西が丘

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西が丘
国立西が丘サッカー場
国立西が丘サッカー場
西が丘の位置(東京23区内)
西が丘
西が丘
西が丘の位置
北緯35度46分4.86秒 東経139度42分45.39秒 / 北緯35.7680167度 東経139.7126083度 / 35.7680167; 139.7126083
日本の旗 日本
都道府県 Flag of Tokyo Prefecture.svg 東京都
特別区 Flag of Kita, Tokyo.svg 北区
地区 赤羽地区
面積
 • 合計 0.587km2
人口
2017年(平成29年)12月1日現在)[1]
 • 合計 8,752人
 • 密度 15,000/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
115-0056[2]
市外局番 03[3]
ナンバープレート 練馬

西が丘(にしがおか)は、東京都北区町名[4]。現行行政地名は西が丘一丁目から西が丘三丁目[4]住居表示実施済み区域である[4]郵便番号は115-0056[2]

地理[編集]

東京都北区の西縁部に位置し、板橋区との区境を成す[4]。町域の北と東は赤羽西に、南は上十条に、西は板橋区清水町及び蓮沼町に接する。南東の十条仲原とは四つ角の1点で接し、南西の板橋区稲荷台とは近接するが境界線は接していない。西が丘一丁目は戦前海軍住宅として整備されたところであり、十字に街区が整備され、並木も備えられている[4]。西が丘二丁目は米軍管理下のTOD地区のうち、稲付射場として使用されていた区域及びその北側の住宅地を中心としている。西が丘三丁目は、最西端にあたる旧稲付出井頭町の一部(国際興業バス赤羽営業所付近)を除いて旧米軍駐留地(TOD第1地区)であり、三丁目の大半を占める返還後の旧米軍駐留地に関しては国立西が丘サッカー場をはじめとする公共施設及び集合住宅が建設されている[4]

河川(用水路)[編集]

  • 稲付川 - 根付用水・稲付用水・中用水・北耕地川の別名を持ち、町域南辺を東流していた用水路隅田川に合流していた。1967年に開始された工事で暗渠化された。

地価[編集]

住宅地の地価は2015年平成27年)1月1日公示地価によれば西が丘1-20-2の地点で38万4000円/m2となっている。

歴史[編集]

もとは北区稲付西町三・四・五丁目・稲付梅木町・稲付出井頭町の全部、及び稲付西町一・二・六丁目・稲付西山町・稲付島下町の各一部[4][5]

鎌倉時代以降、源頼朝武蔵入りに際して真っ先に麾下となった豊島清光を出し、この地一帯を支配した豊島氏室町時代末期の1478年文明10年)に倒した扇谷上杉氏家宰太田道灌が現在の赤羽西に建てた稲付城の城下にあたる[4]。また後に上杉定正による太田道灌謀殺の後、稲付城に拠った太田資高太田康資後北条氏への内応により北条氏の支配するところとなった[4]。後に太田康資は北条氏への謀反が露見し安房国逃亡、稲付城は廃城となった[4]江戸時代に入り、当地はこの稲付城の名をとった稲付村の一部となった。この稲付村は、明治時代初期の廃藩置県より浦和県(現埼玉県)に編入され、1874年明治7年)3月8日大区小区制では第九大区第六小区に編入された[4]1878年(明治11年)11月2日郡区町村編制法で稲付村は東京府北豊島郡に編入され、東京府下となった[4]。この際、第四大区第十七小区となった[6]。翌1879年(明治12年)3月14日、東京府数町村連合会規則により、稲付村外二ヶ村連合村(稲付村・上十条村・下十条村3ヶ村連合)を設置したが、1889年(明治22年)4月1日町村制施行により連合村を形成した上十条村・下十条村とは合併せず、神谷村下村・岩淵本宿町・袋村・赤羽村と合併し、岩淵町の一部となった。

岩淵町が王子町と合併し王子区となった際、東京市の設置した町界町名地番整理委員会によって新たに編入される予定の20区の町村に対し、委員会の定めた6方針のうち「(ヘ)小字をもって地番区域とする町名整理は小字名に旧町村を冠したものを新町名とすること」が適用され、岩淵町稲付は王子区稲付町一~五丁目・稲付庚塚町・稲付西町一~六丁目・稲付梅木町・稲付西山町・稲付出井頭町・稲付島下町となった。ただし、稲付西町は1932年(昭和7年)1月に既に改称されており、それがそのまま採用された形となった[4][7][5]。また、この際町名に冠される「旧町村名」に関しては1889年(明治22年)から1932年昭和7年)まで所属した岩淵町から採った「岩淵」ではなく、それ以前の旧村であった稲付村の「稲付」が冠された。また、この東京市編入の際に「稲付」の読みがそれまでの「イネツケ」から「イナツケ」と変更された[7]。このことに関しては若干の混乱と不満があったといわれる[7][8]。この間、袋台地を中心とした軍都赤羽台の周縁地区として整備された。

1905年(明治38年)、現在の北区立梅木小学校付近に火工廠稲付射場(6800余)が建設された[6][9]。また、翌1906年(明治39年)には稲付から志村にかけて83,000坪の敷地に東京陸軍兵器補給廠が建設された[9][10]。また、海軍住宅も建設されている。東京陸軍兵器補給廠及び稲付射場は第二次世界大戦後、進駐軍にTOD第1地区として接収されるところとなり、1958年(昭和33年)まで返還されなかった[10]。返還された土地は使途をめぐって北区・板橋区・東京都及び国の間で紛糾したが、1969年(昭和44年)5月に国有財産審議会において38,000平方メートルの土地を国立競技場用地(国立西が丘サッカー場)としての払い下げが正式に決まることで一応の決着を見た[10]。北区側はこの土地を地下鉄操車場として使用することを主張していたが叶わず、この運動は地下鉄七号線(現・東京メトロ南北線)早期建設運動へと方向転換された[10]。返還後、1965年(昭和40年)11月1日の住居表示実施により西が丘一丁目及び二丁目が成立。西が丘三丁目は上記返還地の用途決定及び板橋区との境界調整の後、1971年(昭和46年)7月1日の住居表示実施により成立した[4]

地名の由来[編集]

町名制定の際、稲付西町の町民が「西」の字を含む新町名を要望し、北区がその要望を聞き入れて制定された[4]

沿革[編集]

  • 1871年(明治4年)11月浦和県(現埼玉県)から東京府に編入された。
  • 1878年明治11年)11月2日:郡区町村編制法により、稲付村が東京府北豊島郡に編入される。
  • 1879年(明治12年)3月14日:東京府数町村連合会規則により、稲付村が上十条村・下十条村と稲付村外二ヶ村連合村を形成する。
  • 1889年(明治22年)4月1日:町村制施行に伴い、稲付村が岩淵本宿町・神谷村・下村・袋村・赤羽村と合併し、岩淵町の一部となる。
  • 1932年昭和7年)10月1日:王子町が東京市に編入され東京市王子区となり、従前の岩淵町稲付は王子区稲付町一~五丁目・稲付庚塚町・稲付西町一~六丁目・稲付梅木町・稲付西山町・稲付出井頭町・稲付島下町となる。このうち稲付西町一~六丁目・稲付梅木町・稲付出井頭町・稲付西山町・稲付島下町が現行の西が丘一~三丁目の区域に相当する。
  • 1943年(昭和18年)7月1日東京都制が施行され、上記各町はそれぞれ東京都王子区の町名となる。
  • 1947年(昭和22年)3月15日:王子区と滝野川区が合併し、北区が成立。上記各町はそれぞれ東京都北区の町名となる。、
  • 1965年(昭和40年)11月1日:稲付西町三・四・五丁目の全域、稲付西町一・二・六丁目の各一部、稲付梅木町の全域、稲付西山町の一部の区域に住居表示を実施し、西が丘一丁目・西が丘二丁目が成立。
  • 1971年(昭和46年)7月1日:稲付出井頭町の全域、稲付西山町・稲付島下町の各一部の区域に住居表示を実施し、西が丘三丁目が成立。

世帯数と人口[編集]

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
西が丘一丁目 1,760世帯 3,384人
西が丘二丁目 1,025世帯 1,954人
西が丘三丁目 1,632世帯 3,414人
4,417世帯 8,752人

小・中学校の学区[編集]

区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[11][12]

丁目 番地 小学校 中学校
西が丘一丁目 2〜7番
10〜15番
21〜24番
33〜36番
北区立西が丘小学校 北区立稲付中学校
その他 北区立梅木小学校
西が丘二丁目 全域
西が丘三丁目 全域

交通[編集]

鉄道[編集]

町域内に鉄道駅は存在しないが、徒歩圏内に東京都交通局本蓮沼駅板橋本町駅JR東日本赤羽駅及び十条駅が存在する。また、かつては赤羽駅 - 川口駅間から西が丘三丁目(旧・稲付出井頭町)まで引込線が引かれていた[5]。これは軍用線の跡地であり、一部は赤羽緑道公園(北区赤羽台及び赤羽西)となっている[9]

バス[編集]

国際興業バスは当地内に赤羽車庫を持つ。

道路[編集]

施設[編集]

東京都立産業技術研究所
国立スポーツ科学センター
NTTドコモ十条ビル

脚注[編集]

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  1. ^ a b c 世帯と人口”. 北区 (2017年12月10日). 2017年12月19日閲覧。
  2. ^ a b 郵便番号”. 日本郵便. 2017年12月19日閲覧。
  3. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2017年12月19日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『角川日本地名大辞典 13 東京都』、角川書店、1978年。
  5. ^ a b c 『古地図ライブラリー別冊 古地図・現代図で歩く昭和30年代歴史散歩』人文社、2004年8月、pp94-95。
  6. ^ a b 川崎房五郎監修、北区教育会教育研究所、同小・中学校社会科研究部『教師のための郷土資料集(昭和33年度)』東京都北区、1958年、pp223-231。
  7. ^ a b c 『新修北区史』東京都北区役所、1971年3月、pp448-451。
  8. ^ 『北区の史跡と傳説(78)稲付』「北区新聞」所収。
  9. ^ a b c 『写真と地図で読む 知られざる軍都 東京』洋泉社、2006年4月、pp44-53。
  10. ^ a b c d 北区史編纂調査会『北区史 通史編 近現代』東京都北区、1996年3月、pp550-565。
  11. ^ 小学校通学区域一覧”. 北区 (2017年11月7日). 2017年12月19日閲覧。
  12. ^ 中学校通学区域一覧”. 北区 (2017年4月1日). 2017年12月19日閲覧。

※十条仲原とは四つ角中央の一点で接する。