西陣大映

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西陣大映
Nishijin Daiei
種類 事業場
市場情報 消滅
本社所在地 日本の旗 日本
602-8294
京都府京都市上京区千本
中立売上ル東入ル東西俵屋町647番地
設立 1911年
業種 サービス業
事業内容 映画の興行
代表者 代表 藤本正男
支配人 永久保シゲ子
主要株主 藤本興業株式会社
関係する人物 大蝶浩志
藤本正男
永久保シゲ子
特記事項:略歴
1911年 寄席福の家として開館
1940年11月 映画館化・新興映画劇場と改称
1942年 西陣大映劇場と改称
1991年 休館
1992年 シネ・フレンズ西陣として再開
2005年5月31日 閉館
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西陣大映(にしじんだいえい)は、かつて存在した日本の映画館である[1][2][3]

1911年(明治44年)、京都府京都市上京区西陣京極寄席福の家(ふくのや)として開館した[1][4]。1940年(昭和15年)に映画館に業態を変更して新興映画劇場(しんこうえいがげきじょう)、次いで1942年(昭和17年)には西陣大映劇場(にしじんだいえいげきじょう)と改称した[1][5][6]。戦後は、國際映画劇場(こくさいえいがげきじょう)、西陣大映国際劇場(にしじんだいえいこくさいげきじょう)等の名称を経た[7][8][9][10]。1991年(平成3年)従来の経営者が撤退・休館、1992年(平成4年)には経営が変わりシネ・フレンズ西陣として再開した[11][12]五番町千本日活とともに西陣地区最後の映画館として知られた[1]

沿革[編集]

  • 1911年 - 寄席福の家として開館[1][4]
  • 1940年11月 - 映画館に業態を変更、新興映画劇場と改称[1][5]
  • 1942年 - 西陣大映劇場と改称[1][6]
  • 1950年前後 - 國際映画劇場と改称[7][8]
  • 1963年前後 - 西陣大映と改称[2]
  • 1991年 - 従来の経営者が撤退・休館[11]
  • 1992年 - 経営が変わりシネ・フレンズ西陣として再開[12]
  • 2005年5月31日 - 閉館

データ[編集]

概要[編集]

1911年(明治44年)、京都府京都市上京区千本中立売上ル東入ル東西俵屋町647番地に福の家として開館する[1][4]。同館は新京極の福の家同様に、芸人が芸を披露する寄席であった[1][4]。明治末から大正初期にかけて、東に西陣京極、西に五番町を擁するこの千本通は、1912年(大正元年)に京都市電千本線が開通し、当時同館のほか、千本座(経営・牧野省三、1901年開館、のちの千本日活館)、朝日座(1910年開館、のちの千中劇場)、京極座(1910年開館、のちに東映直営の西陣東映劇場)、長久亭(1911年開館、のちの京都長久座)、大黒座(1920年開館、のちの西陣キネマ)といった芝居小屋・寄席が次々に開業し、新京極につぐ歓楽街として発展する時期にあった[1][4]。1912年(大正元年)に千本座が日活の直営館になり映画常設館に業態変換(映画館化)したように[1][13]、これらの実演劇場は追って映画館に変わっていった[1]

1940年(昭和15年)12月、同館は映画館に業態変換、松竹映画の二番館として営業を開始した[1]。追って当時松竹傘下であった新興キネマの上映館に変わり、新興映画劇場と改称している[5]第二次世界大戦が始まり、戦時統制が敷かれ、1942年(昭和17年)1月27日、新興キネマは日活の製作部門、東京の大都映画と合併して大日本映画製作株式会社(大映)を設立するにともない、同館は大映の直営館になり、同年、西陣大映劇場と改称している[6]。同じく戦時統制によって同年、日本におけるすべての映画が同年2月1日に設立された社団法人映画配給社の配給になり、映画館の経営母体にかかわらずすべての映画館が紅系・白系の2系統に組み入れられるが、『映画年鑑 昭和十七年版』には同館の興行系統については記述されていない[5]。当時の同館の支配人は池熊猪、観客定員数は370名であった[5][6]。当時の西陣地域の映画館は、同館のほか、千本座(千本通一条上ル、経営・日活)、昭和館(千本通下長者町上ル、経営・松竹、のちの西陣松竹および西陣昭和館)、西陣キネマ(西陣京極町、経営・佐々木菊之助)、千船映画劇場(千本通鞍馬口下ル、経営・原田喜盛)、京都長久座(千本通一条下ル、経営・松竹)、堀川文化映画劇場(東堀川通長者町33番地、経営・五十棲彦一)、西陣帝国館大宮通寺ノ内上ル2丁目、経営・京都土地興行)、富貴映画劇場(大宮通寺ノ内下ル、1942年から大鉄映画劇場、経営・大阪鉄道)の8館が存在した[5][6]。『上京 史蹟と文化』(1992年第2号)では、「新興映画劇場」は京極座の後身であり、戦後には西陣東映劇場になった、としているが[1]、同時代の資料とは合致しない[5][6]

戦後は、1950年(昭和25年)前後には國際映画劇場(西陣国際映画劇場とも)と改称[7][8]、経営は谷口真一の個人経営、支配人は大蝶浩志が務めた[8]。1955年(昭和30年)当時の西陣地区の映画館は、同館や千本日活館(経営・日活)、京都昭和館(経営・松竹)、西陣キネマ(経営・佐々木菊之助)、京都長久座(経営・田村克寛)といった戦前からの映画館のほか、北野劇場(千本通中立売角、経営・京都興行)、西陣劇場(出水通土屋町東入ル、経営・山本邦雄)、東洋映画劇場(土屋町通中立売上ル、経営・山本義雄、のちの西陣東映劇場)、千中劇場(土屋町一条下ル、経営・田中正治)、大宮東宝映画劇場(大宮寺ノ内上ル、京都興行)、文化会館(寺町通丸太町上ル、経営・宇佐美克)、と合計11館が存在した[8]。大映の上映館にもどり、1960年(昭和35年)には西陣大映国際劇場と改称した[9]

1961年(昭和36年)には、支配人の大蝶浩志の個人経営に代ったが[10]、1963年(昭和38年)には、経営が藤本正男の支配人を兼ねた個人経営に代り、西陣大映と改称した[2]。その後、経営は藤本を代表とした藤本興業株式会社に組織化されるが、1988年(昭和63年)に三栄興業株式会社に経営が移るまでの25年間、藤本による経営がつづいた[3]。三栄興業株式会社は、1970年代以来、同館の支配人を務めた永久保シゲ子を代表とし、永久保は引き続き支配人を務めたが、1991年(平成3年)には撤退、休館に入った[11]

1992年(平成4年)には、駒田達郎を代表とする東梅田日活が同館の経営を継承、シネ・フレンズ西陣と改称して営業を再開した[12]。1993年(平成5年)2月22日に公開された成人映画『シネマHOMOパラダイス』(監督・主演山本竜二、製作・配給ENKプロモーション)[14]は、同館をメインにロケーション撮影が行われた[15]

2005年(平成17年)5月31日、閉館した。開館以来94年の歴史に幕を閉じ、西陣地区の映画館は千本日活だけになった。現在、跡地には住宅が建っている。

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 思い出の西陣映画館 その一、『上京 史蹟と文化』1992年第2号、上京区役所、1992年3月25日付、2013年9月27日閲覧。
  2. ^ a b c d e 便覧[1964], p.165.
  3. ^ a b 名簿[1989], p.111.
  4. ^ a b c d e 学区案内 正親学区京都市上京区、2013年9月27日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j 年鑑[1942], p.10-69.
  6. ^ a b c d e f g h 年鑑[1943], p.472.
  7. ^ a b c d 年鑑[1951], p.116.
  8. ^ a b c d e f g h i 便覧[1956], p.121.
  9. ^ a b 便覧[1960], p.185.
  10. ^ a b c 便覧[1962], p.181.
  11. ^ a b c d e 名簿[1992], p.100.
  12. ^ a b c d e f g 名簿[1993], p.92.
  13. ^ 千本座立命館大学、2013年9月27日閲覧。
  14. ^ シネマHOMOパラダイス日本映画データベース、2013年9月27日閲覧。
  15. ^ シネマHOMOパラダイス、ENKプロモーション、2013年9月27日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
  • 『映画年鑑 1951』、時事映画通信社、1951年
  • 『映画便覧 1956』、時事映画通信社、1956年
  • 『映画便覧 1960』、時事映画通信社、1960年
  • 『映画便覧 1962』、時事映画通信社、1962年
  • 『映画便覧 1964』、時事映画通信社、1964年
  • 『映画年鑑 1989 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1989年発行
  • 『映画年鑑 1992 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1992年発行
  • 『映画年鑑 1993 別冊 映画館名簿』、時事映画通信社、1993年発行

関連項目[編集]

画像外部リンク
シネ・フレンズ西陣
2002年9月19日撮影