藤原長実
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 承保2年(1075年) |
死没 | 長承2年8月19日(1133年9月19日) |
別名 | 八条 |
官位 |
正三位、権中納言 贈正一位、左大臣 |
主君 | 白河天皇→堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇 |
氏族 | 藤原北家魚名流 |
父母 | 父:藤原顕季 母:藤原経平の娘 |
兄弟 | 長実、家保、顕輔、覚顕、顕宗、藤原宗通室、源顕雅室、藤原経実室、藤原敦兼室、三条実行室、源雅定正室 |
妻 | 源方子(源俊房の娘)、文賛の娘 |
子 | 長親、顕経、顕盛、長輔、得子、時通、長盛、藤原宗能室、長子 |
特記 事項 | 近衛天皇の外祖父 |
藤原 長実(ふじわら の ながざね)は、平安時代末期の公家・歌人。藤原北家末茂流、修理大夫・藤原顕季の長男。官位は正三位・権中納言、贈正一位・左大臣。八条を号した。
経歴[編集]
父・顕季同様、白河法皇に近侍する院近臣として立身。法皇の晩年における最も身近な側近であった。因幡国・尾張国・伊予国・播磨国といった諸国の受領や大宰大弐などを経て、大治5年(1130年)に権中納言に至る。また、死後、娘・得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を得て近衛天皇の母となったため、正一位左大臣を追贈された。
人物[編集]
- 政治手腕についての周囲の評価は低く、権中納言就任にあたっては藤原伊通が抗議の意味で致仕するという事件が発生、また長承2年(1133年)に長実が死去した際には、中御門宗忠の日記『中右記』の中で「無才の人、納言に昇るはいまだかつてあらず」と酷評されている。
- 長実の娘である得子(美福門院)が鳥羽上皇の寵愛を受けるのは長実が病没した翌年の長承3年(1134年)の春以降とされており、生前の長実は鳥羽上皇による院近臣の入れ替え(亡くなった白河法皇側近の排除)の影響を受けて不遇であった。しかも、得子が上皇の寵愛を受けたことにより、正妃であった藤原璋子(待賢門院)の怒りを買って長実の子供たちは処分を受けた。その後、得子は父の邸宅である八条殿を自分のものにすると共に、天皇の母になった後も長兄・顕盛の遺児である俊盛などを登用しているが白河法皇の側近であった自分の兄弟(長実の息子)を登用する事はなかった[1]。
- 父・顕季や弟・顕輔らと同様に和歌に対する造詣は深く、自邸八条亭でたびたび歌会を開催すると共に、鳥羽殿北面歌合・右近衛中将雅定歌合に出詠するなど、数多くの自作を遺した。『金葉和歌集』(15首)以降の勅撰和歌集に19首が入集している[2]。
略歴[編集]
- 応徳3年(1086年) 美濃権守
- 応徳4年(1087年) 左兵衛佐
- 寛治2年(1088年) 従五位上
- 寛治4年(1090年) 正五位下
- 寛治5年(1091年) 兼因幡守
- 寛治7年(1093年) 従四位下
- 寛治8年(1094年) 従四位上、兼中務権大輔
- 嘉保2年(1095年) 正四位下
- 承徳3年(1099年) 兼尾張守
- 長治2年(1105年) 伊予守
- 長治3年(1106年) 播磨守
- 永久3年(1115年) 伊予守
- 永久5年(1117年) 中宮政所別当
- 永久6年(1118年) 兼内蔵頭
- 保安3年(1122年) 従三位、修理大夫
- 保安4年(1123年) 兼大宰大弐
- 大治4年(1129年) 正三位、参議
- 大治5年(1130年) 権中納言
- 長承2年(1133年) 兼大宰権帥
系譜[編集]
- 父:藤原顕季
- 母:藤原経平の女
- 妻:源方子(源俊房の女)
- 妻:僧文賛の女(郁芳門院女房)
- 男子:藤原顕経
- 男子:藤原顕盛(1100-1134)
- 男子:藤原長輔(1104-1156)
- 妻:不明
- 男子:藤原時通
- 男子:藤原長盛
- 長子:藤原長親
- 女子:藤原宗能室
- 女子:藤原長子
脚注[編集]
外部リンク[編集]
- 内蔵頭長実白河家歌合 (日本語) -(日文研データベース)
- 内蔵頭長実家歌合 (日本語) - (日文研データベース)