藤原長方

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藤原長方
藤原長方.jpg
藤原長方/『前賢故実』より
時代 平安時代後期
生誕 保延5年(1139年
死没 建久2年3月10日1191年4月5日
改名 憲頼→長方
別名 三條中納言、号:八条中納言
官位 従二位権中納言
主君 近衛天皇後白河天皇二条天皇六条天皇高倉天皇安徳天皇
氏族 藤原北家勧修寺流葉室家
父母 父:藤原顕長、母:藤原俊忠娘・俊子
兄弟 長方、憲頼、為明、泰隆、泰房、長真、徳大寺実定室、藤原雅長室、
建春門院女房堀川
藤原通憲娘、江口遊女木姫、藤原師高
宗隆長兼、時長、兼高、長隆、顕瑜、乗願
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藤原 長方(ふじわら の ながかた)は、平安時代後期の公卿歌人藤原北家勧修寺流葉室家権中納言藤原顕長の子。官位従二位・権中納言。藤原俊成の甥で藤原定家の従兄に当たる。

経歴[編集]

久安2年(1146年従五位下叙爵久寿2年(1155年)従五位上・丹波守に叙任され、保元元年(1156年中宮権大進を兼ねる。

保元2年(1157年正五位下三河守に叙任。皇后宮権大進五位蔵人・丹波権守を歴任し、応保元年(1161年右少弁に任ぜられる。永万元年(1165年)には権左中弁、永万2年(1166年)には左中弁に転じた。仁安2年(1167年従四位下左衛門権佐に叙任。嘉応元年(1169年)従四位下に進み、嘉応2年(1170年)従四位上・蔵人頭に叙任された。

嘉応3年(1171年)左宮城使に任ぜられる。安元元年(1175年)右大弁に転任し、安元2年12月(1177年1月)参議に任ぜられて公卿に列した。安元3年(1177年)には従三位備後権守に叙任。さらに治承3年(1179年正三位・左大弁に叙任された。治承4年(1180年高倉天皇院別当を務め、近江権守を兼任した。

治承5年(1181年)、権中納言。「八条中納言」と称される。寿永2年(1183年)、従二位に昇叙。後に中風により出家。建久2年(1191年)3月10日薨去。享年53。

家集に『按納言長方集』、日記に『禅中記』(尊経閣文庫蔵)がある。

人物[編集]

剛直な人柄であり、平清盛の政策にしばしば反対した[1]。福原遷都に異を唱え[2]、後白河法皇の幽閉に反対している[3]

一方、和歌にも秀でており、元暦元年(1184年)の別雷社後番歌合などに出詠した。『千載和歌集』以下の勅撰和歌集に41首が入集。

官歴[編集]

  • 久安2年(1146年)7月10日:蔵人に補す。元一條院判代官、8月2日:従五位下に叙す(前女御道子未給)。
  • 久寿2年(1155年)9月13日:丹波守に任ず。11月21日:従五位上に叙す(大嘗會丹波國司)。
  • 保元元年(1156年)10月27日:中宮権大進を兼ぬ。
  • 保元2年(1157年)10月22日:正五位下に叙す(造内裏丹波國賞)。12月7日:三河守に遷る。
  • 保元3年(1158年)2月13日:皇后宮権大進に任ず(本宮居上)。10月12日:守を止む。
  • 平治元年(1159年)5月1日:五位蔵人に補す。11月1日:丹波権守に任ず(大嘗會國司除目)。
  • 応保元年(1161年)9月15日:右少弁に任ず。4月19日:権大進を辞す。
  • 永万元年(1165年)6月25日:更に新帝の蔵人に補す。8月17日:権左少弁に転ず。
  • 永万2年(1166年)6月6日:左少弁に転ず。8月27日:右衛門権佐を兼ぬ。9月1日:使宣旨を下さる。
  • 仁安2年(1167年
    • 正月30日:左中弁に転じ、左衛門権佐に遷る。
    • 7月12日:従四位下に叙す(院平治元御給)。
    • 10月18日:服解す(父)。
    • 12月13日(1168年1月24日):復任す。
  • 嘉応元年(1169年)4月28日:従四位上に叙す(行幸院。院司)。
  • 嘉応2年(1170年
    • 正月18日:左中弁に転ず。
    • 2月3日:率分所勾当并びに装束使と為す。
    • 3月24日:正四位下に叙す(春日行幸行事賞)。
    • 12月30日(1171年2月6日):蔵人頭に補す。
  • 嘉応3年(1171年)4月7日:左宮城使に任ず。
  • 安元元年(1175年)12月8日:右大弁に転ず。
  • 安元2年12月25日(1177年1月26日):参議に任ず。大弁如元。
  • 安元3年(1177年)正月13日:備後権守を兼ぬ。12月17日:従三位に叙す。
  • 治承3年(1179年)9月5日:正三位に叙す(行幸石清水加茂行幸賞)。10月9日:左大弁に転ず。
  • 治承4年(1180年)2月21日:親院別當に補す。
  • 治承5年(1181年)3月26日:近江権守を兼ぬ。12月24日(1182年1月30日):権中納言に任ず(参議労)。
  • 寿永2年(1183年)12月22日:従二位に叙す。
  • 元暦2年(1185年)6月25日:出家。俄中風に依る。

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 元木泰雄『平清盛と後白河院』角川選書、2012年、151p。
  2. ^ 続古事談
  3. ^ 玉葉』治承四年十月九日条
  4. ^ または、生母は藤原師高の娘。