覇陵県

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中国地名の変遷
建置 秦代
使用状況 北周に廃止
芷陽県
前漢 覇陵県
水章県
後漢 覇陵県
三国 覇陵県
西晋 覇城県
南北朝 覇城県
廃止(北周)

覇陵県(はりょう-けん)は、紀元前171年から紀元3世紀頃まで、中国の代にあったの一つである。前漢の都長安の東[1]、現在の陝西省西安市灞橋区にあった。

歴史[編集]

もと芷陽といい、前漢の文帝9年(前171年)に覇陵と改称した。覇は近くを流れる覇水に由来し[1]、そこに造ることを決めた陵墓の名が覇陵、置いた県が覇陵県である。

史記』漢興以来将相名臣年表には、文帝9年に芷陽郷をもって覇陵となすとある[2]。覇陵県以前に芷陽は県でなく郷であったと読める。『漢書』地理志には、覇陵はもと芷陽といい、文帝が名をあらためたとある[3]。この覇陵は県のことなので、文帝が置くと記さない以上、それ以前も県だったと読める。いずれにせよ芷陽県の有無は明記されていないので、覇陵県新設とするか芷陽県改称とするかは解釈が分かれる[4]。文帝はその後元7年(前157年)7月に死に、覇陵に葬られた。

覇陵県ははじめ内史の管轄で、建元6年(前135年)に内史が左右に分割されたとき右内史の管轄とされ、太初元年(前104年)に右内史が京兆尹と改称した[5]

天鳳元年(17年)4月、京兆尹は廃止され、覇陵県は新設の光尉郡の下に置かれた[6]。また、年は不明だが水章県(すいしょうけん)と改称した[3]

後漢でまた覇陵県の名に戻り、引き続き京兆尹に属した。覇陵県の下には枳道亭と長門亭があった[7]

代までに覇城県に改称した[8]

行政長官[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『三輔黄図』巻之六。陳直『三輔黄図校証』143頁。何清谷『三輔黄図校釈』366頁。
  2. ^ 『史記』漢興以来将相名臣年表、文帝9年。
  3. ^ a b 『漢書』地理志第8下。ちくま学芸文庫『漢書』3、277頁。、
  4. ^ 『史記』前掲箇所(名臣年表文帝9年)への司馬貞史記索隠』注は、『漢書』地理志をよりどころにして芷陽県があったとする。『嘉慶重修一統志』も、秦代の芷陽県を記す(四部叢刊続編『大清一統志』 (14)、西安府表1頁)。陳力「漢の長安城周辺の集落」(11頁)は、文帝9年新設とする。
  5. ^ 『漢書』地理志第8下。ちくま学芸文庫『漢書』3、276頁。
  6. ^ 『漢書』王莽伝第69中、天鳳2年4月条。ちくま学芸文庫『漢書』391 - 392頁。『三輔黄図』巻之一、三輔治所。陳直『三輔黄図校証』5頁。何清谷『三輔黄図校釈』13頁。
  7. ^ 『後漢書』志第19、郡国1。
  8. ^ 『晋書』巻14・志4地理上、雍州京兆郡に覇城県があるが、改名の時期については記載がない。『嘉慶重修一統志』西安府表には、三国時代に覇陵県、晋代に覇城県に改称と記されている。

参考文献[編集]

  • 司馬遷史記』。
  • 班固漢書』。小竹武夫訳注『漢書』1 - 8、筑摩書店(ちくま学芸文庫)、1998年。
  • 范曄後漢書』。
  • 作者不明『三輔黄図』。陳直『三輔黄図校証』、陝西出版社、1980年。何清谷『三輔黄図校釈』、中華書局、2005年。
  • 房玄齢他『晋書』。
  • 『嘉慶重修一統志』(大清一統志)。『四部叢刊』続編、上海書店、1984年。商務院書館1934年版の重版。
  • 陳力「漢の長安城周辺の集落」、『阪南論集』(人文・自然科学編)、第38巻1号、2002年10月。
  • 中央研究院漢籍全文資料庫」、2017年6月閲覧。