藤田元司

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藤田 元司
藤田.JPG
週刊ベースボール』1959年1月28日号の表紙より
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 愛媛県新居浜市
生年月日 (1931-08-07) 1931年8月7日
没年月日 (2006-02-09) 2006年2月9日(74歳没)
身長
体重
173 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1957年
初出場 1957年3月31日
最終出場 1964年9月12日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 読売ジャイアンツ (1963 - 1974)
  • 大洋ホエールズ (1975 - 1976)
  • 読売ジャイアンツ (1981 - 1983, 1989 - 1992)
野球殿堂(日本)
Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg 殿堂表彰者Empty Star.svg Empty Star.svg Empty Star.svg
選出年 1996年
選出方法 競技者表彰

藤田 元司(ふじた もとし、1931年8月7日 - 2006年2月9日)は、愛媛県新居浜市出身(越智郡宮窪村四阪島生まれ)の元プロ野球選手投手)・コーチ監督解説者評論家

読売ジャイアンツの中心投手としてセ・リーグ投手最多タイ記録となる最高殊勲選手(MVP)を2回受賞するなど、5度のリーグ優勝と2度の日本一に貢献したほか、監督としても長嶋茂雄王貞治の後を継いで4度のリーグ優勝と2度の日本一に導いた。

経歴[編集]

バンカラ学生、藤田[編集]

旧制新居浜中学校在学中に終戦の日を迎え、学制改革によって愛媛県立西条高等学校へ転校した。同校でバッテリーを組んだのが、後にNHK高校野球中継の解説で有名になる池西増夫で、藤田の同級生にはボクシングフライ級三迫ボクシングジム初代会長(のちに名誉会長)の三迫仁志、1学年上にプロ入り後に投げ合う渡辺省三がいた。この頃は喧嘩も強く、番長格で高下駄を鳴らして闊歩したり、喧嘩相手を何日も待ち伏せるなど、プロ入り後のイメージとは正反対のバンカラだった。

1950年秋季四国大会では決勝へ進むが、大久保英男日野美澄を擁する徳島県立鳴門高等学校に延長13回サヨナラ負けを喫し、鳴門はそのまま第23回選抜高等学校野球大会で全国制覇を果たす。1951年夏季四国大会でも準決勝へ進むが、決勝で香川県立高松商業高等学校へ敗退し、甲子園出場は果たせなかった。高校卒業後は慶応義塾大学へ進学し、オーソドックスなオーバースローから繰り出される快速球を武器に秋山登明治大学)、木村保早稲田大学)と投げ合い、東京六大学野球連盟のスター選手として沸かせたが、リーグ優勝は1952年春季リーグ戦の一度のみで、度重なる力投が報われない姿から「悲運のエース」と呼ばれた。藤田はリーグ戦通算で63試合に登板し、31勝19敗、227奪三振を記録した。なお、大学同期では佐々木信也、1学年下に前述の日野をはじめ、中田昌宏衆樹資宏がプロ入りしている。

日本石油入社[編集]

慶応義塾大学卒業後はそのままプロ入りせず、社会人野球・日本石油へ入社して1956年第27回都市対抗野球大会に出場する。新人ながら1回戦(対川島紡績戦)で完封勝ちすると、リリーフの切り札として勝ち進み、決勝戦(対熊谷組戦)でも2回から好投して3-2で逃げ切り、神奈川県勢として初の優勝を果たす[1]。藤田自身も同大会の橋戸賞を受賞するなど、活躍を見せた大会となった。当時のチームメイトには中野健一、大学時代の先輩にあたる花井悠がおり、同年の第2回世界野球大会に中野、花井と共に日本代表として選出されている[1]

読売ジャイアンツ入団[編集]

1957年、大学時代の先輩である水原茂の誘いで読売ジャイアンツへ入団した。1年目の同年から17勝を挙げる活躍を見せて新人王に輝くと、1958年には自己最多の29勝、1959年には27勝を挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献し、2年連続でMVPを獲得した。特にプロ野球初の天覧試合となった1959年6月25日の対大阪タイガース戦(後楽園球場)では先発登板すると長嶋茂雄の本塁打でサヨナラ勝ちし、藤田自身も完投勝利を挙げた。1960年は酷使の影響もあって肩を故障したために7勝で終えるが、1962年には13勝、1963年も10勝を挙げる活躍を見せ、リーグ優勝に貢献した。

藤田と日本シリーズ[編集]

公式戦では活躍する藤田だが、日本選手権シリーズでは奮闘するも日本一の栄冠には届かず、大学時代と同様にプロ野球でも「悲運のエース」と呼ばれてしまった。

西鉄ライオンズとの対戦となった1957年では全5試合中、4試合でリリーフ登板するも、第2戦では堀内庄の救援で登板して河野昭修にサヨナラ適時打を浴び、再戦となった1958年では稲尾和久と並ぶ6試合に登板し[2]、防御率1.09の好成績を上げるも打線の援護がなく、1勝2敗で終わった。この年の第5戦では、1点差に迫られながらもあとアウト一つで日本一に輝く場面で二死三塁のピンチを迎え、シリーズ全体で不振だった関口清治の胸元へシュートを投げ込んだところ同点適時打となり、最終的に稲尾が本塁打を放って逆転負けを喫する(西鉄はそのまま逆転優勝を果たす)。なお、藤田によれば関口の打球は藤田の右肩付近を力なく飛んで行ったといい、「『右手をちょいと出せば取れたのではないか』と、いまでも思うことがある」と後年になっても思い出していたといい、選手・監督として様々なタイトルや表彰に恵まれた藤田が「たった一つ取れなかった物」として語っている[3]

1959年の日本シリーズでは、杉浦忠南海ホークス)の4連投4連勝の陰で第2戦から第4戦まで先発登板し、合計22回を投げる(4試合シリーズでは杉浦の32回に次ぐ記録)が、ここでも奮闘報われず2敗を喫する。前年の第4戦から1961年第5戦にかけて5連敗という不名誉な日本シリーズタイ記録も保持しており[4]、その痩身と味方の貧打に耐え忍ぶ姿から、「元司」の音読みにかけて「ガンジー」とも呼ばれた。藤田は1961年・1963年の日本一メンバーだが、前者では第3戦・第5戦に先発してどちらも早期に降板、後者は第2戦で城之内邦雄を救援して勝利投手になったものの4失点、第4戦では先発するも4回途中で降板するなど、エースらしい働きは出来なかった。

藤田は1963年にコーチ兼任選手に就任し[5]1964年に現役引退を発表した。社会人野球からのプロ入りだったため、現役生活は僅か8年間と短かった。

引退直後[編集]

現役引退後は、川上哲治監督の下で一軍投手コーチ(1965年から1969年1971年から1973年)、二軍投手コーチ(1970年)、スカウト(1974年)を歴任するなど現場内外で活躍し、堀内恒夫高橋一三菅原勝矢倉田誠関本四十四を育成したほか、不振だった渡辺秀武中村稔を再生、宮田征典をリリーフへ転向させた。いわゆるV9時代を支えたが、副業の人事トラブルを解決するのに暴力団員を雇ったことや、1969年の第32回衆議院議員総選挙においても暴力団と関係を持っていたことが問題となり、球団から1ヶ月間の謹慎処分を言い渡される[6]。謹慎中は自宅から一歩も外出せず、プラモデル作りに没頭していたという。

結局藤田は、1975年読売ジャイアンツを退団して大洋ホエールズの一軍投手コーチに就任した[7]。監督を務める秋山登の下で奥江英幸間柴富裕を育成するなど一定の成果を挙げたが、弱体化していた投手陣を立て直すまでには至らず、1976年に大洋を退団、NHK野球解説者および報知新聞野球評論家を務める一方、川上を中心に行っていたNHK少年野球教室の講師を担当した。

監督就任~長嶋の後任、先発三本柱[編集]

1980年10月21日長嶋茂雄の解任を受けて読売ジャイアンツ第10代監督に就任した。この直前には西武ライオンズから監督就任要請を受けていたが、藤田自らが断っている。初仕事となったドラフト会議では原辰徳東海大学)を引き当てるが、シーズン当初は絶大な人気を誇る長嶋を「窓際へ追いやった男」という世間の逆風がものすごく、藤田の自宅には熱狂的な長嶋ファンから抗議の手紙が殺到、中には「(藤田の)娘を殺すぞ」という手紙と剃刀の刃が入った悪質なものもあったという。それでも藤田と王貞治助監督、牧野茂ヘッドコーチの3者による「トロイカ体制」でいきなりリーグ優勝、さらには勢いそのままに1981年の日本シリーズでは対日本ハムファイターズを破り、V9最終年だった1973年以来の日本一を達成した。

しかし、藤田は悲願の日本一を達成してもマスメディアからは冷淡な反応を示され、「(選手が)活躍しているのは、みんな、長嶋が伊東で鍛え上げた選手だ」と言い、藤田より長嶋の功績を称賛するものが多かった[8]。藤田はこうした状況でも冷静に対応していたが、オーナーの正力亨までもがマスメディアの誘導尋問に乗って長嶋へラブコールを始めると、さすがに堪忍袋の緒が切れ、藤田が単身でオーナー室へ乗り込んで「私のことが不服なら、ユニフォームを脱いだって良いんです!」と啖呵を切ると、それ以降は正力の長嶋へのラブコールは止んだという[9]1983年にもリーグ優勝を達成するが、同年の日本シリーズはかつての同僚だった広岡達朗率いる西武ライオンズで、広岡と藤田の対決は「球界の盟主の座を賭けた戦い」として第7戦までもつれ込み、3勝4敗で敗れた。その後、助監督を務めていた王貞治に監督の座を譲る形で同年11月8日に勇退し、再びNHK野球解説者、報知新聞客員解説委員に就任するなど、評論家活動を本格的に開始した。この頃から、藤田は現役時代の川上との確執、副業の失敗などによる心労が重なり、心臓を患うようになった。

1988年9月29日、監督だった王貞治が解任されたことを受け、務臺光雄読売新聞名誉会長から「老い先短い年寄りの願いを聞いてくれ」と懇願され、第12代監督として復帰する。前年までに心臓を患い、医者から「(監督就任しても)命の保障はない」と告げられるほどだったが、ニトログリセリンを常備しながら采配を振るった。藤田は新たな先発三本柱として斎藤雅樹槇原寛己桑田真澄を軸にまたしても就任一年目でリーグ優勝を達成し、同年の日本シリーズ近鉄バファローズを3連敗からの4連勝で下して日本一を達成した。1990年もリーグ連覇を果たすが、日本シリーズではまたも西武ライオンズに敗れた。1991年シーズンは4位で終えたことで、病気の負担もあって辞任を決意していたが、正力の慰留によってさらに一年間監督を務め、1992年シーズン終了をもって勇退した。それでも、藤田は指導者として優れた人心掌握、育成術を持っており、日本海軍連合艦隊司令長官だった山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ」を座右の銘としていた。「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。選手だって同じ」と語り、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い監督だった。

監督退任後~晩年[編集]

監督退任後はNHK野球解説者を務め、評論家活動から解説者としての活動に専念、1996年には野球殿堂入り表彰を受けた。1990年代後半からは沢村栄治賞選考委員を務め、別所毅彦の死去によって委員長に推薦された[10]ほか、別所が勤めていた巨人軍OB会長職を1999年から2003年まで就くなど、幅広く活躍した。2000年頃から体調を崩して療養する日々が増えるが、2005年には愛媛マンダリンパイレーツのアドバイザリースタッフを務めたほか、王が福岡ダイエーホークス監督として現場に復帰した際には、王の代理として世界少年野球推進財団の活動にも参加し、協賛行事で行われた日米オールスターゲームでは監督を務めたこともある[11]

その後は体調の悪化によって解説業も固辞して療養に専念し、2006年2月9日18時40分、心不全のため東京都世田谷区内の病院で死去した。74歳没。戒名は「元投院球心篤應居士(げんとういんきゅうしんとくおうこじ)」。読売ジャイアンツでは藤田の数々の功績や人柄を称え、黒沢俊夫水原茂に続く史上3人目となる球団葬を執り行った(藤田家との合同葬)。現役時代に監督を務めていた川上哲治は弔辞で、「藤田君、今日はつらくて寂しい。寂しいけれど涙を見せずに御別れを言うことにする。それが、どんなに苦しいときでも笑顔を忘れなかった君への一番の供養になると思うから。ありがとう、ありがとう、本当にありがとう。藤田君、さようなら」と別れを告げた。

人物[編集]

現役時代の颯爽とした姿やスマートな外見、物腰、そして慶応義塾大学出身であることから「球界の紳士」と呼ばれていた。

藤田の性格[編集]

藤田の実際を知る人間の中では、自他共に認める極めて短気な性格で「瞬間湯沸かし器」の異名で有名だったという。短気な性格にも関わらず、「怒られるよりは褒められた方が選手だろうと誰だろうと嬉しい」と語り、社会人野球を経て入団したために現役生活こそ短かったものの、指導者としては非常に優れた人心掌握、育成で知られた。事実、監督時代は選手を責めるコメントをほとんど言わず、1990年の日本シリーズで西武ライオンズに4連敗で敗退した際も「監督がヘボだから負けた」と語り、選手を責める発言をしなかったことは一部から賞賛された。だが、王監督退任後となった第二次監督時代では、ごく親しい知人には「一刻も早く、このチームの性根を叩き直さなければ、(自分も後々)苦労する」と語り、危機感を露わにしていた。その危機感というのが、第二次監督時代に西武には日本シリーズ、オープン戦で通算0勝14敗と一度も勝てなかったことを含んでるとされ、メディアでも話題となった[12]

一方、自身の意図を理解しない選手に対しては厳しく当たることもあった。1980年代の正捕手だった山倉和博は、1988年オフに中日ドラゴンズから交換トレードで中尾孝義を獲得した際に「中尾には敵わない」と発言したところ、守備位置が重複する中尾を獲得して不調だった山倉を奮起させるという意図を理解していないと藤田に叱責され、1990年限りで現役を引退している。また、鹿取義隆もチーム方針が先発完投に変化したことに適応できず、やる気を失って藤田に叱責されたが、「もうジャイアンツには居たくないので辞めさせて下さい」と懇願、西武ライオンズへトレードされた。また、1980年代にエースだった江川卓は当時を振り返って、「自分が打ちこまれた時にベンチから歩いてくる監督は、鬼の形相で顔を真っ赤にして、本当に恐ろしかった」と語っており、広岡達朗も著書の中で「藤田は歴代監督の中で一番、門限が厳しかった」と記している。

巨人軍監督・藤田元司として[編集]

第一次監督時代では、圧倒的人気を誇っている長嶋茂雄の「後任」という形ではあったが、世間からは藤田が「長嶋を窓際へ追いやった」という見方をされ、逆風が吹き荒れる中での船出となった。それでも就任初年度で日本一を達成したほか、第二次監督時代でも復帰初年度で日本一を達成した。しかしその後の日本シリーズでは西武ライオンズに敗れており、藤田にとって対西武ライオンズ戦の連敗が前述のような危機感の表れとなっていた。

「情」の藤田[編集]

川上哲治は著書で、「意の広岡、知の、情の藤田」と言い、「万年Bクラスのチームには、広岡のような監督によって基礎から叩き込むのが良い。ある程度出来上がっているチームには、森のような監督の知力を使えば常勝チームになる。若手中心のチームには藤田のような監督によって、内部の信頼感を高めていくことで強くなる」とし、各後輩達のタイプを分類している。野村克也は「投手出身の監督は『精神野球』で、本質からかけ離れている」を持論としているが、著書では「藤田さんを除いては」とわざわざ記しており、監督としての藤田に高い評価を与えている。

2020年現在で監督を務めている原辰徳は、1980年のドラフト会議で藤田が4球団競合の末に交渉権を獲得した選手で、現在でも藤田への恩を忘れておらず、時間があれば頻繁に墓参りをする。また、藤田自身も原について、「巨人は原なら大丈夫だ」と死の直前まで話していたという。2012年から2015年まで横浜DeNAベイスターズの監督を務めた中畑清も、選手や裏方にも気を配りながらチームをまとめていった藤田の姿を見て、「自分もこういう監督になりたい」と監督を志すようになったという[13]

肥満が原因で西武から巨人に押し付けられる形で移籍した大久保博元は、移籍後も隠れるように食事していたのを藤田に見つかるが、「お前は身体が資本なんだから、もっと食べなきゃダメだろう!」と言ってステーキを奢ったと言う。この時、大久保は「この人のために、死んでもいい」と泣きながら肉を食べたという。

遊撃手として巨人・中日でプレーし、のちに犠打の世界記録を更新する川相昌弘は藤田がレギュラーに抜擢した選手の一人で、現在も藤田に強い恩義を感じているという。川相は2004年中日ドラゴンズへ移籍するが、藤田の訃報を聞いた川相は、キャンプ地の沖縄から休日を利用して帰京し、藤田の葬儀に参列している。また、メディアのインタビューに対して「今の自分があるのは、藤田さんのおかげです」と言い、涙した。

守備からの野球[編集]

広岡達朗森祇晶と同じように守備に難のある選手をほとんど起用しない「守りの野球」を掲げていたが、唯一、長打を望める選手だが故障を抱えていた原辰徳三塁手から左翼手または一塁手コンバートしたほか、捕手には一度肩を壊した村田真一や捕球に難のある大久保、外野手にはシーズン中での大怪我の影響が残って守備に不安のある吉村禎章を日替わりで起用した。また、投手では第一次で江川卓西本聖定岡正二、第二次で斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄による「先発三本柱」を確立させ、投手陣の整備をおこなった。

野手においても前述の川相に加えて、緒方耕一の積極起用、駒田徳広岡崎郁の“名脇役”としての確立など、「磨けば光る逸材」を輝かせる事には定評があった。内野守備については川相以外の既存戦力を再構成して守備を補強しており、1989年は本塁打数がリーグ4位でありながら1試合の平均得点が4を超えるなど、攻撃面でも優れた手腕を発揮している。

先発三本柱[編集]

第一次監督時代の先発三本柱は、角三男が抑えを務めていた。一方、第二次監督時代は一転して、先発投手に頑固なまでに完投を求めた。特に1990年は、前述の斎藤・槇原・桑田の三本柱に宮本和知香田勲男木田優夫を加えた先発ローテーションの6名でチーム88勝のうち、80勝を挙げ、完投数は合計で70に上った結果、年間で起用した投手は僅か10人であった。かつてリリーフエースだった角や鹿取を放出して手薄になっていた中継ぎ・抑えには肩に故障を抱えた水野雄仁廣田浩章などが登板していたほか、1989年に槙原が4セーブ、1990年に木田が7セーブと先発投手が中継ぎ・抑えを兼任していた。しかし、こうした「先発完投少数精鋭主義」「先発万能主義」を求めた結果、専任のリリーフ投手を作らなかった事により分業制が進んで行く球界の時代の波に乗り遅れ、1991年には先発陣の崩れを支えきれず下位に低迷した。任期最終年の1992年には、前年の惨敗の反省から石毛博史をリリーフエースに固定している。

また藤田は、以下の采配を振るっていたことも特筆される。

  1. 投手の肩は「消耗品」という考えから、先発投手の調整スケジュールにある「ブルペンでの投げ込み」に関しても実績に数えようと「どうせやるならマウンドで」と、先発投手に中2~3日でショートリリーフさせることもあった。
  2. 1985年に12勝を挙げるも精神的な弱さから「ノミの心臓」と言われていた斎藤に、「気が弱いんじゃない、気が優しいだけなんだ」と言い放つ。斎藤が「マウンドに行くのが怖い」と返すと、「投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」と指導し、先発で起用し続けた。1989年5月10日の試合で、先発した斎藤が8回にピンチを迎えても藤田が動じなかったことは「語り草」の一つである。
  3. 在任中は、その斎藤をサイドスローへ転向させたことでも知られる。また、藤田が評論家時代に酒井勉東海大学1989年のパ・リーグ新人王)も、藤田が同校野球部の練習の見学に来た際に「酒井君の腰の回転はサイドスローに向いてるよ」と転向を勧められて、成功した一人である[14]

10.8決戦で注目された藤田の存在[編集]

藤田の存在がクローズアップされたこととしては、退任後の1994年が挙げられる。

この年は、前半に勝利数を重ねて首位独走に貢献した斎藤が後半に調子を落とすと、槙原・桑田が10月に先発して無失点の投球をするなど、首位陥落阻止に貢献した。その槙原が、優勝決定戦となったシーズン最終戦(対中日ドラゴンズ戦、いわゆる10.8決戦)で先発して序盤で打ち込まれると、緊急登板の斎藤が相手打線の勢いを止め、桑田が抑えてリーグ優勝を果たした。同年の日本シリーズでは、第1戦に先発した桑田が打ち込まれて1敗を喫すると、第2戦に先発した槙原が完封勝利を挙げ、その後も桑田・槙原が1勝ずつしたこともあり、日本一に輝いた[15]

このように藤田の「遺産」が相互補完、相乗効果などの力を見せたが、藤田の「功績」に触れる論調は、当時ほとんど見られなかった。

監督退任後[編集]

「我々の時代の野球選手は今よりレベルが高かった」と過去を美化するOBが多い中、「いまとは全然レベルが違う。昔はいい加減だった」と現在と過去の違いを認識した上で語っていた[16]

2003年に原が監督を解任されたことに抗議して、広岡達朗と共に読売新聞報知新聞の購読を打ち切った。同年、山下大輔横浜ベイスターズ監督に就任した際の会見で、目標とする監督として別当薫と共に藤田の名を挙げている。両者とも、山下にとっては慶応義塾大学の先輩にあたる。

2004年プロ野球再編問題の渦中、「プロ野球1リーグ構想」「球団削減案」に反対を表明した数少ない巨人OBの一人である。また、「このままでは他所で育った選手ばかりを当てにしてしまうようになり、自らの手で名選手を育て、世に輩出してきた巨人の素晴らしき伝統に傷が付く」「若い選手の育成の妨げになるだけだ」とFA制度や逆指名制度の導入にも反対していた。

2005年10月5日堀内恒夫が巨人監督辞任の会見を行った際には、「辛い状況の中よく頑張ってくれた」と労いの言葉を掛け、同年12月4日の巨人OB会総会を堀内が欠席した際にも、「今日はホリ(堀内)が来てないけれど、みんな会ったら慰労してやってくれ。こういうところへ出てこられるムードを作ってやらないといけない」と冒頭で堀内を擁護した[17]。別の場所で人伝に聞いた堀内は涙が止まらなかったという。

1988年シーズン後の監督就任の際「本来ならば、王が10年ぐらい監督をやるべきだ」と語っていた。原が二度目の監督を打診された際に相談を受けた時には「今の巨人の再建は5年かかる」と諭し、元監督として長期的視野に立ったチーム作りを球団に直談判したという。

1997年オフには、千葉ロッテマリーンズから監督就任要請を受けていたが、就任に至らなかった[18]

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1957 巨人 60 18 4 0 0 17 13 -- -- .567 964 235.2 190 10 80 2 5 156 7 0 86 65 2.48 1.15
1958 58 36 24 7 1 29 13 -- -- .690 1380 359.0 251 11 114 5 5 199 11 0 75 61 1.53 1.02
1959 55 35 24 3 2 27 11 -- -- .711 1288 330.0 250 14 93 2 4 181 6 0 76 67 1.83 1.04
1960 36 17 4 2 0 7 12 -- -- .368 592 141.0 128 12 53 2 1 70 4 0 60 48 3.06 1.28
1961 42 19 3 1 0 8 13 -- -- .381 589 141.0 130 4 61 6 3 64 4 0 54 43 2.74 1.35
1962 42 25 6 2 1 13 11 -- -- .542 805 199.2 165 9 58 1 4 103 5 0 55 45 2.03 1.12
1963 30 14 2 0 1 10 4 -- -- .714 485 119.1 99 11 38 0 1 65 3 0 39 33 2.48 1.15
1964 41 15 3 2 0 8 11 -- -- .421 710 175.1 149 15 61 3 3 86 6 0 63 53 2.73 1.20
通算:8年 364 179 70 17 5 119 88 -- -- .575 6813 1701.0 1362 86 558 21 26 924 46 0 508 415 2.20 1.13
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]




























1981年 巨人 1位 130 73 48 9 .603 - 135 .268 2.88 50歳
1982年 2位 130 66 50 14 .566 0.5 133 .254 2.93 51歳
1983年 1位 130 72 50 8 .590 - 156 .275 3.77 52歳
1989年 1位 130 84 44 2 .656 - 106 .263 2.56 58歳
1990年 1位 130 88 42 0 .677 - 134 .267 2.83 59歳
1991年 4位 130 66 64 0 .508 8 128 .253 3.72 60歳
1992年 2位 130 67 63 0 .515 2 139 .262 3.69 61歳
通算:7年 910 516 361 33 .588 Aクラス6回、Bクラス1回

※1 太字は日本一 ※2 1981年から1996年までは130試合制 ※3 1981年7月1日の阪神戦は体調不良により3回から助監督の王貞治が監督代行を務めた[19]

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

初記録
その他の記録

背番号[編集]

  • 21 (1957年)
  • 18 (1958年 - 1966年)
  • 81 (1967年 - 1976年)
  • 73 (1981年 - 1983年、1989年 - 1992年)

関連情報[編集]

著書[編集]

  • 『草野球の戦力強化』(西東社:1978年5月)ISBN未確認
  • 『我慢の管理学:部下とともに生きる』(光文社:1984年1月)ISBN 4334011624
  • 『これが本当のプロ野球だ:巨人前監督の「わが巨人軍、わがプロ野球」』(講談社:1984年7月)ISBN 4062011824
  • 『子育て人育てには愛と拳骨を』(講談社:1984年10月)ISBN 4062013789
  • 『耐えて、勝つ:プロ野球選手に学ぶ自己管理術』(日之出出版:1988年11月)ISBN 4891980672
  • 『6154イニングの決断:人を活かし組織を動かす掌握の管理術』(日本文芸社:1990年12月)ISBN 4537022191
  • 『藤田前監督、巨人軍を語る』(日本放送出版協会:1993年3月)ISBN 4140800909
  • 『藤田元司の情のリーダー学』(ごま書房:1996年5月)ISBN 4341170961
  • 『監督:悪ガキこそ戦力だ』(森祇晶との対談、光文社:1997年4月)ISBN 4334005837
  • 『二番打者組織論:チーム、集団のキーマンは、三番でも四番でもない』(ひらく:1997年8月)ISBN 4341190202

演じた声優[編集]

出演[編集]

CM[編集]

参考文献[編集]

  • 『巨人軍 藤田監督の「人材を100%」活用する法』(G番記者グループ著・一季出版・1989年9月) ISBN 4900451339
  • 『巨人軍監督列伝―王の苦悩、藤田の成功。』(大下英治著・PHP研究所・1990年7月) ISBN 4569528295
  • 『ドンを越えた男―「巨人軍監督」藤田元司・しんぼうに辛抱のリーダーシップ』(松下茂典著・ダイヤモンド社・1990年9月)ISBN 4478360162

脚注[編集]

  1. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年
  2. ^ “近鉄・加藤哲郎が明かした「巨人はロッテより弱い」発言の真相”. 文春オンライン. (2020年11月25日). https://bunshun.jp/articles/-/41791?page=1 2020年12月1日閲覧。 
  3. ^ 文春ビジュアル文庫『豪球列伝』文藝春秋社
  4. ^ 日本シリーズにおける登板機会5連敗は、藤田の他に村山実北別府学がいる。
  5. ^ 監督・コーチングスタッフ(1960〜1969年) - スポーツ報知[リンク切れ]
  6. ^ いわゆる「黒い霧事件」を言うが、藤田本人は後年になって著書で当時を振り返り、全く身に覚えの無いことだったと述べている。
  7. ^ [1]
  8. ^ 実際、1980年のドラフト会議で引き当てた原はチーム二冠王(本塁打・打点)となって新人王に輝いたが、原と外国人選手以外は大半が藤田の監督就任前(第一次長嶋政権末期)の1979年から1980年に大きく成績を伸ばした選手だった。一方で、1994年の日本シリーズでは長嶋が監督して初めて日本一に輝くが、その時に原動力となったのは藤田が監督時代に確立した「先発三本柱」(斎藤雅樹槇原寛己桑田真澄)で、槇原はシリーズMVPを獲得した。
  9. ^ 松下茂典『ドンを越えた男―「巨人軍監督」藤田元司・しんぼうに辛抱のリーダーシップ』ダイヤモンド社、35~36頁
  10. ^ なお、沢村賞選考委員は歴代受賞者(委員会制度が導入された1982年より)およびパ・リーグで先発として活躍した元投手(パ・リーグ球団所属投手も対象となった1989年より)が起用されることが慣例だが、セ・リーグ出身者で受賞歴のない藤田の起用は異例と言える。
  11. ^ 背番号は監督時代の「73」ではなく、現役時代の「18」を着用していた。
  12. ^ 読売新聞1993年3月21日23面。それ以前の勝利は王貞治監督時代の1988年4月3日。
  13. ^ スポーツニッポン2012年1月1日
  14. ^ 『週刊ベースボール』1989年7月3日号「酒井勉インタビュー」(ベースボールマガジン社
  15. ^ これによって、藤田自身が二度に渡って挑戦するも果たせなかった「打倒・西武」が初めて達成されたシリーズであった。
  16. ^ http://www.1101.com/education_fujita/2002-11-13.html
  17. ^ スポーツニッポン2010年2月1日
  18. ^ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/279060
  19. ^ 川相“監督代行”で一丸1勝 1点差制す 日刊スポーツ 2014年5月6日閲覧
  20. ^ 歴代授賞者”. 日本プロスポーツ大賞. 公益財団法人日本プロスポーツ協会. 2017年11月25日閲覧。

注釈[編集]


関連項目[編集]