西尾末広

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西尾 末広
にしお すえひろ
Suehiro nishio.jpg
生年月日 1891年3月28日
出生地 日本の旗 日本 香川県香川郡雌雄島村女木島(現高松市
没年月日 (1981-10-03) 1981年10月3日(90歳没)
死没地 日本の旗 日本 神奈川県川崎市中原区
出身校 柴山高等小学校(卒業)
前職 労働運動家
所属政党社会民衆党→)
社会大衆党→)
(無所属→)
翼賛政治会→)
(無所属→)
日本社会党→)
右派社会党→)
(日本社会党→)
(社会クラブ→)
民主社会党(名称変更し民社党
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
勲一等瑞宝章
配偶者 西尾 フサノ

内閣 芦田内閣
在任期間 1948年3月10日 - 1948年7月6日

内閣 片山内閣
在任期間 1947年6月1日 - 1948年3月10日

日本の旗 衆議院議員(7-14期)
選挙区 大阪府第2区
当選回数 8回
在任期間 1952年10月2日 - 1972年11月13日

日本の旗 衆議院議員(5-6期)
選挙区大阪府第1区→)
大阪府第2区
当選回数 2回
在任期間 1946年4月11日 - 1948年12月23日

日本の旗 衆議院議員(4期)
選挙区 大阪府第4区
当選回数 1回
在任期間 1942年5月1日 - 1945年12月18日

その他の職歴
日本の旗 衆議院議員(3期)
1937年5月1日 - 1938年3月23日
日本の旗 衆議院議員(1-2期)
1928年2月21日 - 1932年1月21日
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西尾末広

西尾 末広(にしお すえひろ、1891年(明治24年)3月28日 - 1981年(昭和56年)10月3日)は、日本労働運動家政治家

副総理内閣官房長官第2代)、(民社党の前身)民主社会党委員長(初代)などを歴任し戦前・戦中・戦後と通算30年を超える日本の国会議員在職(衆院当選14回)した。

来歴・人物[編集]

香川県香川郡雌雄島村(現・高松市)の女木島(通称「鬼が島」)の出身。なお、高松市は同じく日本社会党の最高幹部となる成田知巳の出身地でもある。

柴山高等小学校卒業後、14歳で大阪砲兵工廠の旋盤工見習を皮切りに各地の工場で働く。住友鋳鋼場職工から労働運動に身を投じ、住友鋳鋼場、大阪電灯藤永田造船所、川崎・三菱造船所争議などの争議の指導と検束を繰り返す。1919年(大正8年)に友愛会に入り松岡駒吉に接近、1926年(大正15年)には社会民衆党の結成に参加した。

1928年(昭和3年)、第1回普通選挙で社会民衆党から立候補し、初当選。1932年(昭和7年)以降は社会大衆党に所属し幹事に就任した。1938年(昭和13年)3月16日衆議院本会議における国家総動員法案の審議に際し、同法案を支持する立場から、近衛文麿首相に対し「ヒトラーのごとく、ムッソリーニのごとく、あるいはスターリンのごとく、確信に満ちた指導者たれ」と激励する。全体主義的独裁者への共鳴を示したが、社会大衆党を好ましく思っていなかった政友会民政党の両党によりスターリンの名を肯定的に挙げた部分が問題とされ、衆議院で除名決議において賛成320票・反対43票で88%の賛成を得て、西尾は議員を除名された(翌年の補欠選挙で復活)。

1940年(昭和15年)3月、斎藤隆夫が行った反軍演説の議員除名問題では、反対の立場を示し衆議院本会議を欠席する。社会大衆党書記長麻生久による幹部除名策略によって党首安部磯雄水谷長三郎らとともに党除名処分を受けた。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では非推薦で当選する。翼賛政治会大日本産業報国会と距離を置き、密かに東條英機内閣の倒閣運動にも加わった。その結果、戦後の公職追放を免れた。

1945年(昭和20年)の政党復活で日本社会党に所属し社会党右派の中で頭角を表した。これより先、保守政治家の鳩山一郎らと共同での新党設立を協議したが、互いの支持者の意向を踏まえて「政治的余韻を残したままで別れた」(西尾末広『西尾末広の政治覚書』)。1946年(昭和21年)、片山哲委員長の下で書記長に就任。1947年(昭和22年)、第23回衆議院議員総選挙で社会党が衆議院第一党になったと聞かされた時には思わず「本当かい、そいつぁえらいこっちゃ」と本音を漏らしている。西尾は社会党が政権を担当するのに準備不足ということを考えていたため、非社会党首相を擁立しつつ、閣僚は社会党を多数擁立する内閣を想定していた。具体的には、自由党吉田茂内閣続投を想定していたが、吉田は容共社会党左派を嫌い、排除を要求してきた。その結果、吉田続投路線は見送られた。

社会党首班政権の片山内閣が組閣された際には、内閣官房長官として入閣。翌年の芦田内閣では副総理に就任するが、土建献金証人喚問を受けた。その後、副総理を辞任するも昭和電工事件で10月に逮捕された。献金問題では証人喚問において「書記長である西尾末広個人がもらった」と主張、社会的な非難を受けるが自らの主張を貫き両事件とも(私選弁護人三輪寿壮の手腕もあり)無罪を勝ち取った。

1952年(昭和27年)、西尾は第25回衆議院議員総選挙で旧大阪2区で右派社会党元職候補として当選し国会議員に返り咲くが、社会党が左右両派に分裂し右派社会党に所属した。また、1954年9月には、「全国遺族等援護会」が設立された。名誉会長宇垣一成を据え、砂田重政が会長に就任し、中山マサ堀内一雄須磨弥吉郎橋本龍伍曾禰益三宅正一らが副会長、西尾自身も一萬田尚登、石橋湛山安井誠一郎松村謙三藤山愛一郎今村均河辺正三鈴木孝雄西尾寿造岡村寧次下村定寺岡謹平らと共に顧問を務めることになった。全国遺族等援護会は、遺族や傷痍軍人への援護を図るとともに、戦没者に対する慰霊顕彰の推進を目指していたが、結果的に千鳥ケ淵戦没者墓苑が西尾の68歳の誕生日1959年(昭和34年)3月28日に開園。

1955年(昭和30年)、左右両派の革新統一日本社会党が結党されるも役職には就かなかった。1959年(昭和34年)の第4回参院選で社会党が敗北(議席そのものは増えたが、自民党が大勝した)すると、左派からは社共共闘で行くべきとの主張が上がった。反共主義の立場を取る西尾はこれに反発し、党内に社会党再建同志会を結成。それが新党へ繋がって行く。西尾・の理想は、政権交代可能な健全な社会主義政党を築くことであった。従って、安保闘争においても代案を用意すること、さらに共産党の排除を主張した。しかし、当時の社会党には西尾の主張は受け入れられず、12月に西尾は自ら社会党を離党し除名処分、社会クラブを結成。

1960年(昭和35年)1月24日九段会館で民主社会党の結党大会を開催(衆院40・参院17)。初代委員長に就任し片山哲が最高顧問に就任。安保国会では、社共両党と同様に反対姿勢で取り組むが安保以外の予算案や政府自民党案に同調する構えを見せる。新安保条約の自然発効後、自民党の福田赳夫から、岸信介の後継首相への誘いを受けた。西尾を立てることで、民社・社会両党を巻き込んだ自公民路線挙国一致内閣を狙ったものだが、西尾が断ったため幻となった。

同年の衆院選では議会主義擁護を掲げ、社会党と対決姿勢を取った。しかし、10月12日日比谷公会堂浅沼稲次郎暗殺事件が起こると「しまった」と言ったという。社会党に同情が集まることを恐れたのである[1]。結果、第29回衆議院議員総選挙では23議席減の17議席で完敗。厳しい船出となった。しかしその後、党勢は次第に回復増大、

1965年(昭和40年)の日韓国会では、自民党と共に基本条約を強行採決するという荒業を見せた。1966年(昭和41年)、社会党に「民社党は第二保守党だ」と批判されると、西村栄一書記長に「社会党は第二共産党だ」と反論させた。1967年(昭和42年)1月第31回衆議院議員総選挙では30議席を確保、野党勢力の一角を形成することに成功し西尾自身も旧大阪2区で13度目の当選果たしたが同年6月委員長を退任し常任顧問に就任し、西村書記長を後任に指名した(翌々年1969年<昭和44年>11月民社党に名称変更、翌12月の第32回衆議院議員総選挙は西尾自身は旧大阪2区で14度目の当選果たした)。

1971年(昭和46年)4月27日西村が国会議員及び民社党委員長在職のまま東京慈恵医大病院にて死去。 民社党葬がカトリックの様式により東京・青山葬儀所で執り行われた。西尾は葬儀委員長を務めた。

1972年(昭和47年)第33回衆議院議員総選挙で西尾自身は不出馬で政界を引退西村真悟は当時24歳で京大法学部在学中、(当時小学5年吉田治の在住する城東区含む)旧大阪2区では全国区選出参院議員中村正雄が鞍替え出馬も次点、旧大阪5区では西村の甥の前府議西村章三が次点、旧大阪5区では同年急逝の岡沢完治の後継の前豊中市議中野寛成が次点、旧埼玉1区では西尾の秘書だった和田一仁が69年と合わせて二回連続で落選し後に旧埼玉5区に移し初当選。

西尾は西村・春日一幸両委員長時代も常任顧問として健在したが国会議員勇退の翌々年1974年(昭和49年)病に倒れ、1981年(昭和56年)10月3日、脳内出血と腎不全のため90歳で死去した(死去時点でも佐々木良作委員長の下で常任顧問務めていた)。

エピソード[編集]

座右の銘は「百折不撓」

西尾は「この道が正しいと思ったら、勇気をもって、常にはっきり直言する。これが私の流儀である」という言葉を残している。

「政権を取らない政党は、ネズミを捕らぬネコと同じだ」民社党結党大会の十日後の2月3日の結党記念講演で初代委員長に就任した西尾はこのように政権獲得意欲を表明した。

知る人ぞ知る逸話として、日本経済新聞紙上にペンネームで映画評論を執筆しては投稿する程のシネ・フィルであったという。1967年(昭和42年)の民社党委員長退任時、NETテレビ(現・テレビ朝日)のモーニングショーに出演中、委員長辞任を生放送のスタジオで告白。司会の木島則夫(後に木島自身も民社党から出馬している)らが呆気に取られる中、「僕の好きな『ローハイド』のテーマをリクエストします」と言い放ち、BGMの流れる中、西尾はスタジオを後にした。(退任を決意した要因の一つに新人対決の1967年東京都知事選挙松下正寿を自民党と共同推薦で擁立も社共共闘美濃部亮吉に敗北した事も有った)

西尾が創立に尽力した民社党は西尾逝去の13年後1994年12月9日(新進党結党大会前日)解党し継承政治団体・民社協会結成されたが、(1997年12月31日新進党分党後の民社協会は、長らく民主党・民進党・旧国民民主党の党内グループだった時期を経て)2020年9月15日設立の(極左暴力集団・日本共産党との連携・共闘に反対する国会議員が結集した)新・国民民主党には民社協会幹部たる国会議員も加入する唯一の政党となり民社党の四半世紀ぶりの復活版・リメイク版という見方・捉え方されている。

著書・評伝[編集]

  • 『西尾末広の政治覚書』 毎日新聞社、1968年 - 口述、執筆は宮内勇
  • 『大衆と共に 私の半生の記録』 日本労働協会、1971年
  • 加藤日出男『風雪の人 西尾末広 静かに燃えた政界一番星』根っこ文庫太陽社、改訂版1982年
  • 梅澤昇平『安部磯雄と西尾末廣-日本民主社会主義の系譜』、2016年、桜那書房

脚注[編集]

[脚注の使い方]
  1. ^ 日比谷公会堂では民社、社会、自民の3党首演説会が行われており、西尾、浅沼、池田勇人の順で演説を行う予定となっていた。西尾が凶報を耳にしたのは、演説が終わり一足先に退席した帰路のことであった。なお、池田の演説は中止になった。

関連項目[編集]

公職
先代:
芦田均
日本の旗 国務大臣副総理
1948年
次代:
林譲治
先代:
林譲治
日本の旗 内閣官房長官
第2代:1947年 - 1948年
次代:
苫米地義三
党職
先代:
結成
民主社会党委員長
初代 : 1960年 - 1967年
次代:
西村栄一