裴エン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本来の表記は「裴瑗」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字が含まれています詳細

裴 瑗(はい えん、467年 - 539年)は、北魏から東魏にかけての官僚は珍宝。本貫河東郡聞喜県

経歴[編集]

幼くして父を失い、貧苦の中を成長して自立した。北魏の太和年間、河北郡太守司馬悦に召されて中正となった。503年景明4年)、司馬悦が別将となり、軍を率いての義陽を攻撃すると、裴瑗は召されて中兵参軍となった。翌504年正始元年)に義陽を陥落させて凱旋すると、裴瑗は奉朝請となり、給事中に転じ、汝南王元悦の下で郎中令となった。元悦は散財が激しく、国からの俸給が入るたびに、1日のうちに分賜し尽くしてしまっていた。裴瑗は分賜の受け取りの多くを断り、手持ちのなくなった元悦のもとを訪れて奉貢をおこなっていた。元悦は気分の変わりやすい性格であったが、裴瑗のことは気に入って褒めていた。元悦が太尉となると、裴瑗はその下で従事中郎となり、驍騎将軍の号を受けた。孝明帝の末年、裴瑗は汝南郡太守となったが、赴任せず、太原郡太守に転じた。528年武泰元年)、孝明帝が殺害され、爾朱栄が洛陽に入ったが、裴瑗は爾朱栄に協力して、五原県開国子に封じられた。まもなく行并州事となり、平北将軍・殷州刺史に転じた。東魏の孝静帝の初年、衛将軍東雍州刺史に任じられた。539年興和元年)、死去した。享年は73。

子の裴夷吾は、武定末年に徐州驃騎府長流参軍となった。

伝記資料[編集]