藤原秀郷

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藤原秀郷
Yoshitoshi Fujiwara no Hidesato.jpg
「藤原秀郷龍宮城蜈蚣射るの図」
月岡芳年画『新形三十六怪撰』より)
時代 平安時代中期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 俵藤太、田原藤太(通称)
墓所 群馬県伊勢崎市赤堀今井町の宝珠寺
栃木県佐野市新吉水町の藤原秀郷公墳墓
官位 従四位下、下野守、武蔵守鎮守府将軍
正二位
氏族 藤原北家魚名
父母 父:藤原村雄、母:下野掾鹿島某の娘
兄弟 姉妹:平国香[1]
源通の娘、秦氏の娘
千常、千時、千晴、千国、千種
平将門と会見する秀郷。江戸時代成立の御伽草子『俵藤太物語』では、饗応の席で将門が袴に飯をこぼし、それを無造作に払いのける軽率さを見て、秀郷は将門を討つ決意を固めたとされる[2]
月岡芳年画『大日本名将鑑』より(1880年

藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族豪族武将下野藤原村雄の子。

室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山百足退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により従四位下に昇り、下野・武蔵二ヶ国の国司鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。死後、正二位追贈された。源氏平氏と並ぶ武家の棟梁として多くの家系を輩出した。

出自[編集]

藤原北家魚名流が通説とされ、武門の功績や身分から辿っても藤原魚名流が最も有力な説である。下野国史生郷の土豪・鳥取氏いう説もあり、[3]古代から在庁官人を務めた秀郷の母方の姓を名乗ったとする説もあるが定かではない。

俵藤太田原藤太、読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」、藤太は藤原氏の長、太郎」の意味)という名乗りの初出は『今昔物語集』巻25「平維茂 藤原諸任を罰つ語 第五」であり、秀郷の同時代史料に田原藤太の名乗りは見つかっていない。由来には、相模国淘綾郡田原荘(秦野市)を名字の地としていたことによるとする説、幼時に山城国近郊の田原に住んでいた伝説に求める説、近江国栗太郡田原郷に出自した伝説に求める説など複数ある。

経歴[編集]

生年は不詳だが、将門討伐のときにはかなりの高齢だったといわれている。

秀郷は下野国在庁官人として勢力を保持していたが、延喜16年(916年)隣国上野国衙への反対闘争に加担連座し、一族17(もしくは18)名とともに流罪とされた。しかし王臣子孫であり、かつ秀郷の武勇が流罪の執行を不可能としたためか服命した様子は見受けられない[注 1]。さらにその2年後の延長7年(929年)には、乱行の廉で下野国衙より追討官符を出されている。唐沢山(現在の佐野市)に城を築いた。

天慶2年(939年)、平将門が兵を挙げて関東8か国を征圧する(天慶の乱)と、甥(姉妹の子)[1]である平貞盛藤原為憲と連合し、翌天慶3年(940年)2月、将門の本拠地である下総国猿島郡を襲い乱を平定。この時、秀郷は宇都宮大明神(現・宇都宮二荒山神社)で授かった霊剣をもって将門を討ったと言われている。また、この時に秀郷が着用したとの伝承がある兜「三十八間星兜」(国の重要美術品に認定)が現在宇都宮二荒山神社に伝わっている[6][注 2]

複数の歴史学者は、平定直前に下野掾兼押領使に任ぜられたと推察している[注 3]。 この功により同年3月、従四位下に叙され、11月に下野守に任じられた。さらに武蔵守鎮守府将軍も兼任するようになった{{Efn2|祖父以来三代にわたって下野国に住み、平安京への出仕経験も無いため六位官人に留まっていた秀郷が越階して一気に四位に昇ったことは、後世の武士にとって謀叛・反乱鎮圧に対する最大の評価・褒賞の事例とみなされるようになり、後世に至るまで武家の先例となった[10]

将門を討つという大功を挙げながらも、それ以降は史料にほとんど名前が見られなくなり、没年も不詳である。

贈位[編集]

百足退治伝説[編集]

「俵藤太物語」にみえる百足退治伝説は、おおよそ次のようなあらすじである。

琵琶湖のそばの近江国瀬田の唐橋に大蛇が横たわり、人々は怖れて橋を渡れなくなったが、そこを通りかかった俵藤太は臆することなく大蛇を踏みつけて渡ってしまった。大蛇は人に姿を変え、一族が三上山の百足に苦しめられていると訴え、藤太を見込んで百足退治を懇願した。藤太は強弓をつがえて射掛けたが、一の矢、二の矢は跳ね返されて通用せず、三本目の矢に唾をつけて射ると効を奏し、百足を倒した。礼として、米の尽きることのない俵や使っても尽きることのない巻絹などの宝物を贈られた。竜宮にも招かれ、赤銅の釣鐘も追贈され、これを三井寺(園城寺)に奉納した[12][13]

諸本[編集]

俵藤太の百足退治の説話の初出は『太平記』十五巻といわれる[14][15]。しかし『俵藤太物語』の古絵巻のほうが早期に成立した可能性もあるという意見もある[16]御伽草子系の絵巻や版本所収の「俵藤太物語」に伝わり、説話はさらに広まった[12]

大蛇の化身と竜宮

御伽草子では、助けをもとめた大蛇は、琵琶湖に通じる竜宮に棲む者で、女性の姿に化身して藤太の前に現れる。そして百足退治が成就したのちに藤太を竜宮に招待する[17][18]。ところが太平記では、大蛇は小男の姿でまみえて早々に藤太を竜宮に連れていき、そこで百足が出現すると藤太が退治するという展開になっている[19]

百足との遭遇

百足は太平記では三上山でなく比良山を棲み処とする[20]。百足が襲ってきたとき、それは松明が二、三千本も連なって動いているかのようだと形容されているが[21]、三上山を七巻半する長さだったという記述が、『近江輿地志略』(1723年)にみえる[22][注 4]

唾をつけた矢を放つとき、御伽草子では、八幡神に祈念しており、射止めた後も百足を「ずたずたに切り捨て」た、とある[23][注 5]

褒美の財宝

俵藤太物語では竜女から無尽の絹・俵・鍋を賜ったのち、竜宮に連れていかれ、そこでさらに金札こがねざね[注 6]の鎧や太刀を授かる[26][19]

時代が下ると、褒美の品目も十種に増える。そして太刀にも「遅来矢ちくし」という号し、赤堀家重代の宝刀となったという記述が『和漢三才図会』(1712年)や『東海道名所図会』(1797年)にみえる[20][27][28]

鎧が「避来矢ひらいし」号し、下野国佐野家に伝わったという異文が『氏郷記』(1713年以前[29])にみつかり[24][30]、異綴りだが「平石ひらいし」と「室家」の2領が竜宮の贈物だったという、新井白石『本朝軍器考』(1709年)の記述となかば合致する[31][32]

鍋には「小早鍋」、俵には「首結俵」という呼称があった(『氏郷記』)とする記載もみえる[24][33]

将門

御伽草子「俵藤太物語」の下巻では、平将門討伐が描かれる[17]また、龍神の助けで平将門の弱点を見破り、討ち取ることができたという[要出典]

原話[編集]

鎌倉初期(1200年頃)成立の『古事談』に俵藤太の百足退治と類似した粟津冠者あわづかんじゃの説話があり、これが原話でないかと考えられている[注 7][35]。粟津冠者という剛の者が、鐘を鋳る鉄を求めて出雲に向かうと暴風に見舞われ、漕ぎつけた謎の小童に拾われ海底の龍宮に連れていかれる、そして宿敵を射殺してくれと嘆願され、敵の大蛇が眷属をひきつれてやってきたところを仕留め、褒美に得た鐘はめぐりめぐって三井寺に収められた、というあらすじである[36]

また、百足は鉄の鉱脈を表わし、「射る」ことは「鋳る」ことに通じるという若尾五雄の考察もある[37][38]

土地伝説[編集]

秀郷の本拠地である下野国には、日光山赤城山の神戦の中で大百足に姿を変えた赤城山の神を猿丸大夫(または猟師の磐次・磐三郎)が討つという話があり(この折の戦場から「日光戦場ヶ原」の名が残るという伝説)、これが秀郷に結びつけられたものと考えられる。また、類似した説話が下野国宇都宮にもあり、俵藤太が悪鬼百目鬼を討ったとされる。これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。

伊勢神宮には、秀郷が百足退治に際して龍神から送られた、という伝来のある太刀が奉納されており、「蜈蚣切」(蜈蚣切丸、とも)の名で宝刀として所蔵されている。

後裔氏族[編集]

秀郷の子孫は中央である京都には進出しなかった結果、関東中央部を支配する武家諸氏の祖となった。

また京都でも武門の名家として重んじられた結果、子孫は以下のような広範囲に分布した。

系譜[編集]

秀郷を祀る神社[編集]

註釈[編集]

  1. ^ 延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見[4]もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見[5]もある。
  2. ^ この兜の実際の制作年代は南北朝時代とみられる[7]。多数の鉄板を矧ぎ合わせて兜鉢を構成している点、星(兜に打たれた鋲の頭を指す)が小型化している点、頂辺の孔(てっぺんのあな)が小さい点などはこの兜が平安時代の作ではなく時代が下降することを示す。
  3. ^ 青木和夫 は天慶3年正月14日ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする[8]。下向井龍彦は天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり[9]、青木説とほぼ同時期となっている。
  4. ^ 「三上山を七巻き半と聞けばすごいが、実は八巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。これは古典落語矢橋船」などで用いられている。
  5. ^ 『氏郷記』(江戸初期?)では"太刀を抜[き]寸々に切捨たり"と太刀を使用したことが明記されている[24]
  6. ^ 金箔張りの小札(こざね)のこと[25]
  7. ^ 閑田次筆』に先駆して提唱されている説[34]

出典[編集]

脚注
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  1. ^ a b 系図纂要』より。
  2. ^ 『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』アスキー・メディアワークス、2012年、46頁
  3. ^ 豊田武『苗字の歴史』(中公新書1971年)、武光誠『名字と日本人』(文春新書1998年)など。
  4. ^ 佐野が生んだ偉人=藤原秀郷
  5. ^ 武士の発生と成立  下向井龍彦氏の「兵=武士」
  6. ^ 「宇都宮二荒山神社公式サイト」
  7. ^ 栃木県教育委員会サイトの解説参照
  8. ^ 青木和夫『古代豪族』、講談社(初版小学館)、2007年(初版1974年)、ISBN 4061598112
  9. ^ 下向井龍彦『武士の成長と院政』、講談社2001年、ISBN 4062689073
  10. ^ 古澤直人、「謀叛に関わる勲功賞」 『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』 吉川弘文館、59-69頁。ISBN 978-4-642-02953-7。 
  11. ^ 『官報』第32号、「叙任」1883年08月07日。
  12. ^ a b 橋本鉄男 『俵藤太の百足退治』http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000113752 
  13. ^ 校注日本文学大系『俵藤太物語』 1925, pp. 86-101.
  14. ^ a b 志田 1941, p. 4.
  15. ^ 神明あさ子 「近世怪談集と中国説話--『拾遺御伽婢子』を中心に」、『同志社国文学』第67号24-25頁https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/13914/016000670003.pdf 
  16. ^ 小峯和明 「物語の視界50選(その二)その限りない魅力を探る 俵藤太物語」、『國文學 : 解釈と教材の研究』 第46巻第11号140-141頁、1981年11月https://books.google.com/books?id=4YM6AAAAIAAJ 
  17. ^ a b c 兵藤裕己 「縁起の中世的展開 日光山縁起と山民」、『國文學:解釋と鑑賞』 第52巻第9号105-106頁、1987年9月https://books.google.com/books?id=RcEqAQAAIAAJ 
  18. ^ 校注日本文学大系『俵藤太物語』 1925、pp. 87- "女房";pp. 93- "我が故郷..龍宮"
  19. ^ a b 志田 1941, pp. 4–5.
  20. ^ a b 志田 1941, p. 5.
  21. ^ 『太平記』[14]、『御伽草子』[17]
  22. ^ 寒川辰清 「巻之卅九 秀郷社」、『近江輿地志略 : 校定頭註』 (西濃印刷出版部)466-468頁、1915年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950934/284 
  23. ^ 校註日本文學大系『俵藤太物語』 1925.
  24. ^ a b c 近藤瓶城編 「別記第182 氏郷記巻上」、『改定史籍集覧: 別記類』 (近藤活版所)623-624頁、1902年https://books.google.com/books?id=Qdw954AcENMC&pg=PP630 
  25. ^ 中田祝夫; ‎和田利政; ‎‎北原保雄 『こがねーさね【黄金札・金札】』、1994年https://books.google.com/books?id=6e4qAQAAIAAJ 
  26. ^ 校註日本文學大系 1932.
  27. ^ 寺島良安 「俵藤太秀郷」、『和漢三才図会. 巻之26 神社仏閣名所』 (内藤書屋)、1890年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898174/8 、江州第71巻5–6頁
  28. ^ 秋里籬島 「秀郷祠」、『東海道名所図会. 上冊』 (吉川弘文館)第2巻26頁、1910年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765194/73 
  29. ^ 小和田哲男 『石田三成: 「知の参謀」の実像』 PHP研究所、1997年、12頁https://books.google.com/books?id=fwl2BgAAQBAJ&pg=PT12 
  30. ^ 南方熊楠十二支考 田原藤太竜宮入りの話 1916年;中村 1971, p. 214。
  31. ^ 新井白石(君美) 『本朝軍器考』9巻、1987年9月、4-5頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2563711/9 
  32. ^ 志田 1941, p. 7中村 1971, p. 214が指摘。
  33. ^ 南方熊楠十二支考 田原藤太竜宮入りの話 1916年
  34. ^ 志田 1941, p. 3.
  35. ^ 志田 1941, pp. 3–4, 6.
  36. ^ 志田 1941, pp. 6–8.
  37. ^ 中村 1987, pp. 105–106.
  38. ^ 若尾五雄『黄金と百足』。野口 2001, p. 2に拠る。
  39. ^ 『姓氏』(監修:樋口清之/著者:丹羽基二秋田書店)による。
参考文献

関連項目[編集]