチ役を担い、関節技に磨きをかける。アントニオ猪木のスパーリング・パートナーにも抜擢ばってきされ、海外遠征にも同行した。海外では1976年秋にドイツにてホースト・ホフマンクリス・テイラーと対戦[4]1978年11月にローラン・ボックが猪木を招聘して開催したツアーにも同行しており、ミレ・ツルノウィレム・ルスカピート・ロバーツジョニー・ロンドスらと対戦した[5]

1978年にはMSGシリーズの第1回大会に出場、予選トーナメント1回戦でマーティン・ジョーンズを下すも、2回戦でチーフ・ジェイ・ストロンボーに敗退、敗者復活戦でもバロン・シクルナに敗れて決勝リーグ進出は果たせなかった[6]1979年の第2回大会においても、カネックに連敗して予選ブロックで姿を消している[7]

猪木の用心棒的な存在としてセメントの強さには定評があったものの、華やかさに欠ける藤原は、前座レスラーのポジションから脱することはできなかった[8]。しかし、1984年2月3日の札幌中島体育センター大会において、長州力をタイトルマッチ直前の花道で襲撃、テロリストとして一躍脚光を浴びる。長州襲撃は猪木の指示で行われたとされる[9]。以降、長州力率いる維新軍団との抗争で無くてはならない存在になる(テレビ朝日の『ワールドプロレスリング』にも毎回登場するようになり、独特の人相やファイトスタイルも相俟って一躍知名度が上がった)。

その後は愛弟子の移籍に伴い、同年6月に第1次UWFに参加。ここでようやく持ち前の関節技のテクニックを披露し、関節技の藤原vs.キックのスーパータイガー佐山聡)の試合は今までのプロレスになかったリアリティある名勝負となり、プロレスマスコミのバックアップもあり硬派のファンの注目を集める。新日本復帰、第2次UWF参加を経て、1991年3月にプロフェッショナルレスリング藤原組を旗揚げしたが、1993年パンクラス1995年格闘探偵団バトラーツが分裂するという、2度に及ぶレスラーの大量離脱を経て、団体としての機能を失った。以後はフリーランスとして選手活動を続けている。

1993年1994年と2年連続で古巣・新日本の真夏の祭典「G1 CLIMAX」に出場。1995年には「イノキファイナルカウントダウン」第4弾で師・猪木とシングル対決した。1996年ドン荒川とともに全日本プロレスに初参戦、6人タッグながらジャイアント馬場との対戦が実現。1997年にはWARに出場し、天龍源一郎アブドーラ・ザ・ブッチャーとのシングルマッチが行われた。その後もメジャー、インディー問わず、数多くの団体に参戦している。

その技術を見込まれ、男女問わず(特に神取忍は弟子といっても良い関係で各種の関節技および一本足頭突きを伝授されている)指導を請う後輩レスラーも多い。指導者としては「指導を受けるレスラーに苦しい思いをさせることで、その辛さから逃れるために楽をすること(つまりテクニック)を身に着けるように促す。テクニックを覚え始めたそこから段階を踏んで、教えた後で「結構いけるな」と思ったら格下とスパーリングさせ、そこで技が面白いように決まったらコーチの仕事は90%終わりである」という考えの持ち主である[10]ZERO-ONE(現ZERO1)時代はフリーとしての参戦ながら橋本真也のタッグパートナーや若手選手の指導員としても貢献する。ただし、指導はしても弟子は取らないと発言していて、弟子入り志願者にはバトラーツに行くように勧めている。

2007年噴門部(入り口)付近に4センチ大の胃癌が見つかり、胃の2分の1を切除した。手術は3時間で終了したが、痛み止めの存在を知らず地獄の痛みに苦しむ。その後の病理検査リンパ節転移が見つかったことを知らされ、病期は3a期と確定した。3期の5年生存率は41.8パーセントであった。術後18日目に、抗がん剤治療が始まった。TS-1(一般名テガフール・ギメラシル・オテラシルカリウム)の単剤で4週間服用、2週間休薬を1クールとし、それを6クール行うというものだった。TS-1は胃がんの場合、奏効率は46パーセントと高く、副作用も抗がん剤の中では比較的強くないとされるが、87パーセントの患者に何らかの副作用が出るとのことだが、TS-1を予定通り、6クール続けたあと、薬が同じ5-FU系の経口抗がん剤UFT(一般名テガフール・ウラシル)の少量投与に変わり、副作用もほとんど無くなり、筋力トレーニングができるようになった。手術の後遺症としては、ダンピング症候群(食物が胃にとどまらずに、急速に腸まで落ちてしまうこと。胃の中で撹拌され、少しずつ腸に送り出されていた食物が、胃切除後は、未消化のままいちどに腸に流れ込むため、血糖値の変動や各種ホルモン分泌などによって、不快な諸症状が起こる)が出たがプロレスの試合に出られるまで回復した[11]。現在も不定期ながらリアルジャパンプロレスドラディション全日本プロレスなどのリングに上がっている。IGFにも参加し猪木に協力している。近年では新日本プロレスのレッスルキングダムにおけるニュージャパンランボーに2年連続で出場している。

リング外での活動[編集]

芸能活動も行っており、出演したテレビ番組、映画オリジナルビデオは多数。その風貌から暴力団関連の役が多い。また、イラスト執筆、盆栽浪曲鑑賞、陶芸などの多趣味でも知られる。ビデオ作品においては『SAEKO』という作品で、当時まだデビュー間もない無名時代の常盤貴子主演の作品で共演しており、常盤演じるSAEKOの用心棒役で、その役名も藤原で常盤に「ふじわらーっ」と呼ばれていた。

オールスター感謝祭』(TBSで毎年春・秋の特番)においてはよくスポーツ物のアトラクションがあり、相撲もよく催されるが、藤原とチャック・ウィルソン一騎討ちというのが恒例となっていた。テリー伊藤企画のテレビ番組で、と戦ったこともある(爪をカットした熊である)。熊は力が強すぎて、観あうだけで何も出来ず終わってしまった。ただ、後にこの対戦に関して格闘技に関する本に「何もしないのが最大の防御(下手に踏ん張るとダメージが大きくなる)だった」と記述されている。[要出典]

テレビゲーム『龍が如く』シリーズには伝説の情報屋「サイの花屋」役としてレギュラー出演している。

藤原自身は「好きなことだけをやって生活してこられたのは、本当に幸せなことだと思っている」とし、「漠然としたイメージではあるけれど、アーティストと呼ばれるのが一番うれしいかもしれない。どれが本業でどれが副業ということはなく、全て私の職業である」と述べている[12]

近年は総合格闘家柔術家などにグラップリングを教えており[13]、海外からの招聘も受けている。藤原をはじめ新日本プロレスの選手たちがカール・ゴッチより指導されていたのは、ゴッチ自身がビリー・ライレージムで学んだキャッチ・アズ・キャッチ・キャンであり、その技術が日本で生き延び今また注目される、という90年代におけるブラジリアン柔術のような様相となっている。

総合格闘技黎明期、専門誌に対し「自分はあんな馬乗りになって人を殴るなんてできない」と否定的なコメントをしていたが、後年は「自分はテイクダウンが上手くないので、試合に出ても難しいと思いますよ」と客観的な意見も述べている。

エピソード[編集]

  • 23歳での新日本プロレス入門であったため、16歳で入門した小林邦昭よりも1週間ほど後輩である。
  • 前座時代は「イラストが得意」「無口」で有名だった。なお、イラストについては、“テロリスト”として脚光を浴びる前から、東京スポーツ刊行の隔週タブロイド誌「ザ・プロレス」で読者投稿の批評コーナーを持っていた。また、1982年頃の新日本プロレスのパンフレットの選手紹介が写真ではなく藤原のイラストとなっており、各選手の特徴をとらえた秀作で評判だった。
  • 1978年パラマウント映画がんばれ!ベアーズ大旋風 -日本遠征-』に、アントニオ猪木の付き人役で出演するが、セリフは一言もなかった。
  • 頭が固く、場外からエプロンに上がってきたところで相手に頭をコーナーの金具にブチ当てられ「カチン!!」という乾いた音が蔵前国技館の二階席最上部にまで届くが平然とし、自ら金具の防護布を取って金具に頭をカチン、カチンとぶつけてリングインして相手に一本足頭突きを見舞うというパフォーマンスを得意としていた。また、パイプ椅子で脳天をブチ抜かれても平然とし、リングインして一本足頭突きを見舞うという常人にはできないことをやっていた。
  • 「長州襲撃事件」以前には2回だけテレビマッチに登場しており、1982年1月1日に後楽園ホールで開催された『新春スーパー・ファイト』でのカール・ゴッチとのエキシビションマッチと、1983年9月の『ブラディ・ファイト・シリーズ』第20戦における木村健吾と組んでのディック・マードック&バッドニュース・アレンとのタッグマッチがテレビで放送された。
  • 新日本に出戻っていた時期(1986年)に、東芝EMIより「湯の町ひとり」というシングルを出している(ただし、UWF事務所での通信販売のみ)。
  • 1987年のナウリーダーズ(旧世代軍:猪木、マサ斎藤坂口征二星野勘太郎武藤敬司ら)対ニューリーダーズ(新世代軍:藤波、長州力前田日明、木村健吾、スーパー・ストロング・マシンら)の軍団戦ではナウリーダーズに組み入れられるも、ニューリーダーズの藤波や木村よりも後輩であった。
    • 2009年9月に放送された「アメトーーク 俺たちのプロレスオールスター戦」において、この軍団戦で、藤原から膝十字固めを決められた木村が「いたーい!ダメダメダメ。助けてー!!」と叫びながらギブアップ負けした映像が紹介された。
  • 入場時に花束贈呈が行われていた時代、藤原は花束を受け取るとすぐさま観客席に放り投げていた。
  • 「スポーツドリンク」と称して酒を飲むパフォーマンスがある。酒が入っている状態では饒舌なためトークイベントなどでは酒を用意していることも多い。ただし酒はかなり強く大量に飲んでも泥酔はおろか意識がはっきりしていて会話も普段通り行える。
  • 若いころは日本酒を5合から6合飲んでおり、一番多いときには6日で日本酒を5升飲んだことがある。しかし胃がんになってからはビールは腹が張るため日本酒やウイスキーにしている。今でも酒は飲んでいるが、2017年の記事によると半年に1回の血液検査では医者から「酒は飲んでないの?」と聞かれるほど良い肝機能の数値がでるという[14]
  • 巡業先の旅館で連日、ドン荒川佐山聡らと女風呂を覗きに行った。
  • プロレスマスコミのインタビューに対し、おふざけが多いことでも知られる。毎年作成された雑誌企画のレスラー名鑑の「抱負」の欄にダジャレをコメントする。またUWF所属の頃に抱負を聞かれて、「PWFのチャンピオンになる」と答えた。当時、全日本プロレスとUWFの間に接点がなかったことや藤原自身が説明をしなかったことから、謎として残ったが、後に自ら興した団体を「新生UWF・藤原組」から「プロフェッショナルレスリング藤原組」に改称した際に、その略称がPWFとなると気付いたプロレスマスコミが納得して、改めて当時の抱負を紹介した、というエピソードがある。
  • 閉所恐怖症であり、24時間テレビで「箱の中身はなんでしょねゲーム」で箱の中身役になるも、恐怖のためウイスキーを飲んで誤魔化していた。出てきた際に出演者は藤原よりも、ウイスキーを飲んでいたことにびっくりしていた。
  • 漫画家大橋ツヨシの作品に、彼を主人公とした4コマ漫画『藤原でございます』がある。
  • 作家増田俊也の自伝的小説「七帝柔道記」には、増田が柔道で得意技にした脇固めは藤原の技術をビデオで繰り返し見て研究し、身に着けたものだと記述されている。
  • 新日本プロレスに度々訪れた道場破りの多くと対戦したと語っている。詳細はリンク先を参照。
  • プロレスラーという職業に関しては、自分は稼げなくなって金に困ったら自殺すればいいと思っているが、一方で仕事としての不安定さ、ギャンブル性を面白く思っている。藤原はこれを「動物で例えるなら、ペットになるか、野生で生きるかだ」と2017年の専門誌の人生相談コーナーで述べている[15]
  • 離合集散が多く、選手の仲違いが話題になることも多かった新日本プロレスだが、藤原は「選手みな仲が良く、いじめもなく、それまでにいたどの職場よりも楽しかった」という趣旨の発言をアントニオ猪木関連本のインタビューで述べている[16]
  • 得意技[編集]

    「使う技すべてが得意技」という藤原だが、代表的な技をあげると以下のようになる。

    脇固め
    藤原喜明に由来した技名フジワラ・アームバーの名前で、世界中のレスラーに用いられている技。
    第1次UWF最後の試合でジャーマン・スープレックスを狙った佐山聡の顔面をバックエルボーで打ち、ひるんだところをエルボーを入れた逆側の腕を取り瞬時に極めてギブアップを奪ったこともある。
    ヘッドバット
    藤原の場合は大木金太郎のように一本足スタイルで放つ。とにかく頭が固く、コーナーポストのカバーを外された金具が剥き出しになっている状態で相手に頭を打ち付けられても平然とした表情ですまし、相手が辟易とするシーンはよく見られる。また、相手が対抗してヘッドバットをしかけても全く効かず、相手の方が逆にダメージを受ける場合もある。また、あるバラエティ番組の企画で100人連続ヘッドバットをおこなったことがある。
    アキレス腱固め
    元は道場でのスパーリングなどで使われていた裏の技なのだが、第1次UWF時代に頻繁に披露されたことで脚光を浴びるようになった。第2次UWF時にはスタンディング式で極めてみせたこともある。
    1986年2月の猪木対藤原戦において、藤原のアキレス腱固めをかけられた猪木が上半身を起こしながら「そっちじゃねえ、コッチだ」と極める方向を指差しながら挑発した。
    腹固め
    腹固めは両脚で相手の片腕を極める技。さらに自分の両腕で相手のもう一方の片腕を制する場合もある。
    クルック・ヘッドシザース
    相手の頭を両脚で挟み、首をねじ切る。主にUWFで使用。
    ドリル・ア・ホールパイルドライバー
    現在はあまり使わないが、新日の前座時代の得意技である。

    最近では海外からの関節技講師の依頼も多く、2006年には米国に2回、2008には米国・サンフランシスコで関節技を主とするレスリングセミナーを行った。

    海外で人気の出たキラー・カーンが帰国後に突如、藤原との対戦が組まれ、彼が持つ本来の実力を知るカーンがリングから逃亡したことがあった(記録はリングアウト)。

    タイトル歴[編集]

    入場テーマ曲[編集]

    新日本プロレスの前座時代は別の曲の時代もあった。当初はクラシックオペラ)の曲は藤原の柄にも合わないと批判の声すら上がったが、藤原の注目度と共に妙にマッチするようになり、現在ではイントロだけで拍手喝采である。

    出演作品[編集]

    テレビドラマ[編集]

    映画[編集]

    オリジナルビデオ[編集]

    ゲーム[編集]

    バラエティ[編集]

    CM[編集]

    著書[編集]

    • 藤原喜明のスーパー・テクニック―最強の関節技全公開(1986年5月 講談社 ISBN 4061015117)
    • 藤原喜明の必殺十番勝負―スーパー・テクニック2(1987年11月 講談社 ISBN 406101515X)
    • 男の真剣勝負―I Fight In Dead Earnest.(1994年6月 ベストブック ISBN 4831492124)
    • 復刻 幻の藤原ノート――「ゴッチ教室」の神髄(2009年12月 講談社 ISBN 4062158752)
    • 覚悟 人生60年、覚悟が生死をわけた!(2010年3月 ビジネス社 ISBN 4828415688)

    脚注[編集]

    1. ^ 183cm、186cm、188cmと表記するメディアも存在する。
    2. ^ KAMINOGE 2017, pp. 84-85
    3. ^ KAMINOGE 2017, pp. 94-95
    4. ^ The IBV matches fought by Yoshiaki Fujiwara in 1976”. Wrestlingdata.com. 2018年9月22日閲覧。
    5. ^ The VDB Top Catch matches fought by Yoshiaki Fujiwara in 1978”. Wrestlingdata.com. 2018年9月22日閲覧。
    6. ^ NJPW 1978 The 1st Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2018年9月12日閲覧。
    7. ^ NJPW 1979 The 2nd Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2018年9月12日閲覧。
    8. ^ ミスター高橋『新日本プロレス伝説 「完全解明」』宝島社〈宝島SUGOI文庫〉、2009年、139頁。ISBN 4-7966-7049-1。
    9. ^ 藤原喜明 (2015年1月8日). 雪の札幌で長州力を襲撃…藤原喜明<4>. インタビュアー:二居隆司. YOMIURI ONLINE, 読売新聞社.. オリジナルの2015-07-22時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150722091842/http://www.yomiuri.co.jp/life/special/prowres/20150603-OYT8T50195.html 2015年7月22日閲覧。 
    10. ^ KAMINOGE 2017, pp. 86-87
    11. ^ 吉田健城 (2018年9月). “ラッキーという細い糸がつながったからこそ、俺は生きている”. がんサポート. エビデンス社. 2019年6月2日閲覧。
    12. ^ 藤原喜明、斎藤文彦(文)『覚悟 人生60年、覚悟が生死をわけた!』、2010年、[要ページ番号]ISBN 978-4-8284-1568-0。
    13. ^ 関節技の鬼!プロレスラー藤原喜明先生のセミナー#1 格闘技をやる者の心構え 袈裟固めからのアタック”. BJJ CHANNEL. 2018年4月21日閲覧。
    14. ^ KAMINOGE 2017, pp. 92-93
    15. ^ 週刊プロレス』2017年9月13日号、ベースボール・マガジン社、 57頁。
    16. ^ 『アントニオ猪木50Years』上巻、週刊プロレス(責任編集)、ベースボール・マガジン社、2010年、[要ページ番号]ISBN 978-4-583-61677-3。
    17. ^ 『龍が如く 維新!』キャラクター配役を大公開!”. 『龍が如く 維新!』公式サイト. 2013年9月9日閲覧。
    18. ^ 横山昌義(@yokoyama_masa)による2015年12月9日のツイート2015年12月14日閲覧。

    参考文献[編集]

    関連項目[編集]