趙固

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 固(ちょう こ、? - 319年)は、中国西晋から五胡十六国時代の人物。

生涯[編集]

漢(後の前趙)に仕え、安北将軍の地位にあった。

309年8月、漢の車騎将軍劉聡征東大将軍王弥洛陽を攻撃すると、龍驤大将軍劉曜らと共にその後詰となった。漢軍は東海王司馬越が派遣した平北将軍曹武らを破り、続けざまに平昌公司馬模が派遣した淳于定らも撃退したが、弘農郡太守垣延の夜襲を受け、大敗して帰還した。

12月、曲陽王劉賢・征北大将軍劉霊・平北将軍王桑と共に内黄へ進み、ここに駐屯した。やがて安北大将軍に昇進した。

310年7月、車騎将軍劉聡・龍驤大将軍劉曜・平東大将軍石勒・平北大将軍王桑らと共に河内を包囲した。河内の住民は河内郡太守裴整を捕らえて降伏した。

311年4月、王桑と共に彭城を攻め、これを降して西晋の徐州刺史裴盾を討ち取った。

312年4月、王弥が漢の鎮東大将軍石勒に滅ぼされると、趙固と王桑は石勒の襲撃を恐れ、兵を率いて平陽(漢の首都)に帰ろうと考えた。だが、軍中では糧食が欠乏し、士卒は互いに食い合うまでに至ったので、ひとまず碻磝津を渡って西に進むと、河北の郡県を略奪して回った。西晋の并州刺史劉琨は兄の子の劉演魏郡太守に任じてを守らせ、趙固らを阻ませた。彼らは劉演の襲撃を恐れ、王桑の長史臨深を人質として晋陽に送り、劉琨へ帰順を願い出た。劉琨はこれを受け入れ、趙固は雍州刺史に任じられた。

6月、趙固らは再び漢に帰順しようと思い、漢帝劉聡に救援を依頼した。劉聡はこれに応じて鎮遠将軍梁伏疵を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑の長史臨深と将軍牟穆が反旗を翻し、兵1万を率いて西晋の魏郡太守劉演に投降してしまった。趙固は梁伏疵と合流して西に向かったが、王桑は漢に帰順するのを止め、兵を率いて東の青州に逃走した。趙固は兵を派遣して王桑を追撃し、曲梁で討ち取った。王桑の残兵は張鳳に率いられて劉演に投降した。その後、趙固は劉聡により荊州刺史・河南郡太守に任じられ、洛陽の鎮守を命じられた。

317年8月、東晋衛将軍華薈を臨潁で撃破し、その首級を挙げた。

これより以前、趙固はその長史周振と対立するようになると、周振は密かに趙固を讒言するような上奏をした。その為、劉聡は将軍劉暢に東晋の冠軍将軍李矩の討伐を命じた際、討伐した後に洛陽へ向かい、趙固を処断した上で周振をその後任とするよう命じていた。だが、劉暢は李矩に敗れて逃走し、李矩は彼の陣営から趙固誅殺の件に関する書簡を手に入れると、この書を趙固の下へ送った。趙固はこの書を読むと周振とその子を処断し、千の騎兵を率いて李矩に帰順した。李矩は彼に引き続き洛陽を守らせた。

12月、東晋の河内郡太守郭黙と共に漢領である河東へ侵攻した。絳県まで到達すると、右司隷の民3万人余りが牧馬を盗んで妻子を引き連れ、趙固の下に亡命してきた。だが、漢の騎兵将軍劉勲がこれを追撃して1万人余りを殺害すると、趙固らは兵を退いて帰還した。漢の将軍劉頡はこれを追撃したが、趙固は返り討ちにした。

同月、漢の皇太子劉粲は将軍劉雅を始め歩騎10万を率いて趙固討伐に向かった。この時、趙固は「劉粲を捕えて天子を取り返すのだ」と述べ、平陽に捕らわれていた愍帝の奪還を宣言した。劉聡はこれを知って不快に思い、やがて愍帝を処刑している。劉粲は小平津の北岸に駐屯し、劉雅に兵を分け与えて洛陽を攻撃させた。趙固は抗しきれずに陽城山に逃亡すると、弟を派遣して李矩に救援を要請した。

318年3月、李矩はこれに応じ、郭黙・郭誦を派遣して洛口に駐屯させた。郭誦らは夜襲を仕掛けて劉粲を陽郷まで撤退させたが、その後増援が到来すると撤退した。

319年、趙固は亡くなった。原因は不明である。

参考文献[編集]

脚注[編集]