西村友晴

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西村 友晴
生誕 1908年7月
日本の旗 日本 福岡県
死没 1994年11月13日
所属組織 Naval Ensign of Japan.svg 大日本帝国海軍
Flag of Coastal Safety Force of Japan 2012-03-04.jpg 警備隊
Naval Ensign of Japan.svg 海上自衛隊
軍歴 1931 - 1945(帝国海軍)
1952 - 1954(警備隊)
1954 - 1966(海自)
最終階級 OF-4 - Kaigun Chusa.gif 海軍中佐(帝国海軍)
JMSDF Admiral insignia (a).svg 海上幕僚長たる海将(海自)
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西村 友晴(にしむら ともはる、1908年明治41年)7月 - 1994年平成6年)11月13日)は、日本海軍軍人海上自衛官海軍兵学校卒業(第59期)。第6代海上幕僚長

略歴[編集]

福岡県出身。築上中学を経て、海軍兵学校に第58期生として入校するが、生徒時代に体調をこわしたため、第59期として卒業する[1]1931年昭和6年)11月、「浅間」に乗艦し遠洋航海に参加。終了後は、巡洋戦艦霧島」に乗組[2]。その後も海上勤務を重ねるが、1938年(昭和13年)8月、海軍特別陸戦隊中隊長として漢口攻略に従軍。攻略目前で負傷のために戦列を離れる[2]

太平洋戦争中は、戦艦「長門」副砲長、第三戦隊参謀を経て、1943年(昭和18年)6月、軽巡洋艦長良」砲術長に着任。同年12月5日、クェゼリン環礁ルオットに向かっていた長良は、マーシャル諸島に来襲した敵機動部隊の艦上機約50機に襲われ、至近弾により搭載魚雷が誘爆し大破、戦死者48名・負傷者112名を出した[3]。クェゼリン環礁内で、工作艦「山霜丸」による応急修理を受けた長良はトラックに入港し、艦長以下の負傷者を病院船氷川丸」に移乗させ、先任将校となった西村が長良の指揮権を継承した[3]。西村は、大破して艦尾を失っている駆逐艦「長波」を曳航して、長良を内地に回航することを命じられた[3]。長波を曳航すれば速力が低下するため、敵潜水艦が跳梁する中で不可能に近い任務と思われたが、西村は、長良・長波の両艦を内地に回航することに成功した[3]

その後、重巡洋艦愛宕」砲術長に転じるが、愛宕はレイテ沖海戦に出撃する途中、敵潜水艦の雷撃により沈没。西村は海上を漂流したのち、友軍艦艇に救助されて内地への生還を果たす。終戦は佐世保鎮守府参謀として本土決戦の計画立案中に迎えた。戦後は復員局で勤務したのち、1952年(昭和27年)8月、保安庁警備隊に入隊。第2護衛隊司令(1等海佐)在任中の1955年(昭和30年)5月、日米艦艇貸与協定に基づき供与された掃海艇の受領のためフィリピンスービック湾に向かった。この受領に係る作業を日本側だけで手際よくこなしアメリカ側を驚嘆させたという。また、この当時は台湾に逃れた中華民国国軍と大陸側の中国人民解放軍とのあいだで金門島馬祖島を巡り交戦中であった。交戦海域を直接通過する航路ではなかったが、万が一の事態に備えて砲側に実弾を用意し、警戒配備をとりつつ航行し、「いざという時の心構え」を指導したという。

年譜[編集]

栄典[編集]

  • US Legion of Merit Commander ribbon.png レジオン・オブ・メリット・コマンダー - 1965年(昭和40年)2月
  • JPN Zuiho-sho (WW2) 2Class BAR.svg 勲二等瑞宝章 - 1978年(昭和53年)11月3日

脚注[編集]

  1. ^ 水交誌485号(平成7年5月,P6)
  2. ^ a b 水交誌208号(昭和45年10月,P10-11)
  3. ^ a b c d 吉田俊雄『日本海軍のこころ』文藝春秋、2000年12月。ISBN 4-16-356900-6。36-38頁「軽巡長良の苦闘」
  4. ^ 昭和12年11月15日 海軍辞令公報 号外 第91号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500 
  5. ^ 昭和12年12月1日 海軍辞令公報 号外 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700 
  6. ^ 昭和13年8月5日 海軍辞令公報(部内限)号外 第221号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074200 
  7. ^ 昭和13年11月1日 海軍辞令公報(部内限)号外 第256号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072074500 
  8. ^ 昭和14年7月29日 海軍辞令公報(部内限) 第363号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072076100 
  9. ^ 昭和15年5月1日 海軍辞令公報(部内限)第472号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072078000 
  10. ^ 昭和15年9月2日 海軍辞令公報(部内限)第521号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072078800 
  11. ^ 昭和16年5月16日 海軍辞令公報(部内限)第639号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072081100 
  12. ^ 昭和17年1月12日 海軍辞令公報(部内限)第791号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072083800 
  13. ^ 昭和17年11月1日 海軍辞令公報(部内限)第974号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072087700 
  14. ^ 昭和17年11月16日 海軍辞令公報(部内限)第988号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072088200 
  15. ^ 昭和18年6月1日 海軍辞令公報(部内限)第1131号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072091300 
  16. ^ 昭和19年3月2日 海軍辞令公報(部内限)第1354号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096400 
  17. ^ 昭和19年3月20日 海軍辞令公報(部内限)第1382号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072096800 
  18. ^ 昭和19年4月10日 海軍辞令公報(部内限)第1418号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072097200 
  19. ^ 昭和19年11月13日 海軍辞令公報 甲 第1642号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072101900 
  20. ^ 昭和19年12月23日 海軍辞令公報 甲 第1677号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072102300 
  21. ^ 昭和20年9月11日 海軍辞令公報 甲 第1908号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072107300 
  22. ^ 昭和20年12月18日 第二復員省辞令公報 甲 第15号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100 
  23. ^ 昭和20年12月21日 第二復員省辞令公報 甲 第18号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072162100 
  24. ^ 昭和21年1月28日 第二復員省辞令公報 甲 第45号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072162300 
  25. ^ 昭和22年3月28日 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第153号 (防衛省防衛研究所)』 アジア歴史資料センター Ref.C13072160300 
  26. ^ 『官報』本紙第7915号(昭和28年5月27日)
  27. ^ 『官報』号外第87号(昭和53年11月6日)
  28. ^ 水交誌483号(平成7年3月,P43)

参考文献[編集]

  • 世界の艦船』2002年5月増刊号 海上自衛隊の50年(海人社)