西陣南帝

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西陣南帝(にしじん なんてい/にしじん の なんてい、享徳3年(1454年)? - 没年不詳)は、後南朝最後の天皇小倉宮を称していた。は不明であり、この南朝皇胤がどのような系譜をたどるのかも定かではない。

第二次大戦後に現れた自称天皇の熊沢寛道は、この西陣南帝の子孫を自称している。熊沢によると、西陣南帝は「熊野宮信雅王」を名乗ったとされるが、これは定かではない。

生涯[編集]

文明元年(1469年)11月、応仁の乱のさなか、奥吉野と熊野で南朝皇胤を称する兄弟の蜂起があり、年号を明応元年と制定していた[1][2]森茂暁はその実態は不明であるが、年号を使っていたという情報がある以上、実質を備えた蜂起であった可能性が高い、と述べている[1]

『大乗院寺社雑事記』によると、「西方新主は小倉宮御息、十八歳に成り給ふ」「小倉宮御末、岡崎前門主御息かと云々、法躰の御事なりと云々」と記されていることから、この南朝皇胤は小倉宮の末裔だと考えられている[3][2]。また、この南朝の後胤は当時の記録から逆算すると、享徳3年(1454年)の生まれであるとされる[4]

文明2年(1470年)2月末、南朝皇胤は紀伊国有田郡の宇恵左衛門のもとで旗上した[2]。さらに3月8日には同国海草郡藤白に移ると、郡のものがほとんど味方したとされる[2]。同月月下旬には大和国に入り、南方の旗が越智郷を上って、橘寺の辺りを通過していた[3][2]

同年5月、山名宗全をはじめとする西軍の大名たちがこの南朝皇胤を擁立し、禁裏に迎え入れようとしているとの噂が立っている[5][2]。これは当時、東軍が後土御門天皇後花園上皇を擁しており、それに対抗するためであった。このとき、西軍の大名の中で畠山義就だけは自身の所領が南朝皇胤の所領と重なるので難色を示したが、翌6月に義就は諸大名や足利義視に説得されて了承した[5][2]

文明3年(1471年)8月26日、西軍諸将の要請をうけた南朝皇胤が入洛し、北野松梅院に入った[2]。この南朝後胤は「新主」として扱われていたが、足利義視は畠山義就を説得していたにもかかわらず、「新主」の擁立に同心していなかったとされる[4]

文明5年(1473年)3月18日、西軍大将の山名宗全が死に、東軍と西軍が和議に向かっていったこともあって、南朝皇胤は西軍から放擲されてしまった[6][2]。これは足利義視が「新主」の擁立を快く思っておらず、非協力的であったことも理由と考えられる[6]

その後、南朝皇胤は各地を放浪したようであり、文明11年(1479年)7月19日に越後から越前に到達したことを最後に史料から姿を消した[7][8]。同時に後南朝に関する記録もなくなり、歴史からは姿を消した。

脚注[編集]

  1. ^ a b 森 1997, p. 234.
  2. ^ a b c d e f g h i 西陣南帝
  3. ^ a b 森 1997, p. 236.
  4. ^ a b 森 1997, p. 237.
  5. ^ a b 森 1997, p. 235.
  6. ^ a b 森 1997, p. 238.
  7. ^ 森 1997, p. 239.
  8. ^ 『晴富宿禰記』には「小倉宮ノ王子、越後ヨリ越前二到ラセラル」とある。

参考文献[編集]

  • 森茂暁『闇の歴史 後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉』〈角川選書〉、1997年。

関連項目[編集]